朝靄の葛藤
旅をする魔法使い、及び魔術士は華美になりがちである。護身用の武器、魔力を高める装飾品、そして防具。筋力や俊敏な動きよりも魔力の質の高さが重視され、魔力に集中しながら敵の筋力や俊敏な動きから身を守る術も必要だからだ。しかし、ティル=ワードは武器も道具も持たない。大きなものは重たくて持ち運ぶ気になれないし、小さいと失くしてしまう。飽きっぽく不精な性格上どんな武器も道具も大事にできないのだが、なによりもお金がかかるということが難点であった。
キースのパーティでは所謂「ワリカン」とか、「コヅカイ」といった制度がない。仲間同士であっても、自分の食べ物や身の回りの物を買ったり維持したりするお金は自分で稼がなくてはならない。それはティルにとって、非常に都合の悪い体制であった。彼の財布はいつでも、彼が身につけているどの布製品よりも軽い。とても物なんかにかける余裕はなかった。それでも、今まで飲食以外に困ったことはない。ティルには絶対的な自信があった。
「えー……あ?どこだ?」
ティルは一人、頭の中で命令を再生していた。“女”とは、あの桃色の髪の女性のことだと思う。では女の“所”とは。誰かが何かを言っていたような気もする。興味感心のあること以外を覚えられるほどの頭をもっていないティルは、言葉足らずな自分の仲間に腹が立ちはじめた。勢いで居住スペースに来たものの、何故自分がここに向かわされたのかわからないことに気づき、完全に腹が立つ。
「あいつー!くそ!戻ってアンナに、」
眉間に皺を寄せ歯軋りをしながら振り返り様に辺りを見渡す。見える扉の数は少ない。だが、部屋の住人とあまり親しくないティルは開けて確認することはできなかった。万が一開けて何も知らないといった風の住人がいたらと考える。気まずいだけで目があった先が全く想像できない。そうなると来た道を戻って尋ねた方が早い。
「それも面倒だな。」
引き返すのが億劫な理由もある。ティルは“あの人”の話題がかなり苦手なのだ。思い出したくないくらいで、“あの人”の名前を口にしたアンナの顔を、暫く見ないで済んだら良いと思う程嫌悪していた。“あの人”とは、ティルの恩人であり、育ての親であり、師匠のこと。“彼”のことを思うと少し頭が冷えたので、深呼吸してまた扉たちに向き直る。
目を閉じ全身の気を沈めて、狭い廊下中に自分の魔力を張り巡らせた。石の壁や木の扉が共鳴しているのか、言葉のない呼びかけに何かが呼応しているのか、キィンと耳触りの良い音をティルは感じ取る。廊下の奥、向かって左の部屋。その一帯でティルの魔力がじっとりと渦巻いていた。相入れない何かがそこにあるということだ。ティルは確信する。
「よし。」
ぱっと目を開けると、張り詰めていた空気が解かれた気がした。得意気に微笑し、駆け寄って取手に手をかける。堂々と引き開いた。
「……なんだこれ。」
ほんのり明るい室内では、布や花瓶、紙やペンといった部屋中の小物が浮いて漂っている。その中心には生気のない瞳で立ち尽くす、桃色の髪の少女がいた。充満する異質な空気。眉間に皺を寄せ、嫌悪感を隠すことなく声に出した。状況が全く把握出来ない。ティルにわかるのは、魔力に似た異質な何かで空間が埋め尽くされていることだけだ。漂っていた布団が頭の上に落ちてきた。ティルは久しく味わっていない布団の肌触りや柔らかさに頬擦りしながら、隙間から少女の様子を伺う。
少女がゆっくりと左腕を上げた。長い袖が下がって、白い指が空間の何処かを指差しているのが見える。その先を、目を凝らしながら辿っていくと、拳大の黒い塊が弾ける所が目に入った。音もなく少女が腕を横に動かすと壁に点々と黒い影を作っている塊が次々に弾ける。バチバチと音を立てて弾け、カサカサと崩れていく。
(なにあれ。)
よくよく目を凝らすと、壁のそこら中に黒い塊があった。ティルは慌てて自分の左右を確認する。やはりすぐ隣にもそれがあった。得体のしれないそれから離れる為に、身を翻して部屋の中心に移動すると、少女に近付くことになる。ますます生気のない瞳が気になったが、それよりも黒い塊だ。大きな丸い袋が二つ張り付いていて、更にそれの左右に四本ずつ針のようなものが生えている。針には節があって、凝視していると微かに動いているのがわかった。見れば見るほど気持ちが悪い、得体の知れない物体である。身構えていると、突然側頭部に衝撃があった。
「いって!!」
慌ててその方を向くとなんと、女性の手が当たっただけだった。音も気配もなく体の向きを変えた少女は、その何も捉えていない瞳で何かを言うことなく背後に立っていた。格好も、先程大きく腕を上げたまま変わっていない。
「寝ぼけてんのか?!」
ティルの悪態が部屋に響く。本当は鳩尾に肘打ち、もしくは脛蹴りを一発お見舞いしたかったが、人形のような表情の少女を見て気持ちが萎えた。すぐ背後のことなのに動きに全く気付かなかった上、あれだけの衝撃を与えたのにもかかわらず一寸も変わらない格好。まるで操られている人形のようで奇妙だ。
その時、黒い塊の何個かが一斉に破裂した。先程までティルが居たところに近い。そしてちょうど少女の手が向いている方向だ。
(助けてくれた、のか?ノロいけど。)
今は自分に敵意はないのかもしれない。背中は預けることにしておく。再び何ものかわからない黒い塊に向き合うことにするとシンと静まり返る仄暗い部屋で目や耳を研ぎ澄ます。ふと微かにカサカサいう音が連続で聞こえているのがわかった。よくよく聞いていると、足下からだ。窓の明かりが届かない足下で、黒い何かが蠢いている。
(なんだ?!)
