相違滅裂
とても不思議な体験をした。
一言で率直な気持ちを表すのであれば、その言葉はまさにそれに当てはまるに違いない。
火の付いた闘争心は風に煽られ寸前の灯と化し、気って落とされたはずの火ぶたはでしゃばるだけで空振りを起こす。加えて雄叫びを上げながら突進した身体は、突き立てた拳に一切の音を立てることなく空を切って静止。
生死の分目を分けたとされる瞬間に、あろうことか乱入し停戦をかってでる。危害という、害の文字すらない。味方など他に存在していないのが当たり前の状況下で、しかしながらも一命を取り止めたという現実は信也にしてみれば虚位を突かれたようなものだった。
「…っく……っはぁ…はぁ…」
前に進んでも仕方ない以上、止まるしかない。振り上げた拳をゆっくりと下す。まるで熱を帯びた身体に、バケツ一杯に入った冷水を頭から被ったような温度差。
迫りくる死の一時的な離脱による影響か、全身に張っていた緊張の糸がぷつりと途絶えさせてしまった。
気の抜けすぎによる反動で足がもつれ、掴まる場所など付近には存在しないにも関わらず、何かに掴もうと意味もなく両手だけをばたつかせては、しかし結局はみっともない姿でその場の床にしりもちを突く。
敵の目の前で武器も持たずに尻餅をつくなど、戦意喪失、放心状態とはまさにこの事。今であれば恰好の的に相応しいその姿だが、しかし相手は一向に手を出す気配が無い。いや、出せないと表現すべき所だろうか。
停戦は瞬間的なものでなく、尚も滞在を続けているのだから。
「……何の真似だ?」
誰の問いかけに対する内容なのか、直後にノアの拳が壁を殴りつける。しかし全力で振りかざしたであろう拳から、衝撃という振動、威圧という恐怖が遮断されることで伝わってこない。
見た目だけでは判断できないものの、恐ろしく分厚い壁がそびえているに違いない。軽く叩く程度では、振動は勿論、その迫力さえ届くことなく緩和してしまうのだろう。
「ッチィ!」
それだけではない。ノアの発していた炎の渦が、初めから存在しなかったかのように消えている。それなら尚更迫力に欠けるというものだ。
起きた出来事は一瞬。あの状況での確認の余地など殆ど無かった。いや、そもそも一瞬という瞬きの最中で消沈する瞬間など、誰の目にも捉えるなど不可能だ。
だからこそ、突然現れた見えない壁と、ノアが能力を解いた原因が理解できない。
「何が起きたんだ…?」
そういって、信也はただ見たままの感想を口から溢す。呆気にとられながら目の前の光景を呆然と見つめてしまう。
いや、見つめるしか他なかった…と言うべきだろうか。他に何をすればいいのか、この現状はどういったことで起きたのか分からないのだから。
それに光景、と呼ぶのにも些か違うような気もする。のだが…今この場で瞳に映るそれを、一体どう表現すればいいのか言葉が見つからない。
視界には俺と同じで呆気にとられた様子のノアの姿が映る。そして、間には確かにノアを直接映しだしたままで、透明な何かが存在している。
その証拠に宙を泳ぐこの手は触れる。ここに壁があると証明させる、手に伝わる確かな物体の感触と存在の肯定。これ以上押しても、動きも進みもまるでビクともしない壁がそびえている。
とても奇妙なものだ。お互いの指が、拳が触れ合う直前で静止している。さっきまでの争いに休戦を仕掛けるよう、見えない壁がこれ以上の互いの進行を阻害する。
いや、見えない壁…ではない。ただ『透明に見える』からというだけで、見る角度を変えればその正体はすぐに判明する。
手先にじんわりと伝わる冷たい冷気。それは氷結。目の前には何も無いと錯覚してしまう程、恐ろしくも美しく透き通った氷の壁だ。
(…これは…ノアを守るように現れていた防壁の一種…か?)
