二人の吸血鬼
_ドクン。
高鳴る鼓動が、ハッキリと耳元まで届いて聞こえたような気がした。
呼吸が、肺に行き届き、吐き出されるのを感じ取る。
「ば、馬鹿!」
そして鼓膜に響いた、悲鳴にも似たマナの上ずった声。
突然の動きにマナは焦った様子で信也を見るが、もう止まれない状態だった。
…いや、そうじゃないか。
本当は止まる気は無い。一度動き出したその時から、この足は止められない。
俺の中の本能が、何かが胸の奥底から這い出るような高ぶりを見せていた。
「…へぇ?こりゃいい!怖気づいていたと思ったら、また挑発かよおい!!」
信也の意気込みと、無謀にも見えるその行動に小さく驚く様子を見せるノア。しかし反応は極端に言えばそれだけ。
少し眉を顰めたかと思えば、大袈裟に驚く様子も無く、到って冷静に信也の動きを見つけるだけで無謀にも突っ立っている。
客観的というか、楽観的というか、まるで反応がどうでもいい話を適当に受け流して聞いているだけのような…、比較的に他人事という表情に似ている。
「っくはは!馬鹿とは思ってたがここまで大馬鹿だなんてな!…いいぜ、こいよ人間。その度胸に免じて最初の一発くらいは受けてやるからよ」
つまらなさそうに、でも少し何かに期待したような軽い笑いを浮かべ、ノアは顔を上向きに上げたかと思えばそのまま見下すような姿勢で止まる。
(っぅっわ!ぶっとばしてぇええええええ!!)
と、何分その態度や仕草は気に食わないが、これ以上と無い都合のいい油断ではある。
どうやら本気で初めの一発はわざと殴られる気のようだ。
「……言ったな?なら避けるなよ絶対に!」
相手がそれでいいというんだ。だったら遠慮はいらないし、躊躇もいらねぇ。
最初から全力で、その油断しきった余裕の笑みを消してやろうと黒い笑みを溢す。
「ぶっ飛ばされてから後悔してもしらねえからな!!」
最悪誘き出す為の罠という考えもあったが、疑い深く動くのはどうも俺の性に合わないらしい。あえて堂々と、馬鹿正直に真正面から殴りに掛かる。
直後にゴスッ!と拳に伝わる鈍い衝撃が起こった。
ビリビリと拳に伝わる振動。感覚からしても空気を切った空振りではない、確かに手に伝わる感触からして、拳はノアの顔面を捉え、そして手答えは完全にあった。
「…おいおい?まさか…これがお前の本気なんて言わないよな?」
だというのに、ノアは顔面に拳が直撃しているにも関わらず、何事も無かったかのような涼しげな表情のままで立っていた。
…こいつ……どんな身体してんだよ…ッ!
ピクリとも仰け反らないそのノアの姿に、少なからずも内心ショックを受ける。
ただ殴るだけという些細な攻撃が、勝負の決め手になる大きなダメージに到るとまでは勿論予想してはいない。…が、しかし全力で思い切り殴ったのだ、少しくらいは痛がる素振りをしてくれても良いじゃないのか。
「ちぃッ!」
信也は舌打ちを鳴らすと、即座に拳を後ろに引き、そのまま数歩後ろに飛び下がる。
(…やっぱりそう都合良くはいかねえよな…ッ!)
