赤熱過度②
「ヒーロー……!? もうここがばれたのか……!」
いや、違う。見つけた、と。こいつはそう言った。鼎はさっきまでの異音と相手の言葉を統合し、この赤いヒーローが取ったであろう行動を、考える。
「……騒音は、このストリートの窓を……、虱潰しにここを探し当てたのか!」
どす黒い服に身を包んだそのヒーローは自慢するでもなく、事実のみを述べる。
「この通りで見失ったと聞いてたからな。正義の味方らしく真面目に地道に確実に、一つずつ確かめてやったぞ」
窓から入り建物内を探し回り窓から飛び出す。これを、高速で夕蓮町の建物の数だけ繰り返す。つまり、そうしたと男は言外に語る。
逃げるとしたら後ろのドアからだろうが、このヒーローの異常な速さを思うと遥か遠くに思える。後ろの椰子原に目配せで注意を促そうとしたら、とっくに気絶していた。逆に安堵する。この状況下ではこの方が好都合だ。勝手に動かれて巻き添えになられるより格段に良い。
「……おかしいと、」
「ん? 何だ。はっきりと言え」
「おかしいと思わないのか? 〈金虎〉はこの街全てを巻き込もうと、破滅させようとしている。お前らのことも見殺しにするつもりだぞ」
揺さぶり。それは悪足掻きに近いが、時間稼ぎにはなる。
正義を掲げている彼らだが、それは〈金虎〉というベースがあってのものだ。しかしそれが誰の眼から見ても明らかに狂っていたら、その正義や忠義の心は揺らいでしまうだろう。
交渉というより、期待のようなもの。彼らに僅かでも人の理性が宿っていることを。
だが、鼎のそれは相手が悪すぎた。
そいつは単細胞すぎた。そいつに他人の声は届かない。
「何を言ってる? 〈金虎〉は昨日滅んだぞ」
「はぁ、あっ?」
「あ? 何だその顔は。だから、〈金虎〉は俺の邪魔したから全員殺した。考えてみれば簡単なことだ。爆弾のスイッチを押されるより早く殺せば良いんだから。そういうわけで今〈主人公〉に命令出しているのは、『No・1』である俺ってことだ。分かったな?」
余りにも早く、そして軽く言われた真実に、小垣の頭と肩を掌握していた〈金糸〉が抜け落ちてしまう。鼎はその言葉と意味を反芻する。
〈金虎〉の人間を全員殺した? 命令したのはこいつ? こいつが『No・1』? そんな実力者が直接人質を攫いに来るだと? 全てはこいつの、独段?
総じて思考を走らせた結果、無意識に一つの言葉が吐き出された。
「……ありえない…………!」
「信じられないって顔してるな。現実は認めとけ。ま、俺は変わりもんだからな、先代たちほど慎重じゃない。目的に向かって突っ走ることしかできんし、しない」
茫然自失の鼎を無視し、『No・1』の返し手のいない会話は続く。
「そう、お前異能持っているんだって? じゃ無けりゃ『巨狩人』から逃げられないか。お前が能力者だなんて聞いたことないが、流石は隠し子。知らない情報が多い」
「……何の話だ?」
強く言い切るセリフに、鼎は情報の端を見つけ、突っ込んだ。
「ん? 自分のことなのに不思議そうだな。まさか偽者か? ……でも顔も身体も写真通りか。じゃあ記憶喪失か? まあ、どうでも良いか。今は連れて行けば良い」
鼎はこれまでにない焦りを覚えていた。ここまで短絡思考の野郎は初めてだ。こっちの反応を待たない。言葉は伝わるのに会話が成立していない。人はコミュニケーションを取る生き物だと言うが、この男を見ているとどうやらその限りでは無かったらしい。
何より鼎を焦らせるのは、このオーラだ。
こちらのことを人間と言っておきながら、全く緩める気がない余りにも強烈な、粘りつくような闘気。憤怒のように責め立てる苛烈な殺しの気配。
対応を一つ間違えれば、こいつは迷いなく消しに掛かるだろう。後の苦労をちっとも考えない、そんな愚か者の匂いがする。敵としてこれ以上厄介な人格はない。
「てわけで、摩擦で燃やさないよう、遅く運んでやるよ。だから寝とけ」
「……一つ、最後に教えてくれ」
「まだ有るのか? 駄目だ、めんどくさい」
予想通りの返答。他人の意志など考慮せず、赤い右腕がうねり消える。
衝撃までの瞬きほどの隙間。そこに鼎は問いを投げ込んだ。
「お前は、誰だ……?」
ビュン、と。鞭のように引き戻される赤い右腕。それにつられ、真空の鎌が生じる。
髪を舞い立たせる風の中、『№1』は目を剥いていた。
「……そうか、まだ名乗っていなかったな。名前を教えないまま敵を倒すなんてヒーローとして有るまじき行為、無礼だったな。ОK、答えよう」
