瞬く夜
「ママ。」
「なあに?マーサ。」
「キースたちにお食事出そうと思うんだけど……。」
「んー、そうねえ。」
「あの……ティルさん、何か食べたいものありますか?」
「……。」
ティルは涼しげな顔を一つも動かさず、頬杖をついたまま前を向いていた。ひたすら、無言に。亜麻色の髪の娘、マーサは身を縮めて、それでもティルからの返事を待つ。アンナも待ってはみたが、それは無意味だとすぐ判断した。ついにティルの口から出たのが溜息だったからだ。
「私が出しておくわ。だからマーサ、アンタたちはもう寝なさい。」
「あ……、……うん。」
「サラなんて、まだお風呂に入ってもないでしょう。入るように言って。」
「うん。お休みなさい、ママ、ティルさん。ゆっくりしていって下さい。」
「……。」
「おやすみ、マーサ。」
思わず微笑んでしまう。マーサはアンナが暮らしを共にしている三人の娘の中で一番内気なタイプだ。比較の対象になるサラと、特にナディアがこれでもかと言わんばかりに明るいので、マーサの内気さが一際目立つ。幼い頃のマーサは人見知りも激しく、自分かサラの後ろによく隠れていたのをふと思い出した。そんなマーサが、怯えながらも決して屈することはなく真っ直ぐティルを見据えていた。そのマーサの目には、あの頃の弱みに打ち勝った彼女の力強さが映し出されているようだ。
「マーサってあんなだった?」
「あら、そうよ?なんでも内に秘めるのは昔から変わってないわ。」
「どういう意味。」
「ふふ。ただティルが変わってしまっただけかしらね。」
「は?」
そう言うと、アンナはソファーへ目を向けて黙った。緑色の髪の娘、ナディアがキースの腕にしがみついて首を横に振っている。それに上からマーサが語りかけると、どうやら諭せたのだろう、ナディアが渋々といった表情で立ち上がってマーサに抱きついた。その脇をサラが慌てたように通り過ぎていき、二階へと消える。マーサはナディアの髪を撫でながら二つ三つキースと言葉を交わし、アンナに一礼をして二階に上がっていった。
「静かになるもんだ。」
サラ、マーサとナディアがそれぞれ店から姿を消した後、キースは首の骨を鳴らしながらカウンターの席へやってきた。やや眉間に皺を寄せてはいるものの、彼のいつもの表情だ。初めに腰を置いてから動いていないティルの左隣に腰掛ける。ティルが横目で確認したその横顔は、なんだか疲れているように見えた。
「ありがとうね、キース。あの子たち、アンタの旅の話を聴くのが大好きみたいなの。」
「そりゃ良かった。お陰でクタクタだ。」
キースの髪はこの上なく乱れている。それだけでなく、薄手のコートは肩の部分が少し引き裂かれ、よれてしまっていた。
「それ、ナディアね。上着、直しておくわ。」
「いや、マーサがやってくれる。」
「あら。そう?」
「随分乱暴されたみたいだな。」
重たい口を開いたティルの機嫌は最悪だ。憎悪の影が表情を暗くする。水が入ったグラスの縁を人差し指でなぞりながら、まがまがしい微笑みさえ浮かべている。手櫛で逆立ったり飛び跳ねたりした髪を直すキースを見て、実に忌々しそうに顔を歪めて鼻で笑った。
「お前な。」
「ナディアはいつでも一生懸命で全力なのよ。ごめんなさいね。」
「それ、気をつけた方がいいんじゃない?」
「ティル。」
「キース、いいの。本当にその通りだから。でもティル……私も、こう見えてあの子には手を焼いているのよ。どうしたらいいかしら?」
制された言葉を飲み込むと、椅子に腰掛けて足を組み、ティルが視界に入らないようしっかり背を向けた。アンナは磨いていたグラスをそっと置き、布を畳みながらゆっくり首を傾げる。
「悪いことしたんだから、反省するまで“地下牢”にでも入れておけば。」
「……。」
“地下牢”とは、昔ティルがお仕置きにとよく入れられていた地下倉庫のことだ。倉庫のクセに木箱の一つもない、埃っぽくて、ただ暗いだけの空間。ティルは憎しみや恐怖を込めて“地下牢”と呼ぶ。
「あら、懐かしい話。」
「閉じ込められたティルを、助けに行くのは俺だった。」
「そ、そういう話はどうでもいいんだよ……!」
「んー……でも、ナディアに同じことはできないわ。」
「木に縛り付けたらどうだ?ティルは昔」
「キース!!」
「ふふ、何かしら?木に?知らない話だわ。」
夜は一層深まり、そろそろ明るみに向かおうとしている。店に掛けてある時計が、二つ鐘を鳴らした。古い間延びしたような鐘の音は三人の耳に届き、やがて沈黙を誘う。鐘が消えてから少し、店はがらんと静まり返った。
「アンナ、マーサの部屋へ行く。ナディアに物語を話す約束をした。」
「ナディアったら、また自分の部屋で寝ないつもりね。
マーサの部屋は二階へ上がって一番奥、向かって右の部屋よ。」
「わかった。」
マーサの部屋ではナディアとマーサが待っているらしい。後頭部を掻くキースの背中はティルには気怠そうに見えたが、その足取りは一歩一歩確実に進められていった。
「ちっ、腹立つなあ。」
「はいはい、ティルは本当に仕方ないわね。そんなに独り占めしたいなら、アンタもついて行ったらいいじゃない。」
「そんなんじゃない!……それにあいつら、俺がいたら嫌がるだろ。」
「娘たちのこと?嫌じゃない。怖いのよ。」
「はっ……俺よりキースの方がよっぽど怖いと思うけど?」
「そんなことないわ。それに、あの子たちはティルがもう少し怖くなかったら、仲良くしたいと思ってるはずよ。」