ノアと対峙していた際、拳に受けた衝撃とあの時感じた違和感は、この防壁を殴っていたものに違いない。
それに多分だが、これに関しての『守る』という概念、能力面に大きな違いはないとは思える。まあ、あくまでも見た、受けたまんまだけでの感想だが、これといった現象も変化もない以上はあっているのではないだろうか。
ただ、何故このタイミングなのか。疑問はそれだけじゃない。どうしてその防壁は尚も消えずに滞在し続けているのか。
「……あぁ?」
先ほどまで浮かべていたノアの表情が、見るからに不機嫌なものへと変化していく。眉が吊り上がり、低くドスの聞いた声を発する。
その見るからに不機嫌な様子に、彼女自身もこの状況が何なのかを理解出来ていないようだった。
指先に当たるその防壁を何度もなぞるように確認する。少しして確認を終えたのか、首を左右に動かして一歩後ろへと下がる。
彼女は一体、何をしようというのか。考える隙も無く、次の瞬間には足裏が視界に映りこんでいた。
「ッらぁ!!」
ノアの張り上げた声とともに、すかさず脚を上に、防壁を蹴り上げるようにして強烈な蹴りをかます。それも適格に信也の顔面へと向けて。
だが、その蹴りは寸のとこで届いてはいない。まるでこの身を守る盾のようにして立ち塞がっているのだから。
「………おいてめぇ…どういうつもりだ…?」
ノアはゆっくりと俺から視線を外し、マナのいる場所とも違う、ある人物がいるであろう箇所へと顔を向ける。
ノアから噴き上がるその強烈な殺気に、俺自身へと向けられたものでは無いと理解しつつも手汗が滲んだ。
音を立てて全身の血の気が引いていき、身体が冷たくなる感覚。マナと出会ったこの短い間で何度も経験し、幾度も味わったこの感覚。殺気に当てられて恐怖している。
いや、そんなのは初めから知っていた。頭では理解していたことだ。それを無理やり抑え込んでいただけで、彼女自身が持つ強さは本物に変わりはない。
殺意という恐怖に当てられ、俺とマナは身動きとれずにただ沈黙の時が流れる。
そしてその沈黙を破ったのは、何十秒、何百秒とも感じられた程に濃い、数秒ほどの間が空いてからのことだった。
「…………これは…違う…の…」
発せられた声はとても弱弱しく、しかし確かに聞き覚えのある声が狭い室内の中で響いた。
「…今の声はッ!?」
声に反応し、俺は咄嗟にノアが向って歩き出した、その方向と同じ方へと顔を向ける。
視界に映り込む人影。そこには確かに存在していた。人ではない、吸血鬼が。
その吸血鬼は少女のようにとても小さく、子供のような幼い外見をしていた。
特徴的な銀髪に蝶の髪飾りを付け、透き通る青の瞳が浮かぶ。水色が象徴的な服を違和感なく着こなしている。
夕べに出会った頃に比べて雰囲気が異なっているが、見た、話した少女と瓜二つの姿。いや、まごうことなき本人そのもので間違いない。
__ッぐ!!
予期していた、出会うことを既に前もって想定していた。それなのに少女を目の前にして揺らぐ。
気分が悪く、嗚咽が込み上げる。有無の言えない痛みが胸に生じ、とても強く肺を圧迫されていた。
恐怖か、畏怖か、何に対してこの身の心音が極限まで高まったというのか。止めようにも鳴り上がる鼓動が収まらず、堪えるよう自分で自分の胸ぐらを締め付けては、訴える胸の痛みを沈静化させようと強く抑えつける。
この感情はまずい。非常にもろく、簡単に左右されてしまっては意味がない。
抱いてしまった負の感情を取り払らわないと、生まれてしまった隙間、その溝に足元を救われ、最後まで泥沼へと引きずり込まれていってしまうから。
誰が相手であろうとも、どんなに不愉快な気持ちになろうとも、時は急かされることなくゆっくりと一瞬の世界を歩み、そのつど選択肢を迫られるのだから。
敵として対立する以上は、少しでも付け入る隙を与えてはならない。
「何が違う、だ? ああ?!」
「…ノアに…危険を感じたから氷壁を張った…だけ…なの…」
「さっきの何処に危険と感じられるものが存在したってんだ!」
静寂だった部屋の中に、二人の会話が響く。
一方はとても弱弱しく、化け物と畏怖される吸血鬼には程遠い、頼りのないか細い声が発せられた。
しかしもう一方は対称面に、込み上げた怒りをまき散らすよう怒声の声を張り上げ続ける。
「……そ、それは…」
ノアの問いに少女はくぐもった声を上げ、そのまま押し黙った。
顔を伏せたまま返事が帰ってくることはなく、沈黙した少女を前にノアはめんどくさそうに舌打ちを鳴らすと俺の居る方向を指さして口を開く。
「…ッチ、まあいい、これに関しての追及は後だ。それよりも先に、このくそ邪魔くせぇ氷壁をさっさと消すんだな」
そういって、ナノから視線を外すと再び信也に向かって歩き出す。
脱力していた身体に、再び緊張が走った。
(…やっぱ…そうなるよな…!)