赤を身にまとう男は両腕を回し、珍妙なポーズを取り、名乗る。
「風と大地と空が叫ぶ! 悪を許すなと叫んでいる! 悪を滅ぼせと叫んでいる! 熱い心が真っ赤に燃える! 寂れた街に現れた正義の烈風! その名は『レッドフェザー』! またの名を金虎戦利。でも金虎はもう捨てた。今はただの戦利だ」
風と大地、の辺りで逃げ始めた。わざわざ聞いてやる義理は無い。
椰子原を〈金糸〉で運ぶ。糸に掛かる重みは生きている証のはず。
この女性は生きて帰らなければいけない。小垣には悪いが、いざという時にはこの身を捧げてでも椰子原を守ろう。たとえ命を落としたとしても、どうせ一度終えた命だ。小垣も納得してくれると願いたい。
しかし、そんな鼎の決意に、正義の味方は何の華も持たせてくれない。
「……! ガッ………ッ!」
見えない暴力が小垣の背中を打ち砕く。肺の中の呼気が押し出され、背骨から不吉な音が何重に鳴り響く。前に吹っ飛ぶ視界の先に、赤い背中が見て取れる。
「逃げるなよ。カッコ良くない」
その声に驚愕と絶望が鼎の心に広がる。鼎は奴が何をしたか瞬時に理解した。
戦利と名乗った〈主人公〉の声。それが誰もいない後ろから届いた。
それは音速を超えた高速移動が成す、自分が発した声の追い抜き。
「もう終わりか? じゃあ連行するとしよう。こいつは邪魔だから殺すか」
上から降ってくる戦利の声。身体を打たれた衝撃から回復できないまま鼎は、何とか小垣の顔を上げ、隻腕のヒーローに覚悟を告げようとして、固まる。
「……お前、何をして……!」
口から大量の血液が溢れ出た。口に残る熱い液体を無理やり嚥下し、声を出す。
「……椰子原さんに、何を………!」
「ん? 何だ狼狽えて。邪魔な女を殺そうとしているだけじゃないか」
「人質を、彼女を殺してどうする! 殺すなら俺を殺せ! 彼女には手を出すな!」
「……ああ、どうやらなぜかこの娘がターゲットだって勘違いしてるようだな。俺の目的は小垣渡、貴様の方に決まってるだろう。こんな小娘じゃない」
「お、小垣が……?」
ごぽ、と泡の音が胸の中から聞こえ、喉下に迫る血液量が増える。
「おいおい、こりゃあマジで記憶喪失か。お前の苗字、小垣ってのは母方のだろ? 本姓は木竜渡。貴様は新日テレビの総局長木竜右左の隠し子じゃないか。だから俺たちは貴様を追いかけてきたんだ」
「………………」
小垣へのダメージで混線状態に陥りそうになりながらも、正気を必死に保つ鼎に、ヒーローは止まる気配を見せない。赤い爪先と殺意を気絶する椰子原に向けて、
「利用価値の無い奴に用はないし、消してしまった方が後腐れが残らなくて良い。俺だったら一瞬で終わらせられるしな」
「…………ま、待てっ」
口が勝手に動く。だが制止しておいて策などあろうはずがない。しかし鼎は焦った勢いから、衝動的に自身でも驚くことを口にしてしまった。
「……お、俺は、俺は小垣じゃない」
赤い男はその言葉に、
「……ふん」
足を下ろし、こっちに歩み寄ると小垣の全身と顔を見定めた。
どうやら話を聞く姿勢を取ってくれたようだ。
「どう見ても、小垣渡にしか見えないが?」
「俺は、物を動かす鬼形児でな、わけあってこの身体を支配している。今、この男は仮死状態だ。俺が今身体から抜ければ死んでしまう、危険な状態だ」
働こうとしない背の筋肉を外側から支え、小垣の両足を揃えて立ち上がらせる。
喉の奥から迫り上がってくる大量の血で口を開くことさえままならない小垣の、唇前の空気を震わせ、交渉の声とする。
「取引だ。小垣の身柄は好きにしていい。持っていくが良い。あんたの邪魔もしない。あんたに能力を使わないとも約束しよう。その代わり、彼女を見逃せ。絶対に手を出さないと約束しろ。それが出来ないのだったら、俺はこの身体を今すぐ殺」
軽い舌打ちが弾け、
「ほざくな……!」
次の瞬間、赤い〈主人公〉の姿が擦れ、消えた。
「…………!?」
反射的に持てる〈金糸〉を全方向に回し、防御を図る。が、どの糸にも想像したような衝撃は来ない。どういうことだ。糸の防御陣を張ったまま、眉を潜め、
そして急に、小垣の視野は闇に落ちた。
闇から飛び起きる。両目に光が入り込み、目を細める。
橙色の裸電球。小さなベッド。その傍らに止めてある見慣れた車椅子。間違いない。ここは鼎の本体が置いてある地下ホテルの一室だ。
違うとすれば、天井に開いた巨大な穴、それと胸の部分。
赤い右腕が金色の糸の束に絡め取られており、そして、
