夜の終わり
深い緑の瞳に緑の髪、典型的なルマティーグ人の容姿である。ぴょんと外側に跳ねた毛先が揺らしながら、薄暗い廊下を真っ直ぐ走り抜けて行く姿はまるで小動物だ。そんなナディアは勘がいい。本能で生きる野生の生き物のような鋭い感覚をもっている。そして目の前の小さな緑頭を追いかけている、亜麻色の癖毛をもつ長身のマーサ。マーサにはわからないが、ナディアが向かうこの先に何かあるのだろうと確信していた。走り回るには狭い家だ、息を切らす前に行き着いた先は風呂場だった。火が消えていて、いると思われたサラの姿も見えない。暗い暗い空間に二人の息遣いが吸い込まれ、消えた。水滴が落ちる音だけが一定のリズムで聞こえている。
「マーサ、血のにおいだ。」
「うん……。」
声を潜め、身を寄せ、武器を構える。手に馴染む武器は、それでも久々に握られている。二人はそれぞれの武器を静かに握り直し、暗闇に目を凝らした。しばらく微動だにしなかったが、突如風を切る音を立てながらナディアの手が動く。
「みっけ!」
投げられたナディアのダガーが真っ直ぐ飛び、暗闇に突き刺さった。すると、そこの暗闇が崩れて穴が空き、いつもの石壁が現れる。暗闇に突如現れた石壁の穴を、囲んでいる暗闇がじわりじわりと動く。その闇が一つ、黒い羽の生えた小型の生き物の形となって飛び立った。その羽音を合図に、強い光りを当てられたようにして一斉に闇が弾ける。一瞬のうちにいつもの風呂場を何百匹もの生物が飛んでいる景色となった。
「なんなの、これ!」
「わからないわ!」
大量の羽ばたきで目は眩み、声はかきけされてしまう。背中合わせだった二人は鼻先を飛び交う生き物との接触を避けるため、陣形を崩してしまった。生き物の黒く硬い毛の生えた体や牙、爪が、四方八方から大量に二人に浴びせられる。殺傷能力は低いものの、未知の生き物と圧倒する量に二人は戸惑った。ナディアはもう一本ダガーを取り出し、両手に構えて闇雲に振り回し始める。素早く乱れた動きであったが、生き物たちにはた易く軌道を読まれてしまっていた。マーサが次々とかすり傷を顔や手足に作りながら果敢にポールで突くのだが、予測不能の動きにはまったく追いつきそうにもなかった。
「二人とも!」
大量の羽ばたきの遠くで声がした。焦りの隠せないマーサとナディアが同じ方を向く。
「!!」
「サラ!?」
そこには一糸纏わぬサラの姿があった。惜しげも無くその豊満な身体をさらして膝をつき、弱々しく壁にもたれている。二人が驚愕したのは、サラが全身血まみれだったからだ。頭からかぶったかのように、血に濡れた金髪がべったりと頬に張り付いてしまっている。マーサとナディアは慌てて駆け寄り、屈んで目線を合わせ、息が上がっているサラの手をとって握った。
「はー、苦しかった……。」
「何があったの?!どうしたの?!」
「ん?なんかね、いきなり暗くなって……それで苦しかったんだ。」
「痛い?痛い?!」
「ううん、どこも痛くないよ。」
「でも真っ赤っかじゃん!」
「これはねー」
縦横無尽に飛び交っていた生き物たちが、なんとなく方向性を持ち始めた。それが渦をつくり、寄せ集まって黒い塊になる。その塊が徐々に人型へと変貌した。
「あの人がねー」
「お前どこからきた?!誰だっ!!」
「い、いつの間に……!」
サラが指差した人型の塊は顔に暗い影を落とした男となった。長身で、姿勢が悪い。何よりもつり上がった目と、先の尖った長い耳が目に付く。足を隠す真っ黒の布が、変化の終わっていない生き物の羽ばたきで蠢いていたが、動揺している間にすっかり布に変わって大人しくなった。そして男は口を開いた。
「お前たちに用はない。」
「お前がサラをこんな風にしたんだな!」
「……お前たちに用はない。」
「あなたが無くても、私たちにはあります。」
「マーサ!」
「うん。」
マーサは立ち上がると眉を立てて男を見据え、ポールを構えた。ナディアは男の背後に素早く回り、両手のダガーを投げつける。男は眉の一つも微動だにせず、ダガーは狙い通り腹部と肩に命中したのだが、身体に穴が空いて通り抜けてしまった。真っ黒な男の身体が、パズルが壊れる様に崩れると、その破片が再びあの黒い生き物となって散り散りに飛び交い出した。
