序章 原料廃棄場マーチ
才能には罰を。
力には代償を。特別には呪いを。優遇には喪失を。超越には苦痛を。獲得には悲劇を。
そして、幸いには無為なる死を。
この世は何かを得るためには、何かを捨てなければいけない。
持つ者は持たざる者に奪われ、掴みし者は掴めぬ者に弾かれる。
それは永劫不変の絶対契約。あらゆる価値は支払われ、奪われるためのもの。
家族であり、友人。金であり、身体。時間であり、安息。夢であり、栄光。プライドであり、権利。愛であり、財宝。名前であり、居場所。自分であり、心。
命であり、そして未来をも。
例外は決してなく、世界は今日も厳しい。
だが、
何かを失ったのならば、大切を得てもいいはずだ。
何も持っていないのなら、大事を掴んでもいいはずだ。
例外は無いが、例の中には全てがある。
世界は厳しいが、人も世界に厳しい。
罰を食らう者には才能を。代償を負う者には力を。呪いを受けし者に特別を。
喪失を覚えし者に優遇を。苦痛を堪える者に超越を。悲劇を知りし者に獲得を。
死を望む者には、最高の幸いを。
こうして世界は流転していく。
序章 原料廃棄場マーチ
「待てッ、悪党ども! 彼女からその手を離せ!」
その時、青臭い激昂が三人の視線を上に動かした。
まだ角度の浅い太陽が廃墟だらけの街を公平に照らしていた。地平線近くにある朝日が存分に光を届けさせられるのは、高い建築物が押し並べて破壊されているからだ。
高層ビルも、マンションも、デパートも、タワーも。唯一残ったといわれる日本一の高さを誇った赤い電波塔も、こんなに離れた地区からでは見えるわけがない。
中心に行くにつれ、無事な建物は数を少なくしていく。
それが壊され捨てられた、首都だったこの街の特徴である。
そいつは太陽をバックに信号機の上に立っていた。逆光で顔が見えにくいがシルエットと飛んできた声質で男だということが分かる。
意識が逸れた隙を突いて、標的の娘がこっちの手を振り払って逃げ出した。
「ッ! やろっ!」赤髪の巨漢がすぐにそれを追いかける。残ったもう一人の男、髪を真っ青に染めた東雲は、舌打ちで横入りしてきたそいつを睨みつけて、
「んだテメエ、良いとこで邪魔しやがって。俺らの同業者か。あぁ?」
そいつは質問に答えず、フッ、と鼻で笑うと信号機から飛び降りた。
六メートル下に音もなく着地した男は、見せ付けるように堂々と立ち上がる。
その姿を目にした東雲は、唖然として口から煙草を落とした。
「……何だそりゃあ」
後ろで女の悲鳴が聞こえる。相棒の南雲が逃げた女を捕まえたことを知るが、そんなこと目の前の男に比べれば驚きにも値しない。
その男は、緑の全身タイツでテレビのヒーローそのものだったのだ。
「そこの赤髪と青髪の男。僕の前で人攫いしようとしたのが運の尽きだな! お前らの悪行、見逃すわけにはいかない! 成敗してやる!」
「………………」
言葉を忘れ、ただ見つめるだけ。それしかできない。背後に二つの驚きが上がる。南雲と女が戻ってきて、二人してヒーローに仰天したらしい。
ヒーローが珍妙な動きでポーズを取り出した。
交差した両腕はタイツに包まれている。胸にはSのマーク。背中にはマント。正義の怒りが眼光に込められ、仮面越しにこちらに突き刺さる。
緑という地味色のクセにやけにテンションの高いヒーローは、こっちにまっすぐ指を突きつけると、高熱を帯びた叫びを放ってくる。
「大地よ、大海よ、大空よ! 僕の名前を呼んでくれ! 今こそ僕は立ち上がる! 僕の心が叫ぶから! 悪を滅ぼせと叫ぶから! 揺らがぬ正義を拳に託し、寂れた街に現れた! 正義の味方! 我が名は『グリ――」
「あー、うっせぇ」
ポンと小さな爆音が鳴って。ヒーローがグフッと洩らし、仰向けに倒れる。
音源は東雲の右手に持った拳銃だ。気だるげに構えた銃口から細い煙が漂う。意味の分からないモノは早めに排除するのが東雲のポリシーだった。
