夜が明ける前に
夜のオークを完全に静寂が支配している。月明かりだけがこの入り組んだ巨大な“城壁”を照らし、はっきりとその輪郭を浮かび上がらせていた。唯一笑い声と明りが灯るアンナの家にも、その静寂は忍び寄っていく。
「悪い、騒がしくなりそうだ。」
キースが舌打ちすると立ち上がって言った。意味のわからないマーサは不思議そうにキースを見上げていたが、目の前のナディアが文字通り飛び起きたので意識が全てそちらに向いてしまった。口をパクパクさせて何か言おうと必死なマーサの気持ちなど少しも知らないまま、ナディアは見えない外を凝視するように、穴が開きそうなほど扉を見つめている。
「な、ナ……!」
「ティル!女のところへ行け。」
そして下の階で華やかな雰囲気のかけらもなく見つめあっていたティルとアンナが同時に二階に視線を逸らして身構える。
「ごめんアンナ、リーダーからの命令だ。」
「いいのよ。また後でね。」
任務を遂行する為に歩きだしていたティルは振り返り、にこりと微笑むアンナに向けて舌を出して答える。
「あらあら。可愛いこと。」
その後はお互い目線が絡み合うことなく、それぞれの目の前の者に“対峙”した。
「マーサ、サラは?」
「えっと、多分……まだお風呂に。あの子長いから。」
ただならぬ空気にマーサも一応は落ち着きを取り戻し、ナディアと同じ方向を向いた。そしてゆっくりと腰に隠しているポールに手を伸ばす。ナディアは既に体勢を整えていて、その手には小型のナイフが握られていた。刃が左右対称で先が鋭利になっている、ダガーだ。
「ナディアは大丈夫か?」
「何が?キース、あの子のところ行ってもいいよ。心配でしょ。」
「いや。ティルだけで十分だ。」
「そっか。」
ニッコリ不敵な笑みを浮かべるとナディアは手慣れたようにダガーを指で回した。しっかり握り直してベッドから飛び降り、足音静かに着地して見せる。そのしなやかな動きの隣でカチン、と音がして、マーサの武器が組み立てられていた。鉄製のポール。かなり使い込まれているのか、びっしりと残されている細かい傷に鉄特有の輝きは滲んでいる。それでも磨きあげられていて、薄明るい部屋で灯る炎の光がゆらりと反射していた。
ガタン!マーサが口を開いたその時、何かの音よりも、振動の方が大きく響いた。で狭い部屋の三人が背中あわせに身を寄せ、身構える。
「マーサ、ナディア。行けるか?」
「ええ。」
「うん。」
「任せた。後で必ずアンナと合流しろ。」
「了~解!マーサ!行こう!」
「う、うん。」
勢いよく開かれた扉の反対側で、キースは小さな窓を開け、外に向けて右手を振りかざした。ヒュ、と風を切る音がして、その瞬間にキースの右手に血が滴った。手の中で身体の小さなドラゴンが、口から血を吐いて白眼を向いて息絶えている。羽が生えているようだったが、それも手も足も不自然な形で固まっていて、そして何重にも締め付けられているように皮膚が波打っていた。亡骸を外に放り投げると、血の線が部屋を踊る。キースの指先から糸を伝うように血が垂れていた。そして恐ろしく冷静な紫の瞳で夜の闇を真っ直ぐ見据え、窓に潜り込んで降りていく。固い石畳の上に難なく着地すると、キースは店の扉の前で剣を抜いた。
キースの愛剣、レタリオ。レタリオとは、ある国の主都の名前でもある。主都・レタリオは魔法剣発祥の地と言われ、昔は多くの魔法剣が作られていた。腕のある鍛冶屋の減少に加え、魔法剣の扱いにくさから使うものも少なく、新しい魔法剣は全く作られなくなったのだ。この魔法剣・レタリオは、とある鍛冶屋の最後の作品。飾り気がなく、洗練を極めたその一本は、まさに古き良きレタリオを代表する剣だった。
「だっさい剣。」
月明かりに照らされてできた、石畳の光と影。歪みながらも規則的な影の線を描いているはずの石畳は、キースの足元と周辺だけ影ばかりだった。ゆっくりと顔を上げると、そこに生き物の巨大な双眸が微動だにせずこちらを見ている。
「こんばんは、お兄さん。」
何が面白いのか、クスクスと笑っているのはどうやらこの小さく唸る生き物ではないようだ。
「綺麗だよね、月って。知ってた?僕たちの住んでいるところに月はないんだよ。」
「……。」
「まぁいいや。ねぇねぇ、どこから気付いてたの?」
巨大な目が光った。まん丸に見開かれているそれは、満月のようだ。そして音のなりそうな程のまばたきで伏せられると、ゆっくりその身体を石畳に下ろしていく。巨大なドラゴンだったが、羽ばたきで生じた風の音以外はとても静かだった。
「何のことだ。」
「何って、僕たちのことだよ。僕の部下が、お兄さんは僕たちに気付いてるっていうから。」
ドラゴンの太い頸部の影が動いた。そこから小さな丸い頭が現れて、小さな二つの目でキースを見つめる。堂々としたその目は、好戦的で好奇心に満ちあふれていた。ドラゴンの背中から滑るように降りると、少年の姿が月明かりに照らされる。小柄で華奢そうな、小さな身体。あまり見かけない格好であったが、身形が良いことは明らかだった。
