それぞれの思い
「……あ、待って欲しいの」
背を向けて今まさに帰ろうとしていたのだが、それはナノという少女に気が付かれてしまった。
再び裾をくいくいと引っ張られ、俺は一切の表情を隠すつもり無く嫌々で振り向く。
「…今度は何?」
「……お礼が言いたいの……ありがとう、お兄ちゃん」
こういうところはさすが子供、ナノの様子を見た限りだとお礼の気持ちをただ言いたかっただけのようだ。素直で宜しい。
ただ相手が子供だったとしても、こう目前でしかも直球で答えられると、なんとも気恥ずかしさを覚えてしまうのは、やはり人見知りな引きこもりだったからだろうか。
今はマナのおかげで大分緩和されたと、自分でも驚く程に変わったと実感できてはいたが、しかし純朴で純粋な相手には弱いな俺…。
今さっきまでは嫌々で険悪なムードを放つはずだったのに、思わず頬を指先で掻いて何もいえなくなってしまった。
「…ぇ、あ、うん、ど、どうも」
なんとかお礼を言われたことに反応は返せたが、いくら何でもどもり過ぎだろうと内心で自分で自分を一喝する。しかし真正面からお礼なんていわれたら、不慣れな俺に対してはどうしても駄目だった。
(これだから俺は子供が嫌いなんだよ…)
ぶっちゃけ、俺は大人が嫌いだが、小さな子供も嫌い…いや、苦手だ。
大人に比べたら全然マシだが、しかし逆に大人と正反対に考えたらそのまま素直な感情を表すような、そんな大人とは違う正直な奴は対応に困るから、俺はそういう善悪が分からない奴が一番苦手だった。
今更という話ではあるが、マナに対して嫌悪感が無いのは、大人のように真面目で、それでいて子供っぽいという面々があるから、奇跡的に俺の感性に触れず丁度いい性格をしているからかもしれない。
「…ま、まあ、対したことはしてないけどな…案外見渡せば見つかる距離に居たし…」
「……ううん、ナノにとっては大問題なの。ナノは目が悪いから、少しでも遠くに離れられると見分けが付かなくなってしまうから」
「…何だ、お前…じゃなかった、ナノは…目が悪かったのか」
「……そうなの」
俺はナノの言葉を聞いて、思わずしゃがみ込んで瞳を覗き込む。そこまででようやく、僅かだが瞳が白く濁っていたことに気がついた。知識が浅い俺だが、目を凝らせば素人が見てもこれが良いか悪いかの区別くらいはつくだろう。
「…ナノ、この指が何本か分かるか?」
「……突然なんなの」
そういって、首を傾げるナノを他所に俺は手の平を広げると、腕を肩よりも後ろに置き、指を突き立ててみせる。
「……馬鹿にしないで欲しいの、それぐらい余裕で分かるの」
「じゃあ何本指かいってみ」
「…………5…いや、4本なの」
しばらく俺の指先を凝視していたナノだが、俺が突き立てていたのは三本指、数が違っている。このナノという少女は、少し腕を遠ざけただけで認識が曖昧になるほどに、ろくに見えていない。
(……この歳で視力が殆どないのかよ…)
不幸だと、両親を事故で亡くした俺は信じても居ない神を恨み、己を呪んでいた。俺が何かしたのかと、どうして俺をこんな目に、何で俺ばっかりと。
「……悪いな、余計だった」
ただ、今となっては恨むのがお門違いだと自分で自分を笑い飛ばせる。ある日突然、事故で人が死ぬなんて何処で起きても不思議ではないからだ。
それを呪ったところで、何が変わる訳でもない。幼い歳で両親を亡くしたのは不幸と言えるが、だが不幸中の幸いとも呼べるだろう。十分な財産が残り、家もあり、集って来る表顔だけの大人等を避けていれば、それ以外には今の今まで何の不自由も無く暮らしてきていたのだから。
「……別に構わないの、気がついたときから目が悪かったから、ナノとしては気にも留めていないの」
「…そうか」
最初に目についた人がたまたま俺だっただけなのだろう。しつこく迫っていたのは、ナノの目は生まれつき悪かった性だったのだと。
「……おい、そこのアンタ」
目線を反らすと、ナノと一緒に行動していたという隣にいる赤髪の女性を睨みつける。
「ん?アタシかい?」
「そうだ。…アンタはこの子の目が悪いことを知っていたのか?」