だが、巨漢のくせに心配性の南雲が、声に不安を滲ませて、
「お、おい。もしかしてあのヒーロー、アレだったんじゃ……」
「『悪』を虐殺して回るっていう、イカれたヒーロー集団のことか? 気にすんなよ相棒。もう片付けたじゃねーか」
「あ、ああ……。そうだな。しかし、本当に実在していたのか」
二人は急に出てきてあっさりやられた変態を忘れ、気を取り直して女に向いた。
「さて、邪魔者もいなくなったことだし、一緒に来てもらうぜ、玖島組のお嬢さん。恨むんならお父さんと、一人で夜遊びしてた自分を恨むんだな」
「……この手を離しなさい! 許さないわよ!」
ああ? と声を低くし、ガタイの良い南雲に腕を捻られて少し痛そうにしている女の顔をねめつけた。まだ熱の残っている銃口を、その頬に当てて、
「うっぜぇ。人質として攫って来いって話だったけど、別に死体だって代わりになるんだぜ、おい? 次は無い。そう心に刻んで、大人しく付いてこい」
「……私を傷付けたら、父は貴方たちを許さないわよ」
「おおぅ、そりゃ怖い。ヤクザが怖かったら、こんな街で暮らしてねえって」
「……そう……後で、たっぷりと後悔するといいわ」
口は強気だが、その瞳には先までは無かった恐怖がありありと浮かび出ている。ヤクザの娘だが、実際の命のやり取りには慣れてないのだろう。
「車に乗れ」
屈強な相棒に押され、娘は黒塗りの乗用車に入れられる。車に乗せてしまえば逃げることは不可能だ。さっきみたいな邪魔も入らないだろう。
だが、そこに新たに横槍が入った。
「ふう、危なかった」
ピタリ、と。聞こえたその声に三者の動きが止まる。
撃ち殺されたはずの緑のヒーローが立ち上がっていた。彼は胸を若干気にしながら、ポカンとしている三人を前にし、言った。
「残念ながら僕に銃は効かない。さあ、大人しく観念するんだ!」
そして平然と胸を張る。ピンピンしている。無傷だ。
「って、何だよお前は。外れたのか?」
いや、と自分の言を否定した。外れてはいない。確かに胸に命中していた。すると防がれたということになる。あのふざけてるしか言いようのないタイツが防弾繊維なのか、奴の肉体に特別な秘密があるのか。
この街に住んでいる限り、組の抗争に体よく利用されるだけのちんけな東雲たちでも、この街では銃が意味を持たないことがある、という異常な事実を知っている。
半信半疑だったが、こうなると嫌でも理解しざるを得ない。目の前に立っているヒーローがその異常な存在なのだと。こうなるとただの噂だと思っていたヒーロー組織の話も、真実味を帯びてくる。ならば、ここで自分らは虐殺されるのか。
「僕は、正義の味方だ!」
飛んできた素っ頓狂なセリフに、東雲の緊張や力が一気に削がれた。
それは見れば分かるが、と南雲が呟いた。それを引きつぎ、東雲は問う。
「誰からの依頼だ? 答えろ」
掲げた銃口はぴたりと顔面に。そこも効かないかもしれない。だが、ダメージは与えられるだろう。初めに倒れたのを考えるにノーダメージというわけではないはずだ。鼻や顎にヒットすれば気絶してくれる、かもしれない。
「フッ。僕を恐れるか。僕は、僕の正義のみに従って動いている。だから僕はお前らみたいな悪を消し去るまで、絶対に倒れない!」
「あ。うぜぇ」
引き鉄を数回引いた。二発目がヒーローの眉間にヒット。三発目と四発目は外れ、五発目が奴の右眼にダイレクト。ヒーローはその場で転がって悶絶する。
何とも間抜けな絵面だが、二発受けてそれで済んでしまうことを恐れるべきか。
背中の南雲に目配せをする。相棒は頷いて、女を連れて車に乗り込んでいく。
東雲は自ら運転席に入り、エンジンを掛けると、まずバックさせた。
「逃げんのか? 相棒」
「まさかだろ? 助走だ」
言うなり、アクセルを底まで押し込んだ。