運が良ければまた腕が光を放ち出して、それがまさかのノアに直撃。見事圧勝!!………なんて幻想を抱いていたのだが、現実はやはりそう上手くいくはずもない。何かしら特異な条件が揃わないと能力の発動は不可能らしい。
「…あー…そうそう」
と、ノアは唐突に人差し指を唇に当てた。
不意に口を開くものだから、つい身体が瞬間的に反応して身構える。殴りに掛かった後だ、当然といえば当然だ。
ただ、どうも何かを仕掛ける様子ではないらしい。唇に人差し指を当てているかと思えば、押し黙っている。
その行動に何の意図があるのか分からないが、しかしノアが見せるその様子からは、何か言い忘れていたと、そんな様子が伺えた。
「…どうした?何か忘れ物かおい?」
「いや、そういう訳じゃないんだけどさ、ただアタシってばうっかりしててな~、わりいが無意識に反撃しちまったぜ」
「…はぁ?反撃…?」
その意味が分からず、俺は首を傾げる。
反撃されるもなにも、そのような素振りは瞬きする一瞬でさえ無かった。身振り一つも無かったというのに、何処にそんな反撃する余裕があったというのか。
そもそも、身体の何処の箇所にも痛みという痛みは無い………
「…腕、平気かおい?」
そういうと、ノアは口元を大きく引き裂き、人差し指を前に突き出すと信也の腕の辺りを指差す。
急に神経に伝わり始めた、鋭く、しかし鈍痛な痛み。ズキズキと、荒くなる呼吸に合わせるよう、次第に痛みは強まる。そして、じっとりと嫌な汗が額に浮かんだ。
ノアの問いに答えるよう、ゆっくりと顔を下に下げる。
「…腕が…どうしたって…」
そこまで言いかけて、思考が停止した。
ノアが手で掴んでいる、その物体に視線が止まる。
「……ん?あぁこれ?だから言ったろ?平気か?……ってよ」
呼吸を止めた信也の反応に、ノアは掴んでいる人間の腕と思しき物を持ち上げると、滴り落ちる血しぶきには目もくれず、口元を引き裂くと再び信也に向けて指を向ける。
それにもう一度、だがゆっくりと、今度は指が差されている方角へ、ノアから自分の左腕へと視線を落とす。
「…ッ…!?…ぁ…?…ああ!?」
あるはずの左腕が、半分が欠けている。
「ッ!?ぐ…がぎッ…!!ぅえ…ぉッ!?」
視覚情報で脳がそれを理解し、腕が失われていると神経が猛烈な痛みを訴える。
それだけではない。さっきまで構えていた右腕の指の関節からは、ミシミシとした軋る音が指の到る箇所から鳴り響き、次第に切れた皮膚から血が溢れ出していた。
「ぐぅう…あ…っくぅ…ッ!」
消えた左腕と、見るも無残に拉げた右腕、激しい痛みによって込み上げる嗚咽を抑え付けると、ギリギリと奥歯を噛み締めて痛みを堪える。
だが、痛みを我慢しようにも、いくら何でも限度があった。もはや半泣きで、いや、ガチ泣き並に涙をうるうると瞳に溜める。
「いってぇ……くっそいてぇええええ!!!」
これでもやせ我慢しまくって表情に出さないようにと頑張っているのが…ただ、痛すぎて完全に隠し切るのは無理だった。
「し、信也!?」
「くはは!!わりぃわりぃ!今のは無し!だからもう一発かかってこいよ!お詫びってことで、な?」
当然、ノアから見て敵である信也がそんな状態に陥っていれば、可笑しがるのも当然。
軽く笑い声を上げた後、両手を合わせて顔の前に出すと、ノアは少しばかり頭を下げて謝る姿勢を作り、片目をパチンと閉じる仕草をする。
(っのやろぉ…ッ!!調子に乗りやがって…!)
とは言うものの、謝罪なんてものはただの口先だけ。ギリギリと奥歯を噛み締めながら、痛みに必死に耐えている信也にとっては、それがむしろ怒りを増幅させる形となった。
これほどまでに謝られても納得のいかないお詫びというのは、極めて珍しいかも知れない。
「…っざけんじゃねえよ!…てめぇ…二度も同じ真似する馬鹿が何処にいるってんだッ!」
「くはは!まあそうだろうな!それに殴りに来ようにも、その腕じゃもう無理だよな!」
そういって、ノアは信也の両腕を楽しそうに見つめる。
確かに、ノアの言うとおり、この怪我、それに両腕が使い物にならなくなっているのだ。凡人から見たらもはや戦闘不能状態に近く、負けが確定したも同然に見える。
あくまでもそれが、ただの人間だったらの話だが。
(…あ?ちょっと待て…今、何ていった?)
ノアの発言に疑問を抱いた信也は、ふと以前にも出会って来た吸血鬼を思い出す。
今まで出会ってきた吸血鬼は、どれもマナを吸血鬼だと知っていた。ただ、逆に俺が吸血鬼になっているなんて、初めから気が付いた者は一人として居なかったのだ。
(…マナの言うヤバイ奴だって言うから、てっきり速攻で見抜いていたと思っていたが……そうか…あいつも…俺をただの人間と勘違いしているのか)
今思えばこの前の出会い頭の時に、ノアは俺の態度に腹を立て、人間風情が調子に乗るないう感じの印象が受け取れていた。
無論油断か何か、隙を生じさせようとする嘘なのかも知れないが、しかしそんな態度を取っていた奴が、実は最初から正体に気が付いていたなんて事あるか?
(…ということは、上級と類される彼女でさえ、俺が人間か吸血鬼なのかさえ、一目で識別出来ていない…?)