ナディアのダガーは何も仕留めることなく、真っ直ぐマーサへと向かってしまう。だが、マーサは避けようとしない。自分の武器を構え、静かに振った。無駄のない、しなやかな動き。一匹、生き物を殴打するのと同時に、二本のダガーを叩き返した。ダガーは真っ直ぐナディアの手元へ返る。その間、ナディアは三本、ダガーを取り出して順番に一本ずつ投げた。全てが確実に生き物を狙っているのだが、仕留めることができたのは僅か、最初の一本のみ。痙攣する生き物といっしょにダガーが落ちた。マーサに打ち返されて戻ってきたダガーを受け取り、また投げる。一方、マーサは大きく一振りして、空のまま走る二本のダガーを叩く。ダガーは軌道を変えると同時に勢いをあげてそれぞれ敵に向かった。予期せぬダガーの軌道を避けられなかった生き物を、二匹とも逃すことなく仕留めてナディアへ返って行く。
「ありがと!」
この絶妙に噛み合う二人の息は、一秒も狂うことなく繰り返された。しなやかで機転のきくマーサの動き、衝動的ではあるが瞬発力のあるナディアの動きが、それぞれお互いの隙を埋めあっていた。
「……。」
ナディアは仕留めた生き物を払い落として即座にダガーを投げる。刃にはべったりと血がついているが、小さな生き物を仕留めるには支障はないようだ。マーサは生き物を仕留めて落ちたり壁や床に刺さったりしているダガーを時折すくい上げ、そしてナディアの動きに合わせて打ち返し続けながら、違和感を拭おうとしていた。
(埒が明かない……。どうすればいい?)
何匹か仕留めているのだが、その群れは一向に衰えを見せないし、先程の男も姿を表さない。二人が攻撃している間も生き物は縦横無尽に飛び交って襲いかかってくる。多勢に無勢で何もかも追いついていないのは明らかだった。何より、しっかりと仕留めた筈の生き物は、横たわっている所から目を離した瞬間、姿が消えるのだ。きっとナディアも同じ違和感を感じているのだろう、向かってくるダガーに迷いが見え始めている。こんなにも得体の知れない敵は初めてだ。次第に息が上がってくる。体力だけが消耗されていった。
「二人とも!」
サラが息を整えて、傷だらけの姉妹がいる生き物の大群に飛び込んだ。今にも膝の付きそうなナディアに噛み付こうとしている生き物に向かって飛び蹴りを繰り出す。サラの芯のある脚がは勢い余って壁に激突したが、石壁の破片と共に二匹の生き物の血も飛び散った。石壁がへこんでいる。
「あー!壊しちゃった。でもこのくらいならバレないかな?」
蹴りの振動でランタンが揺れ、三人の影が踊った。サラは二人のいる方へ向き直りながら、拳で壁を叩いてまた壁を歪ませた。腕を下ろすと潰れた生き物が壁にめり込んでいる。めり込まれた生き物の姿が溶けて消え、壁に血が滴った。
「え!」
マーサは自分の目を疑う。試しにポールを縦に振り下ろして飛んでいる生き物を床に叩きつけてみる。ポールの先に目を離さずに潰れている様子を見ていると、先程と同じように血になって溶けた。ナディアもその様子を見て目を見開き、ポカンと口を開けた。
「なんなの……こいつら。」
「わかんなーい。」
「これがわかったからと言って、何も変わらないし……。」
マーサとナディアは後脚でゆっくり壁へと下がり、サラの元へ集まった。頭上ではランタンがゆらゆらと大きく振れていて、三人の表情が複雑に揺れた。
「サラ、怪我は大丈夫なの?」
「え?わかんない。」
「フラフラしない?」
「わかんない。」
「わ、わかんないって……。」
「んー……だからね……うるさいなぁ。」
サラが眉尻を下げて困惑顔になると、目と鼻の先で飛び回る生き物を両手を合わせて叩き潰した。絞り出た悲鳴が聞こえ、血飛沫が顔にかかり、両手にはぬるっとした感触が残る。例の如く生き物の毛皮や羽などは一切の破片も残っていない。マーサはその行為を目の当たりにして顔から血の気が引くのを感じた。ナディアもぎょっと目を丸める。サラは全く動じておらず、血だらけの手を耳の横に当てて耳を澄ませる仕草をした。羽ばたきばかりが耳に入ってきて、二人の声があまり聞こえない。