エンジンが空転し、タイヤが焦げ、飛び出す。加速する車は立ち上がった緑色の変態に突っ込んでいく。メタルジャケットが駄目なら鋼のボディならどうだ。これが駄目だったとしても、その時こそそのまま逃げてしまえばいい。
フロントガラス越しに焦点の合ってないヒーローと目が合う。正義の味方は、回避動作すら見せずにタイツに包まれた腕をゆるゆる上げると、
その腕を怪物に変質させた。
「……っ!」
鈍い断絶の音色と衝撃が車内を貫いていった。
顔の真横を通過していったのは、ヌラヌラと光る異質な、何よりも巨大な刃。それに貫かれ絶命してるのは、髪よりも赤い液体を噴き出している相棒、だったもの。
ガラスには亀裂が走り、車の速度はゼロになっていた。トップスピードに達していたはずの暴走車が、ヒーローに直撃する手前で止められて。
金属が軋むような異音は、シートどころかシャーシに刃が食い込んでいる証拠だ。
後輪が激しく空回る。持ち上げられている。虫の複眼を持った緑色の化け物に。車体を一直線に貫いた、恐ろしく大きな蟷螂の鎌によって。
ガラスを貫き、空間を貫き、人肉を貫き、その人間の座っていたシートを貫き、下部機構と車底を貫いて、外に飛び出した一つの大鎌。
鎌は一トン近い鋼鉄の塊を引っ掛けたまま持ち上がっていく。傾いた座席から放り出された東雲と玖島組の女は、怪物のもう片方の腕が凶器に変化していくのを見た。
筋肉が丸太のように膨らみ、皮膚がエナメル質になり、やがて虫の脚へと。
不気味に光る、死神の鎌に。
螳螂の化け物は、大鎌を大きく振りかぶり、やはり大きく、振り下ろした。
「……ぁ……………」
ジワと滲むように、脳内に死のイメージが去来する。終わりを悟る。鎌は車を切り裂くだろう。外に逃げるのも間に合わない。惨死。死亡。デットエンドだ。
そう思った瞬間、ふっと力が抜け、津波のように緊迫が押し寄せる。全身が強張り、目も耳も触覚も瞬間的に鋭敏になる。自分の死をありありと見せ付けられ、
そこに、三メートルの鉄柱が降ってきた。
「…………ッッッア!」
落下の威力が加味された鋼の柱は、車と螳螂をつなぐ鎌を両断する。
落とされた車がバウンドし、後部座席で女が小さく叫ぶ。
緑のヒーローは追撃を警戒してか、後ろに跳んだ。油断無く周囲を見渡し、鋼鉄の棒、信じられないほど長大な槍を飛ばしてきた襲撃者を探す。
それを、車内の二人は見ていた。だから、次の光景は容易に想像できた。
「……こっちだボケェェッッ!」
バックステップしたヒーローの、その背後から待ち構えていたかのように黒衣の影が跳んできた。気付き、振り向いたヒーローの鼻に黒腕の拳がめり込む。
弾かれたゴムボールのようにヒーローが車の横を吹っ飛んでいく。廃墟になった一戸建てのブロック塀を砕いて、崩れた瓦礫に埋まる。
呆れたことにまだ意識があるらしい、螳螂は立ち上がり、
「誰だ! 僕の邪魔をするのは!」
緑色した怪物の睨む先には、黒のジャケットに身を包んだ、一人の痩身がある。
「……ったぁーく、どーしてこう疲れてる時に限って、厄介なの見ちゃうのかなー……。ってか、どうしてヒーローが浅部に出て来てんだよ」
黒衣は、ブツブツぼやいていた。
ポカンとしているこちらに気付くと、車の前まで歩いてきて中を確認してきた。
「なあ、アンタにも色々あんだろうけど、誘拐なんてそーんな恨まれるためにあるような仕事、引き請けるの止した方が良いよー? ああなる前に」
と、後ろで血に沈んでいる死体に目をやる。東雲の緊張が解け、現実感が蘇ると、鼻を異臭が突く。夏の熱気が後ろの血生臭さを助長させていた。
「あ、あんた。あいつっ、あれが、ヒーロ、〈主人公〉って奴なのか?」
「そ。だけどそんなことはどうだって良い。車はまだ動きそう?」
「あ、ああ。……駄目だ、後ろのエンジンが完全にやられている」
