僅かな勝率
無意識に足を床を引きずる、ズリズリと擦れる音を立て一歩後ろに下がっていた。
周辺の温度と共に体温が低下し、氷点下の中で連なるように思考までもが鈍る。
自分でも感じられる程に口元が震え出し、身体の芯まで冷え切ったはずの俺の額には、粘っこくじっとりとべたついた汗が噴出した。
その汗は一体、冷や汗なのか緊張なのか恐怖で出たものなのかすらも理解出来ない程に、思考が止まったかのように巡らないでいた。
「ランクAの…上級…だって…?」
マナの告げた一言に、信也は自分の耳を疑いながらもう一度確認するように呟く。
今目先で瞳に映る彼女は、真紅の瞳に真っ赤に燃えた炎のような赤い髪を逆立て、口元は笑みで大きく引き裂かれている。
もしマナの告げた言葉が確かな真実なら、それは一番に起こってはいけなかった最悪の状況。その姿は、記憶が正しければ今朝あったばかりの人物なはずなのだ。
「そう…!気を抜かないで!」
しかし、マナはその一言を最後にそれ以上のことを喋ることなく、瞬きさえもせず視線を彼女からは一瞬も反らしはしなかった。
だからこそ、それだけで疑いとして残っていた微かな疑念は確かな確信へと切り変わった。
間近いに居るから俺だけが分かった。微かに、不安気に小刻みに揺れたマナの手が。
そんな姿を見れば理解できる。無いと。気を抜ける隙が、微塵の余裕が。
「…あ、ああ…ッ!」
俺は小さく頷くことで分かったという合図を出すと、意識を目の前の彼女に集中させる。
「……ックク…」
だが、そんな少しおどけた様子の信也の反応を嘲笑うかのように、彼女から薄っすらと覗く口元からは狂気を孕む危く鈍い光りを放っていた。
「…ッ!」
それだけで背筋から手先に向けて発疹が走り、ゾクリとする冷たい悪寒が走り抜ける。
馬鹿にされて怒りが湧いてくるどころか、馬鹿にされているという意識の対象に取られている、というだけで恐怖がべったりと身体のこびりついたのだ。
格の違い、とはまさにこのことだろう。
指先から足のつま先に掛けて、まるで氷水の中に手足を突っ込んだかのように体温が奪われていく。
彼女を前に全身を緊張させ、次の行動に迅速に対応できるよう目の前を集中させてはいるものの、はっきりいってその行為自体が既に無意味な気がしていた。
突然あれは常識を超えた化物だと知らされたところで、信也は何をどうすればいいのか。下手に動くことが危険なのだとすれば、そこに打つ手があるのか見当も付かない為だ。
事態の重さを把握しきれていない俺は、ただただ呆然と敵を前にして立ち止まるしかできない。
「おいおい、初めに会った時と随分態度が違うじゃねえか?まさかあんだけのタンカをアタシに切っといて…今更怖気付いた訳ねえよな?」
そんな信也の呆けた姿を見た彼女は、まるで煽るかのように侮蔑を込めた口調で鋭い眼球を信也に向けた。
尚も口元を引き裂いてたまま、両手をズボンのポケットに突っ込み、だるそうに片足に体重を掛け、信也の反応を見て楽しんでいるように余裕の表情を浮かべる。
だからこそ、それは喧嘩においても素人の信也の目で見た姿勢からして、とても無防備な姿として瞳に映り込んでいた。
何を思ったのか、彼女もまた一言だけ喋ると隙だらけの格好で動く気配が無い。それの意図を探るにも、思考を巡らすにまで至りはしなかった。何故なら彼女は今、とても楽しそうに口元を歪めているから。
(…あの野郎…俺のことを舐めてやがるな…)
歯がゆい気持ちで奥歯を噛み締める。あれが偽りではない、本物の強者としての余裕なのだ。マナの態度や姿勢からしても、彼女の実力が嘘偽りではないという確証が得られる。
彼女も既に、互いの力量の差が一目瞭然ということが分かっているのだろう。恐らくは…手加減しても余裕で勝てる相手、そんな解釈といったところか。
今までの相手でさえギリギリ…ギリギリの戦いだった。しかし…もしもそれより遥かに強いともなれば、もはや偶然か、それこそ奇跡でも起こらないと勝てないかもしれない。
(今までのは、むしろ勝てたのが不思議と思えるくらいに相当な苦戦を強いられていたってのにな……)
あくまでも序盤。だから戦った相手が最初からとても強い奴だった、なんて考えで高を括ってはいなかった。
しかし、だからといって生死を問われるような激闘を繰り広げた相手が、まさか位からすればそれは大した、下から数えた方が速かった相手だなんて、到底思いもしない。いや、思いもしたくなかった。
まあ、別にそれが嫌だとは言わない。むしろそれが分かっていて決めたのだから。マナを守る為に戦おうと。
だが、じゃあいざ戦えといわれても、力の差が気合でどうにかなるものでもない。
(…勝てるか?今の俺で…)