考えたところでそれが分かるのは俺じゃない。的確に、それ故正確な答えを知るのはマナか、それともノアという赤髪の女だけ。
だが、結果的にはどっちなのだろうか。吸血鬼には、人と吸血鬼を見極める術があるのかと予想していたが、この考えは的が外れたと踏まえていいのか。
仮に、もしそうだとしたなら、吸血鬼は人間と同じで、外見だけでは区別出来ない。
「…っは」
思わず、口元が緩んで込み上げた感情が声となって吐き出される。
「…あぁ?お前…何で笑ってんだ…?」
不意に、ノアは俺を不思議そうに見つめて心境を伺う。
「まさか恐怖で頭のネジでも飛んじまったか?」
「っちげーよ、ただ単に笑っただけだ」
「…だめだこいつ、完全に壊れたな…」
それに、ノアは呆れたように額に手を当てると首を振る。が、そんなノアの反応を気にすることなく、信也は静かに自分の手に視線を向けた。
相当な怪力で殴ったせいか。指の関節の全てが正常な位置とは掛け離れる可笑しな方向に折れ曲がり、変に拉げた指を見つめる。
考えてもみれば、『そういえば』と声に上げてしまうくらいに忘れていた。吸血鬼の力を得てからは、並の人間には持ち得ない怪力になってしまっているのだ。
初めから全力でという考えを持ってはいたものの、だからといって力の加減を忘れて全力で殴れば、当然身体自体はまだ成れもしていない。通常の人間の頃の骨くらい、衝撃に耐え切れずに拳が先に悲鳴を上げてもおかしくはない。
ただ、不自然なのは気のせいか?
あの一瞬で一体何をされたのかはまだ分からないが、ただ、こうも引っかかりを覚えるのはどうしてだろうか。
そんな俺の怪力をまともに受けて、傷一つない。それは分かった。
「おいおい…何かと思えば今度は棒立ちかよ?戦意喪失か?」
ただ、それだけ戦力差があると理解して、いつまでも口だけで一向に手を出してこないのはどうしてだ?
「さっさと来いよほら!つまんねーだろ!!」
遊んでいるだけか?いや…そうじゃない。……最初から違うんだ。
「…なぁ、お前さ…」
出合った時からそうだ。今はこうして身が震えて、勝てないと悟っている。でも、それは変な話じゃないか?だってノアは今、殺気だっている。殺気だっているが…じゃあ、何で初対面の時にはまるで感じられなかったんだ?
「なんだよ、まだ喋れる元気があるじゃ__」
「__本当に、強いのか?」
簡単な話だ。初めから、今感じているこの恐怖はノアじゃない。
「は?てめぇ何言ってん」
「なあマナ、一つ聞いていいか」
ノアの発言を遮り、信也はマナに顔を向ける。
「し、信也?ど、どうしたの急に」
「あいつ…本当にランクAとかいうヤバイ奴なのか?」
「な…そ、そうよ!確かに肌に感じるこの不陰気はランクA…それを、さっき身を持って経験したでしょう!?」
「ああ…確かに身を持って経験した…けど」
直後、背後からハッキリとした殺気を感じた。
「無視してんじゃねえよザコがぁあああ!!」
「し、信也!!後ろ!!」
今感じている恐怖とは全く関係の無い、ノアからの殺意。
振り向き際に、ノアから迫ってくる拳に反応して身体をずらして避けると、反撃しようと拳を前に突き出す。
「ッ馬鹿が!さっきと同じになるってことが分かってねーみてえだな!!」
そしてそのまま余裕面したノアの顔面に突き当てようとして、
「…嘘だよ」
即座に腕を引っ込めて膝を前に出す。
「ッんな!?…ッゴハ!?」
驚愕した様子で腹を抱えているノアを見る限り、効いている…通用する。
「ど、どういうこと?だ、だって…さっき信也が最初に殴りに掛かった時は…」
「…ああ、指が拉げて、腕を取られた。腕を取ってきたのは多分こいつに間違いは無い」
「え、え?」
「だが、殴った時に指が拉げたのは、ノアにやられたからじゃないんだよ」
「…つまり?」
「…夕方にした時の話を覚えているか?」
マナに説教を食らう前、俺は夕方に赤髪ノアと、その彼女を探して欲しいと頼んでくる一人の迷子の少女に出遭った。
「まさか……」
「…ノアを見た瞬間に何となく予想はしていたが…恐らくな…」
そう、あの時に出遭ったのは一人ではなく、二人。
「吸血鬼は…二人。…目の前にいるノアと………ナノがいる」