足下に気を取られていると、今度は壁の方から音が聞こえ出した。パキパキと乾いた音を立ててあの黒い塊の袋が割れていき、中から小さな無数の黒い塊が出てきた。どの塊も次々と同じようにして割れ、小さな何かを大量に発生させていく。小さな何かはポトポトと床に落ち、蠢いている何かと合流していった。
「い……っ!」
壁から黒い塊が消える頃には床には小さな物体を集めた山ができあがった。蠢きが遠い朝焼けの薄明るさに照らされて端々が光る。ティルは寒気がした。魔物か何かだろうと想像はできるが、全く知らない見たこともない物体だ。
少女の手が少し下がり、蠢きの山に向かった。衝撃が放たれたようだったが、蠢きに穴が空いて避けられただけに終わる。穴はたちまち修復されて、またすぐ蠢きの山に戻ってしまった。
「ハッ、全然効いてないじゃん。っていうか!何だよコレは!」
蠢きの山がある形をつくろうとしている。波のように大きくうねって、暴れていた。そして足下から少しずつ波がおさまっていき、形が定まっていく。明るんできた部屋で、その姿が明らかになる。左右四本ずつの太い針、大きな二つの袋、そして最後に鎌のような牙が二つ。壁にいた物体に似ているが、それよりもはるかに巨大な生き物になった。節のある針はどうやら脚。細かい棘のような毛で覆われており、一本ずつに鋭利な爪が生えている。威嚇するように反り動く後ろの袋、牙のある手前の袋。更に牙の上には掌ほどの球体がいくつもついており、左右上下斜めにそれぞれ自由に動いている。地を這う格好で背は高くないが、とても巨大だった。
「なんの魔物か知らないけど気持ち悪いんだよ!」
ティルは右手を振りかざし、真っ直ぐに魔力を伸ばして、熱をもった攻撃をした。光魔術だ。本来回復方法として重宝される、旅の基礎魔法である。魔力の変化を応用すれば威嚇や攻撃にもなる。魔力を自由自在に操ることができるティルは、熱量を極端に上げるよう魔力を操作して、魔物と思われるものにぶつけた。そして誇らしげな表情を浮かべている。そう、魔物の多くは熱に弱いとされているのだ。それは旅の基礎中の基礎知識。魔物が時々出没する地域では、話せるようになったばかりの子どもでも知っていることだ。
目の前の魔物がまともに喰らって悲鳴を上げているので、ティルは更に優越感に浸って口角を上げた。その巨大な体でこの狭い部屋を動き回るのは無理であろう、連続して熱を放つと避けられることなく全て命中した。
「ハッ、魔物フゼイが!牙、これだけデカイとどのくらいで売れるかな。あ、爪もいっぱいある!やった。」
調子良く吐き捨て気を緩めたその瞬間、魔物が爪のある脚を伸ばしてきた。目に残像も残らない速さだった。耳にはすぐ横の風を切る音と、魔物の悲鳴だけ残っている。そして何かが千切れる嫌な音が、ティルの背後でした。桃色の毛が舞う。呆気にとられていたが慌てて気を取り戻し、音のした方に目を向ける。女性の長い髪の片側一部がバッサリと切り落とされていた。間一髪、首という急所は逃れたようだ。ティルも、少女も。狙っていたかのように二人の首元に魔物の脚が入っている。
状況がやっと把握出来ると、ティルは現在の自分の心臓を表すように跳ね飛んで、魔物の脚から大きく下がった。脚に空に浮かんでいた枕が刺さった魔物は、枕を振り落としながらゆっくり体勢を戻していく。その時、女性は張り詰めていた糸が切れたように膝を折り、その場に崩れた。同時に空に浮かんでいた部屋中の物が一斉に落ち、埃立つ。
「はぁあ?!今気を失ってる場合か!」
相手の手元が狂ったのだろうか。傷一つないティルは無事を喜ばない。一本取られたような気がして強烈に腹が立ち、女性に当たる。怒りに任せて魔力を膨らませると、高熱を込めて魔物に打ち込む。炎があがり、それがぶつかった時、爆発音と共に蛋白質が燻されたような臭いが放たれ、部屋に薄い煙が充満する。ティルは爆風に目を掠めて舌打ちをした。腕で口や鼻を押さえて耐えるものの息苦しい。足下に転がっている女性が、久し振りに息をしたかのように呼吸を乱して咳き込んだ。
ティルは勿論気付いたが、気に掛ける余裕はなかった。魔物の動きがわからない。視界いっぱいの煙が瞬く間に広がって明かりを遮った為、突然のこの暗闇に目が慣れていない。気を張り詰めて身構えていたが、廊下に煙が流れて視界が晴れる頃には、魔物の姿が消えていた。ティルは唇を噛んだ。
20130519
20170117改稿