「そー。でも危ないから、外には出ないでくれよ。娘さんも任せとく」
「は、は? あんた……、」
チンピラの俺を信じると言うのか、という反駁を込めて相手を見上げると、そこの異質な点に気付いてしまう。異常を感じ取ってしまう。
その顔。中性的に整った顔立ちの中で異彩を放っている左の目。
赤い光を放つ、意志の篭っていない冷たい眼。機械の眼光。鋼の球体。
「ぎ、義眼……? あんた……それは、一体……、」
「……ふは。それこそ、どうだって良いことだよ、っと」
深紅の機眼の主は、ボディに突き立った巨大な鎌に手を掛けると簡単に引き抜き、軽い手首のスナップで投げ付けた。
俊敏な動きで襲い掛かってきた、昆虫の化け物に。
「……ッ! ッチ!」
ギン、とチタン鋼のような硬音が響き、ガードした蟷螂の鎌にヒビが入る。
グアッ、と腕を押さえて蹲ったヒーローは、黒いそいつを、睨みつけ、
「……くっ、何だお前は! よくも僕の両腕を! そいつらの仲間か!」
「誰が。ま、違うって言ってもオマエら信じないだろ? 敵の言葉なんて」
「当たり前だ。嘘を言ってるに違いないからな! だから貴様もここで討ち倒す!」
「素晴らしい論理の飛躍だなテメエ。じゃオレも、本気で行くぜ?」
「やってみろ! だが、悪が正義に勝てるとでも……あ? 何だ、その眼は」
威勢の良い啖呵を止めて、螳螂は眉をひそめて黒衣の顔を見つめる。
しばらく睨み合い、やがて螳螂が、キキイぃ、と奇声を上げて飛び退いた。
「きぃ、貴様は! 赤い左眼! 黒衣! そしてその大得物! 間違いない。僕は知っているぞ。お前、中層部のチーム〈金族〉の! 名前が確か……」
叫びを中断し、考え込む螳螂のヒーロー。しかし彼は、肝心のその答えを中々思い出さない。我慢し切れなかったのか、黒衣は呆れた吐息で正解を告げる。
「『鉄』。それが通り名。にしても知ってるとはな。オレも有名になったもんだぜ」
「そう、『鉄』だ。貴様何で知っている! 卑怯だぞ! この悪党め!」
「何という論理的思考の崩壊……。障害はソレか。それが、正義を口にする、か」
まあいいや、と『鉄』は渋面をフラットに戻し、八重歯を剥いた笑みを浮かべる。
「今生の別れになるだろうから、先に教えといてやるよ」
そして『鉄』は黒い上着に手を掛け、脱ぎ放った。
下から現れたのは黒いタンクトップに覆われた、しなやかな体躯。細い白腕。
屈強な体格を想像していた東雲だったが、しかしその十二分に引き締まった、まるでピアノ線を束ねたような鋼の肉体にある種の感動を覚え、ある一箇所を見て、あらゆる想いを吹き飛ばされる。
左腕。そこにあった腕の形をした鋼鉄は、滑らかに指を動かし、肘を開閉させ、完璧に腕の動きを再現する。肩口から指先まで、黒い光沢を返すそれは、
「……機械仕掛けの、義腕だ、と……?」
その困惑の混じったセリフは、ヒーローの口から漏れた。
「まさか、で、でもそんな。なら、じゃあお前は、いやあんたは……っ!」
混乱しまくる敵を無視し、『鉄』と名乗る人物は、アスファルトにブッ刺さった大槍を右手一本で引き抜き、水平に持ち上げた。
「ちゃんと自己紹介しよう。名は不壊城鋭利。能力は『鉄処女』。障害は左半身の喪失。年はピチピチの十九歳。趣味はヒーロー退治! 仲良くしろよ♪」
義腕を目にしてから急に怯え始めた螳螂に、真面目に真摯に残酷に冷徹に向き合いながら、鋭利は武器を持ってない鋼の手を、差し伸べた。
「さあ、オマエを救ってやる。この地獄からな!」
首都大争乱から十年。破滅の果てに見捨てられた元首都、〈廃都〉。
悪意と異常と狂気によって作り変えられ、造り直され、創られた一つの混沌。
そこでの異常は今日も、今日とて、平常である。
「のべぷろ」の方で投稿したものに少しだけ改稿・修正が加えられてます。
まだ色々悩みながら完結してませんが、末永くよろしくお願いします!!