「アイツの買いかぶり過ぎかな。」
何時まで経っても口を開こうとしないキースに整えられた眉を下げた。その目には苛立ちが、声には挑発が、はっきりと表現されている。それでもキースは冷静な表情を崩すことなく真っ直ぐ見つめ続けた。ちょうど少年が降りた場所に、キースが倒した小さいドラゴンが横たわっている。少年がそれを見つけて目を細め、躊躇うことなく思い切り踏みつけた。一踏みで石畳が崩れ、小さな死体は瓦礫と土埃に埋もれて見えなくなる。少年は冷たい視線をキースに向けてしばらく睨みつけると、小さく口を開いて言った。
「やれ。」
その一言を待っていたように、ドラゴンがすぐさま口を開いて熱風を吐いた。キースは剣を盾にしたが、爆発のような勢いには勝てなかった。吹き飛ばされて店の扉に叩きつけられる。そしてキースの体勢が崩れた刹那、間髪入れずに少年が腹部に深く、足を踏みこんできた。ガシャンという音で扉や壁が崩れる。粉々になったガラスや石の埃が落ち着いた頃。店には大きな穴があいて、吹き飛んだであろうキースの姿はどこにも見えない。そして少年の足に手応えはなかった。怒りを露わにして店に入っていく。
「どなた?乱暴なお客さんはお断りよ。」
「客じゃない、オバサン。」
アンナは、一人グラスを磨いていた。何個目かに磨き終えたグラスをカウンターの上に置き、先程磨き終えたグラスの隣に並べる。繰り返し繰り返し並べていくと、次は重ねてまた並べていく。とても静かな動作だった。ただ、アンナが咥えているキセルから出る煙だけが激しく踊り続ける。その間、少年は店の中を荒らして回っていた。
「どこだ?」
「何が?」
「あの男だよ!」
「ああ、あの子ね。……どの子かしら?」
アンナが今磨いていたグラスが落ち、薄いガラスが割れた音が響く。少年がアンナの手首を掴み、抵抗しないアンナの手が開いたからだ。
「気が強い子は好きだけれど、強引な男は嫌いよ。」
アンナは微笑んだ。そして自由な手でキセルを掴み、そのまま少年の顔に向かって振りかざす。舞う灰の向こうに、少年は瞬時に退く。怒りに燃える少年の大きな瞳の中で、一本の蝋燭の光に照らされた、不敵な笑みを浮かべるアンナの顔が揺れている。
「お前……!」
「坊やに口の利き方を教えてあげたいところだけれど……」
「なん……!」
「いいのかしらねえ?大事なことを忘れているのではなくて?」
怒り心頭な少年は、背後に気配を感じるのが遅かった。キースが少年の首を掴んで、投げるようにして店の壁に叩きつける。大穴が開いて脆くなっていた壁は簡単に崩れて、少年はすぐ店の外に投げ出されてしまった。
「……店の修理代は誰に言えばいいのかしら。」
アンナはまたキセルを口に咥え、掴まれていた手首を押さえて眉間に皺を寄せる。
不意に投げ出された少年はまともな受け身もととれず、投げ出されたままの恰好で身体を打ち付け、意識が一瞬離れたが、中途半端な痛みの所為で感覚ははっきりしていたので、失われることはなかったようだ。痺れがとれて身体が動くようになり起きあがると、顔や露出させていた腕、脚に数え切れない擦り傷が出来ている。瓦礫にまみれた衣服は、大量の血で汚れていた。
「?!何故!」
擦り傷は痛むが、そこまでの出血とは思えない。血液を吸って重たくなった衣服を慌てて押さえて周りを見る。月明かりに照らされた石畳が波紋を描いている。自分を中心に、そこがまるで水面にさえ思える程の。そこは、冷たい血の海だった。
「……!?」
足音が聞こえ、波紋が増えた。大きく広がった波紋の波が少年の肌に当たって、波紋を生み出した主に返っていく。足音がやむとそこを恐る恐る見上げてみた。キースが、相変わらずの冷たい目で見下ろしている。この目は、無頓着そうで無関心なものに向けられる目だと少年は思った。そう思ったら突然汗が噴き出してきて、手足が細かく震えてきた。歯の根も合わない。
「あ……あ、あ……」
「……。」
「な、……」
一歩、キースが距離を縮めた。
睨みつけようと思っても、暴言をはこうと思っても、少年の心身がそれをできない。身体が勝手に後ずさりをする。
「ああ、」
「!!」
キースが発した声に、身体が過敏に反応して大げさに強張る。悔しくて、少年は唇を噛んだ。せめてもの抵抗はあがきでしかないとわかっていたけれど、そうもしないと自我が保てない。下がればまた一歩、また一歩とキースが近付いてくる。一番恐ろしいのは、この紫の目だ。何かを見ているようで見ていない、血の通わない目。少年はついに逃げ場を失った。背中には、
「処理が面倒だ。」
少年が連れてきたドラゴンの山があった。巨大なドラゴンは二体とも首が切り落とされ、小型のものは四肢が揃うことなく好き勝手ばら撒かれている。少年はまだそれに気付いていないが、気付いた時こそ、意識を手放すだろう。
20130217
20170117改稿