緊張で全身の水分を持っていくように湧き出た汗に、喉の渇きを訴えて唾を飲み込む。
何故、あの時初めに出遭った瞬間から気がつけなかったのか。
(俺の目は節穴か…)
発せられる得体の知れない淀んだ空気、その息が詰まりそうな空気を無意識的に、いや、生物としての本能が察したのか逃げろと告げている。
そして今の本来の彼女の姿を見て確信を持てる。それは今の俺は吸血鬼だからだろう。
嗅覚が、視覚が、頭脳が、身体能力が、思考が、不死能力が。一瞬にして思いつく限りの能力の全てが劣っていると感じ取れる。
だからこそ自身だけでもハッキリと分かった。幾らなんでも今回の相手はやばい、悪過ぎると。
(……やべえな…正直、まじで勝てる気がしないな…)
昼間はあれ程大口を叩いた相手だというのに、今の彼女を見ていて、まだ自分が生きていたのが不思議だ。何でまだ無事なんだろうかと。そう思える程、それだけ本能が恐怖し、足が次第に後ろに少しづつ少しづつずり下がる。
ただでさえ勝てる気がしない相手だというのに、一体今の自分がどれくらいに力を使いこなせるのか、どれだけの不死身な肉体なのか、その限度、限界点が分かっていない。
まだ吸血鬼に成り立ての新人が、熟練した相手に挑む。それはもっと言えば入りたてのやり方も知らない素人が、いきなり武道の達人に戦いを挑む程に無謀だ。
(……不意を突いて上手く逃げるか?…でも、それが可能な相手か…)
逃げる以前に、不意なんてものが存在するのか。それが通用するのか?
尚も動けぬまま、思考だけを巡らす。
もし今の俺が正面から戦えば、申し訳程度なくらいに僅かな勝率しか残されていない…いや、逆に言えば、ほぼ100%に近い確立で負ける。もしかしたら、もしかしなくても確実というレベルだ。
しかしだからといって、じゃあ逃げようなんて考えも本当は無謀なのかもしれない。なにせ何処までが相手の射程範囲内なのか、それすらさえ分かっていないのだ。もしかしたら気が付いた頃には檻の中で、逃げる素振りを見せたら背中をズドンなんて事もありうる。
(……というか、そもそも今更逃げるなんて考えは初めから無駄だったかもな)
そう思った信也は、考え直すように周囲を見直す。
もし仮に、万が一にでも逃げれる可能性があったとしても、マナが逃げる素振りをしない事態、それを実行出来るかどうかという賭けに近い状態なのだろう。
さらには、恐らくは侵食しつつある氷壁が気が付いた頃には逃げ道を塞いでしまっている。
一番近くの位置にある窓ガラスに張り付いた氷の層の強度を推測しても、分厚い氷ともなれば自力で壊すには骨が折れる。多分、突進して打ち破れるかなんて生易しいレベルじゃビクともしないだろう。
(あいつ…ノア…って名前だよな確か……)
これは奴にとっての、ノアが作り出した包囲網なのだ。獲物を必ず逃がさず、確実に獲物を仕留める為の氷の檻。極寒に追いやり獲物の体力をじわじわと消耗させて食らい付く為の、まるで蜘蛛の巣。
一度でも糸に絡みついたら足先から這うように迫り、後はじわじわと侵食されるがまま、そこに逃げ場などは存在しない。
いくらこの場をやり過ごしても、一度マークされれば振り切った糸が再び絡みつき、いつまでも死と恐怖は追ってくる。
(……例え逃げれたとしても、追っ手がそう簡単に諦めるはずが無いよな…)
これが子供のおっかけっこのような遊びならまだいい。
しかし、これは正真正銘の命を狙った犯行で、『どうか諦めてくれませんか』と頼んだくらいで、『はい分かりました』なんてことにはならない。
話し合いで解決する問題ではない。なら考えられることは一つしかない。
「…はは…何でだろうな…」
小刻みに揺れた手を見つめる。身震いは止まることなくしている。なのに、口元には自分でも感じ取れるくらいに笑みが零れていた。
「…あん?怖くなって気でも触れたかおい?」
「…さぁな」
気が触れたのか、それとも武者震いで震えているだけなのか。死という恐怖ではない。そんなものは、とっくのとうに嫌というくらいに味わった、体感している。
そもそも、そんなのはもうどっちでも一向に構わない。
感情というのは、理性というのは実に不思議で不可思議なものだと思う。何故なら俺は、無理難題な課題を目の前にして余計にやる気になってしまったのだから。
自分自身にも、この心理状態が理解できなかったのだから。
「…おいお前、確かノアっていったか?」
「っは?そうだが…今聞くか普通?」
その返事を受け取った瞬間、腹を括っていた信也は途端に重心を思い切り下げる。
「……ノア…俺を失望…がっかりさせるんじゃねえぞ?」
そして目標へと目掛けて走り出すと、初めてここで、最初で最後の火蓋が切って落とされた。