理由はともあれ、幸いにも既に損傷した箇所は吸血鬼の再生によって治り、腕も元通りになっている。
だが、それでどうにかなる相手か。ノアの発した殺気に怖気ついていた自分が勝てるはずもない。
「…ぅ」
ふらふらとおぼつかない足取りで立ち上がる、マナから漏れた小さなうめき声。その声を聞いて、目覚めたように拳に力を込める。
ここでやらなければ、マナの身に危機が迫ってしまう。それだけは避けなくてはならない。
例え結果が駄目なのだとしても。それでもやらなきゃいけない。勝てないとしても、勝たなくてはいけないんだ。
「……しっかし…お前、人間じゃなく吸血鬼だったんだな? 何処にでもいる普通の人間のように馴染んで生活してたもんだから、全く気が付かなかったぜ」
そういって、ノアは近寄ってくる。
「…ナノ、もう消していいぞ」
「…………」
ただし、そんな彼女の意思とは裏腹に休戦は尚も続いていた。
彼女がいくら近づこうとも、一定の境界線を越えることは許されず、信也が手を出せないよう、彼女もまた手を出すことはできない。
咄嗟に身構えた信也が困惑したように、彼女もまた戸惑いを隠せてはいなかった。
困惑した面持で振り返り、ナノに向かって再び声を掛ける。
「おい、聞こえなかったのか? さっさとこれを消しな」
「…………」
問いに対しての反応は無言。聞こえていないというよりは、聞こえてはいるが聞こえていないふりをしている様子が伺える。
当然、そのような反応を返されて喜ぶ者など存在しない。ノアはいぶしげな面持でナノを睨みつける。
「…おい。もう一度だけ言うぞ。この氷壁を今すぐ消せ」
先ほどまでとは打って変わり、口調が明確な命令へと移る。ハッキリと、それは下に所属する者が上に対して発言する言葉ではなく、その逆の立場として。
ノアがナノに対し、指示を送っているという不確かな上下関係。
「…………嫌、なの…」
だが、ノアから発せられた威圧に抵抗するよう、首を小刻みに横へと振る。静まり返った室内でさえ聞き取れたのがやっとな程に、ナノの口からは拒絶を意とした微かな声音が周囲に反響した。
返答は実に簡潔なもの。身振り素振りが既に否定の証明を促している。
むしろ、返答が返ってくるその前から、答えを知っていたようなのかもしれない。
ノアは顔色一つ変えることなく、ただ頷くといった動作さえもなく、手を頭の後ろに置いては髪を軽くかき乱した。
「……そうかよ。じゃあ勝手にやらせてもらうわ」
仮に遠まわしな答え方をしても、少しでも不本意な点があれば同じ事だったに違いない。その意志を証明するように、突如としてノアの元から強烈な熱気が溢れだした。
初めは靄の掛かった霧に見えていたが、変化が訪れるまでの時間はものの数秒と短く、その短い最中だからこそ何が起きたか理解ができなかったこともあり、驚く余裕さえ与えられなかった。
あまつさえ、すぐに違和感に気が付いていたもののそれだけでは遅すぎている。気が付いた時点で手遅れという状況化に置かれていたのだ。
瞬きをしたその瞬間。瞼と閉じ、そして瞼を開いた頃には、殴る蹴る程度ではびくともしなかった氷壁が白紙を水に漬け込むよう、熱風によって周囲に張られた氷壁をいともたやすく溶けていく。
どれだけの温度が発せられているのか、ひんやりとした空間の一部は、既に生暖かい暖気へと変貌していた。
「氷壁結界!」
続いて張り上げた声がナノの口から発せられる。先ほどまでの弱気な様子と比較するとまるで別人だ。
ノアの行動を阻害させる為に放った能力なのか。唱えた瞬間、ナノの元から凄まじい冷気が押し寄せ、溶け出す速度に連なって新たな氷壁が目の前には次々と形成されてゆく。
味方であるはずのノアは、あからさまな妨害行為を働くナノに苛立ちを見せた。
「……自分で何をしているのか…理解できてんだろうな?」
「それは…十分に承知しているのッ!!」
「っくはは。どうやらまだてめぇには…仕置きが足りていなかったらしいな」
一度焼かれれば灰となるまで火は消えないであろう、燃え広がる数多な業火の粉の世界と、一度凍ってしまえば二度と抜け出せない、永遠を織成す氷点下の凍結世界。
現状が理解できていないマナはおぼつかない足取りで信也の傍まで近づき、目の前で展開されている光景に目を見張っていた。
「どういうこと…まさか仲間割れ…!?」
「……分からない…が…」
ナノとノアの会話、それに伴った対立を見た限りで偶然ではない。間違いなくナノは自分の意志で氷壁を残し、俺とマナに危害が及ばないようにしている。
果たして、敵か味方か。善と受け取るべき行動なのか、演技として作られた罠として疑うべきなのか。どちらがもっとも可能性が高いのか。
……いや、そうじゃない。そもそもこれが演技だという可能性なんて、自分で初めから否定していたじゃないか。
「恐らく…な」
言えるのはそれだけ。業火と氷点下の殺伐とした空間の合間に割って入れる訳もなく、その後の展開を、信也とマナはただ見守るだけしか術がなかった。