「もう一回!大きな声で言って?」
「なんでもない……。」
「いでっ!……くっそー!!」
ナディアの鼻先に生き物の爪が直撃した。そうこうしている間にも三人の顔や腕、脚にかすり傷がどんどん増えていく。じわじわと痛みが強くなってきて、疲労も強くなってきた。中でも一番息の上がっているナディアは、その場に膝をついて叫んだ。
「この生き物が何か、せめてそれがわかれば……!」
膝をついて崩れるナディアを横目で見て、マーサは意を決したように頷く。羽織っていた薄いカーディガンをサラの肩にかけてやり、ポールを構えて妹たちから離れた。サラは今頃になって自分が裸で、しかも血だらけなことに気が付いた。照れる様子も驚く様子もなく淡々とカーディガンを着込む。
「爪、牙、硬い毛皮……羽。血になって溶ける……」
マーサはポールの端を持って大きく振る。リーチの分だけ数を殴打することができ、振り幅の分だけ威力が上がった。時折小さな悲鳴のようなものが聞こえるが、決定的な攻撃はできず、倒すまでには至っていない。それでも確実に、動きが鈍くなってきている。
(あの男の人……ううん、今は目の前の敵のことだけ考えるの!)
「よし!」
舞うようにポールを振り回した。自分から動けばその摩擦で更に傷つく。ただ途方もない量の敵を確実に、着実に、弱らせて減らしながら様子を伺う。
「よーし、私も!」
そこへサラが加わった。二人は向き合う位置で見つめあい、微笑んだ。サラはマーサのポールが下を回れば上、右に振れれば左と、ポールを避けながら飛び蹴りや拳突きを繰り出す。ナディアのような瞬発力はなく、ポールを避けるついでに近くの敵を攻撃する形だ。突発的で行き当たりばったり、よく言えば柔軟なサラにしかできない。互いの死角を埋め合いながら、演舞のような連携が続いた。
「よっし!いくぞ!」
パン!と自分の両頬を叩いて気合を入れる。息はだいぶ落ち着いた。それに姉たちに遅れはとりたくない。負けず嫌いなナディアは目を爛々と輝かせ、胸元から二本の木片を取り出した。木片を両手に持って振り下ろすと、収まっていた刃が飛び出してナイフになる。二本の柄の端がチェーンで繋がれており、軽く振り回しながら二人の間に飛び込んだ。ナディアの飛び入り参加によって、また陣形を変える。三人は自然と背中合わせになって視界に入る生き物たちを攻撃した。
「二人とも大丈夫なの?」
「大丈夫!」
「大丈夫~!」
「サラは一番血だらけじゃん。」
「これ、ほとんどやっつけた鳥の血だよー。」
「確かに鳥にも見えるけど、どちらかと言うとドラゴンに近いような……。」
「あっ!それ私も思った!牙も爪もあるし!」
三人は落ち着きを見せ始め、まるで雑談するように会話しながら休むことなく攻撃を続けた。生き物は目に見えて勢いが落ちていき、優勢の旗が少しずつ三人に傾く。
ナディアは調子を上げて攻撃の範囲を広げ、それを見たサラも自分のペースで手足を伸ばす。競い合うように二人が好き勝手暴れだすを感じると、マーサは苦笑した。こうなった二人は止められない。ナディアのナイフやサラの手足の邪魔にならないよう、狭い空間の中の、更に狭い範囲での攻撃を強いられる。
「あ!」
勢い余ったマーサのポールが、天井からぶら下がっている一つのランタンを突く。
「え?」
続いて気が逸れたナディアの手元が緩み、投げ出されたナイフがもう二つ目のランタンを叩く。
「ん?」
そして攻撃をしかけた拳の軌道が、サラの注意が向いたランタンに変わる。敵を打とうとした勢いはそのままに拳が真っ直ぐ三つ目のランタンに向けられ、一部の天井もろとも大破した。三つのランタンが損傷と振動の所為で次々と落ちてくる。そして亀裂に耐えきれなくなった天井が一斉に崩れ落ち、風呂場に崩壊の音と煙が充満した。
20130414
20170117改稿