「そりゃあ知ってるに決まってるよ、出合ってすぐに気がついたもんさ。それが何だっていうんだい?」
「……いや…何の理由があるのかは知らないが、こんな小さな子を見失っても呑気でいられるくらい、アンタの頭がめでたいのかとおもってな」
「…っくはは…初対面の相手に向かって、随分な物言いじゃないか」
すると赤髪の女性は見るからに不機嫌そうに顔を歪め、小さく口を開いて笑うと鋭い殺気の篭った眼差しを向けてきた。
ただ殺気といっても、それを俺自身が感じているのではない。恐らく吸血鬼の第六感か何かが、相手の持つ感情をあからさまな形でそう伝えてくるだけだ。
「何だ、図星を突かれたから怒ってるのか?」
「…このくそガキ…今この場で殺してやろうか…」
そういって、険悪な表情で睨んでくる。なんていうか随分と気の小さい奴だなと、特に反応も見せず無表情で返す。
(殺してやろうか…か…)
殺すと言われても、今の俺にはピンと来ない言葉だった。吸血鬼相手に言われれば身震いはするだろうが、それが人間相手からとなると逆に可笑しく聞こえてしまう。
「殺れるもんならな」
「…この…ッ!」
お互いに無言で見詰め合う中、ピリピリと張り詰めた空気が漂う。
「……無駄な喧嘩は止すの」
それを制するよう、二人の間を入ったのはナノだった。
それが気に食わないのか、赤髪の女性はそれを無視して一歩前に足を動かす。しかしナノは動じることなく、その場を退こうとはしなかった。
「…おい、止めんなよナノ。アタシは今からこのガキをぶち殺すんだからさ」
「……ノア…貴方も少しは落ち着くの」
「落ち着けって、先に喧嘩売ってきたのはこのガキだぜ?だったら」
「……落ち着けといっているのが、聞こえないの?」
「…っぐ…」
立場はナノの方が上なのか、ノアと呼ばれた赤髪の女性はたじろいだ様子を見せると、口を閉じて押し黙ってしまう。
どう見ても簡単に言うことを聞きそうな奴には見えないのだが……。
「…ナノって、実は何処かのお偉いさんの娘か何かなのか…?」
「……ん、まあそんなもんなの」
「そ、そりゃあ…とんだ失礼をしたな…」
「……ううん、私の為に怒ってくれたのは嬉しかった、ありがとうなの。……お兄ちゃん」
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「__ということがあってだな。つまり俺は人助けをしていたということなんだようん」
一通り話しを終えると、腕を組んでうんうんと頷く。
家に戻ると、俺はマナにそれまで何があったか事情を事細かく説明していた。
「…ふぅん…それで?もう言い訳は終わりかしら?」
ただ、全く信じてもらえなかった。
因みに、案の定マナはご機嫌が超が付くほど斜めだった。その為、俺はマナに会ってから説明に到るまですべて正座の状態でいる。
「言い訳って…!嘘じゃないから!本当だから!俺嘘付かない!」
「…例えそれが嘘偽りの無い真実だったとしても、私を長時間家の前に放置させた理由にはならないわ」
そういって、マナはパシン!とどっから取り出したのか鞭のような何かを床に打ちつける。
「えええええ?!だから色々とあったっていったじゃん!ナノとかいう少女に引き止められてたんだって!」
「さっきから黙って聞いていれば…ナノナノなのなのって……気に食わないわ!しかもお兄ちゃんって呼ばれてたそうじゃない?!」
「それは仕方ないだろ?!だってナノとかいう少女が一方的にそう呼んできたんだから!」
「それが許せん!!」
「何でだよ?!」
今日は殆どの出来事が理不尽な気がした。
とはいっても、マナを待たせたことに対しては俺が悪いの一言であるため、正座して弁解の意を示すしかないのだが。
「……まあいいけどね。信也は信也のままでいてくれていたことが分かったし……良かったわ」
しばらくムッと不機嫌そうに口元をきつく結んでいたが、少しして怒った表情から一転、マナは嬉しそうに口元を緩めた。
「…いや…そういわれてもな、俺は俺だし…」