「……チッ、忌々しい糸だ」
赤い隻腕の、戦利の苛立たしげな声。
「な、ぜ、ここに………!?」
そこで鼎は威圧感に打ち据えられた。
敵は睨んでいた。鼎の精神を射殺すように。口から吐き出されてきたのは、熱意でも殺意でもなく、残酷なまでに冷え切った怒りの声。
「図に乗るなよ。隠れていないと何もできない超能系の分際が。俺の一瞬の行動であの肉体から切り離される貴様に、一体何ができる? 他人に依存し、寄生する貴様の力が。貴様にできることなど、何一つ無い」
「……………………ッ!」
ヒビが入る。心に。深い、根底まで届きそうな亀裂。
心が、負けを認めてしまった。悔しさと怒りと不甲斐なさと、あらゆる負の感情が渦巻き、鼎は地を舐める。今何を言っても全てが意味の無い言葉になる。負け犬の遠吠えなど、どの敵が許してくれるというのか。
ブン、と風を抉って〈金糸〉を引き千切り、ヒーローは自由になった腕を確かめるように抱え込み、冷たい声で告げてくる。
「どうやら、その糸を全て壊さないと貴様を潰せないようだな。ふん、だが俺の時間も少ない。俺の相手では無いし、別に良いか」
そして軽々と跳び、穴の縁からこちらを見下ろし、見下す。
「命拾いしたな。二度とその不愉快な糸を俺に見せるな、次は潰し尽くすぞ」
そして、動こうとしない鼎に振り向くことなく、何やら呟くと、風に消えた。
戦利は去った。完全敗北の傷を鼎の胸に残して。
「…………………………」
空っぽになった頭の中で、何にも考えられない、何を考えれば良いのか分からない、まるで飽和しているような頭の中で、ポッと一つの疑問を思い浮かべた。
あの女性はどうなったのか、と。
小垣は手厚く保護されただろう。何せ人質だ。殺されることはまず無い。では椰子原は? あの男に言わせると価値の無い、あの女性は? 鼎が必死に守り続けた彼女は、殺されてしまう、もう殺されてしまったのだろうか。
急転。いきなり頭を殴られたようだった。誰にだ? 自分のハートにだ。
脱力していた上体をバネのように持ち上げ、鼎は憤慨した。
「……バカか、俺は!」
一番の最優先事項は、椰子原を日本に帰すこと。そうじゃなかったのか。負けたことがどうした。今まで何度も負けを経験してきたじゃないか。苦汁など、浴びるように飲んできたじゃないか。プライドを折られたことも殺意を向けられたことも、女性の危機に比べれば、何でもない。そうだろ。そうじゃなかったのか! そう心に決めて、これまで生きてきたんじゃないのか!
これが、醜い遠吠えであるということは重々承知している。
どう自分の心を奮い立たせようとも、胸に走るヒビは埋まらない。折れかけた心は真っ直ぐと伸びてくれない。身体の震えは、消えてくれない。
再びあの男の前に立てと言われても、首を縦に振れる自信は無い。
それでも、鼎雲水は吠える。吠えなければいけない。立ち上がらなければ、いけない。自分の為にではなく、全ての無辜の女性の為に。
車椅子に乗ろうと〈金糸〉を出そうとして、鼎は再び愕然とした。〈金糸〉がもう出せないことに。捻り出しても、数本しか出てきてくれない。
限界だったのだ。『傀儡糸』はもう。あと一回、たった一撃で鼎の百万本の〈金糸〉で守られているその命は、失われていた。ゾッとしないあったかもしれない未来。だがこれが自分の現状だ。これを引き際と感じるか、幸運と捉えるか。全てはそこだ。
鼎は仕方なく、両腕を使って車椅子の上に身体を運ぶ。腰を持ち上げて、枯れ枝のような両足を引き摺り、落とし。持ち上げて、引き摺り、落とす。
「は、久しぶりだな、この重さ。子供の頃に戻ったみたいだ」
思えばあの頃から、異性を守りたいという思いはあった気がする。自分がまだ鼎ではなく、番号で呼ばれていた研究所時代。何も持っていなかった、十年前から。
「……そうだな。まだ何も失っちゃいねぇ。俺は変わっていない。スタートに戻っただけだ。俺は、生きている」
やらなくては。やるべきことは分かっている。何も変わっていない。
おう、と膝を叩いて気力を振り絞ると、車椅子を守るべき女性の下まで転がしていく。
その行進は明らかに遅い。だが誰よりも力強く、何よりも誇り高い。
「……あー。でも椰子原さんがぐちゃぐちゃに潰されていたら、どうしよ……」
少しだけ誇りと力が失われ、その分進みが速くなった。
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