「…本当はね…最初は心配だったんだ。人間に比べたら、吸血鬼という存在は超人みたいなものだから…次第にその力に過信して、普通の人間の感情を忘れてしまうんじゃないかって…」
過信。その言葉を聞いた途端、俺は思わず顔を歪めそうになった。
どんな状況だったかをマナには説明はしていたが、ノアという女性については特に話してはいない。そしてその時、自分がどんな心境だったかも。
少なからずともノアという女性を見つめていた時、俺は殺すと言われて内心では細笑んでいた。お前よりも自分の方が優れていると、人間でもあるはずの俺は、無意識に同じ人間を見下していたのだろう。
吸血鬼と戦えば、俺は何て無力だといくらでも痛感できるかもしれない。ただ、それが人間相手となると、何て弱いんだろうと思ってしまうだろう。
だって、違う…違い過ぎるのだ。能力や性質がまるで。
今の俺は人間でもある分、吸血鬼でもある。だからこそ分かってしまう、今の自分がどれだけ人間離れしていて、どれだけ危険な存在かも。
(……そんなことはない、そんなつもりは無いと思っていたが…きっと、そうなんだろうな…)
まだ一月しか経っていないというのに、既に自分を見失い始めている。忘れて、変わりつつある。
「でも、まだ人としての心を忘れていないようで安心した…。信也は吸血鬼として生きることを望んでくれたけど…私のようには…出来ればそうなって欲しくないから…」
「マナ……」
「それに、信也に冷徹な心なんて、似合わないしね」
そんなことを言われて、しかも笑顔なんて……本当に俺は…純粋な奴には弱いようだ。
「……心配すんな、僕が主人の気持ちに反うことはしないっての」
マナの頭に手を乗せて、髪をくしゃくしゃにしてやる。
俺はマナの気持ちに反っていた。だから、その分を俺は俺らしく生きればいい。
「ふふ、さすが私の僕ね。……ま、まあ、今回ばかりは特別に許してあげるわ!た、ただ次からはないからね!」
初めは嬉しそうに口元を緩ませていたマナだが、ずっと頭を撫でられていることに気恥ずかしくなったようだ。急に顔を赤くして目線を反らし、ごにょごにょと言葉を濁す。
「ハハハ、はいはい分かってるよ」
それがおかしくて、俺はいつものように今日も笑みを溢していた。
・…・…・
「…そろそろ日が落ちる頃だな」
次第に沈んでいく夕日を見つめていた女性は、それを確認すると立ち上がった。
女性は茂みから身を乗り出すと、拳を握り近くにある木を殴りつける。
すると殴りつけられた部分が大きく凹み、メキメキと音を立てて倒れていった。
「うっし、今日は一段と調子がいいな!」
「……やっぱり…今日は止めとこうと思うの」
それを良しとしないのか、気が進まない様子で少女は顔を伏せる。
「おいおい……ここまで来て怖気付いたってのかよ?」
「……違う…ただ気が進まないだけなの」
それを聞いた女性は呆れ顔で溜息を漏らすと、困ったように腰に手を当てて頭を掻く。
「なあ…逸れてから随分と様子が変だが…まさかあの人間に感情移入なんてしてないよな」
途端に声音を低くし、少女を睨みつける。
「………違うの、ただ無駄な殺生は好まないだけなの」
「…そうかい、じゃあ今から殺しにいく奴は無駄じゃないから問題は無いよな?」
それに、少女は首を横に振った。
「……もう…殺すのは…嫌なの…」
「…ふぅん。じゃあ、もうこれで終いってことでいいか?」
「……ッ!」
「まーそれでも良いってんなら、アタシは別に構わないんだけど」
「……な…の…」
「…あ?」
「……問題…ない…の…」
小刻みに肩を震わせ、少女は微かに聞き取れる弱弱しい声を発する。
するとそれを聞いた女性は少女の肩をぐっと掴み、顔を寄せ耳元で小さく呟いた。
「…なら嫌だなんて言うんじゃねえよ。今の言動とアタシに楯突いたことは、特別に無かったことにしてやる…だけど次に妙な真似したら…分かってるよな?」
少女はそれにコクコクと首を縦に何度も振る。
「……大丈夫…ちゃんと出来る…の…」
自分に言い聞かせるように、何度も呟く。
「……これで…今度こそ終わらせるの…」
少女は、ずっと無表情のまま表情を変えることなく、しかし頬には一筋の滴が伝っていた。