「どーだか。」
「ああ、もう……。アンタ、どこでそんなひねくれたの?」
「俺は変わらないよ。」
「その台詞、本当にシコードそっくりだわ。あの人に似たのね。」
アンナは中断していたグラス磨きを再開する。飲み口が狭く細長いグラスをそっと持ち上げて、柔らかい布を当てた。
「……。」
「……そう、シコードは、元気かしら?今回も手紙一つないようだけれど。いつまでもこの調子じゃ合い言葉を変えないといけないわね。」
「……。」
「ティル?」
「あの人は相変わらず“くたばってる”よ。」
「なあに、それ。まぁいいわ。とりあえず仲良くやってるのね?」
「……キースと?」
「シコードとよ。」
「……さあ。」
「ちょっと。まさかアンタ、シコードと喧嘩して家を出てきたんじゃないでしょうね?」
「違う。」
「だったら何。」
「別に?」
「もう……。」
視線を伏せ、やや面倒くさそうにティルは短い返答をした。真面目に答える気はないらしく、落ち着きなく上着の襟や裾をいじりながら。ひとしきりいじり終え一つため息をついた後、手を組んでテーブルの上に置き、アンナへ強い視線を向けた。表情を押し殺したような無表情で真っ直ぐ見据える。瞳の奥で、挑んでいるような、試しているような、疑っているような押し殺した色たちがチラついて見えた。アンナはその瞳から目を離さず、眉間に皺を寄せてグラスを磨く手を止める。
「俺がキースについて旅をするのは、そんな理由じゃないよ。」
色が、僅かに揺れる。泣き出しそうな、消え入りそうな、弱々しい声。それなのに重たく響いたのは何故か、アンナは考え始めた。
「ごめんね、キース。疲れてるのに……。」
「いいや。」
「この子、私の力じゃどうにもならなくて。」
ベッドの中で、ナディアが笑みを浮かべていた。年相応の小さな体には、このベッドは大きい。ちょうど今物語を終えるところでナディアが健やかな寝息を立て始めてしまい、マーサが自分のベッドに入れてやったのだった。ベッドに腰掛けたマーサは、細い腰を曲げて身を屈め、ナディアの髪を撫でながら苦笑する。疲れきったと言うよりは自嘲するような笑い。身長の高いマーサのすらりと長い脚の向かいに、小さなドレッサーの椅子が寄せられていて、キースがそれに腰掛けている。手の中にはマーサが客から借りた古い本が開かれていた。小さな、ポケットサイズの詩集だった。表紙には金の文字でタイトルが捺されていたらしい。だいぶ古いのか、掠れて読めない。
「毎日つまらないんだろうな。私もキースみたいに旅をすれば少しは面白くなって、ナディアを満足させてあげられるのかな。」
寝息を立てていたナディアが、唸った。
小さく身じろぐ。マーサは俯くようにナディアの顔を眺めたまま髪を撫で続ける。部屋が少し静かになって、重たい空気が流れた。
「一緒に行くか?」
重たい空気を無視して、キースが飄々と口火を切った。
「え?」
「旅だ。そうすれば、ナディアの好きな冒険の話もしてやれるんだろ。
ただ……」
「な、に?」
醸し出された神妙な空気にマーサは思わず息をのむ。キースは開いた詩集のページめくり、それに目を通した後マーサへ向けた。その真っ直ぐ向けられた紫の双眸を、マーサは無視できそうにない。受け止めているだけで精一杯だ。
「ねぇ、何……?」
続きを聞くのは恐ろしかったが、もう一度問いかけてみた。一瞬キースの目が細くなる。
「……。」
「……っ!」
キースは僅かに目を細め、口角を片方だけ上げて薄っすら笑みを浮かべている。なんとなく、後に続く話がマーサには想像できてしまった。先程キースが話した短い物語。登場する魔術士がとんだ大騒動を巻き起こす話が頭に浮かんで思わず吹き出す。
「ただ、ティルのワガママに付き合って巻き込まれた、くっだらないトラブル話の方がずっと多いけどな。」
「ふふ!やっぱり?ビックリしたわ。」
「残念ながら実話だ。」
「そんなに大変?」
「ああ。最近だと船のデッキに」
詩集がすっかり閉じられた頃。ナディアは、こっそり目を開ける。
(マーサ、嬉しそう!)
二人は愉快そうに話をしたり聞いたりしている。こんなに明るいマーサは久しぶりだ。ナディアはカッコイイ冒険話が好みだが、他愛もない冗談を聞くのも悪くないと思った。
(気は利かせてみるものね。うん、私ったら大人に仲間入り?おめでとう!)
自分の成長を祝ったのも束の間、マーサの口からは自分の失敗談が面白可笑しくなって登場した。思わず拳を振り上げそうになったが、握ってぐっと堪え、気づかれないように、規則的な寝息を立てる真似に集中することにした。
「やっぱり私に旅は無理!うふふ、面白いけど。」
「残念だな。ティルの世話係がほしいところだった。」
「ふふっ。冗談はここまでにしよう、お腹痛いわ!」
「実話だ。」
「わかったわかった、わかってる!」
踊る呼吸を落ち着かせようと、胸を撫でながらマーサは深呼吸を繰り返す。明るいため息をついた後、満面に笑みを浮かべて口を開いた。
「でもあれはその、冗談よ。私、家を出ようなんて、少しも思ってないもん。」
「ああ。」
「うん。ありがとう、キース。
ナディアが甘えてきてくれるのはとても嬉しいの。でも、私なんかでいいのかなって、考えてしまう日もある。」
落ち着き始めた空気を裂くように、突然ベッドの中のナディアが寝返りを打った。脚が上がり、音を立て落ちる。短く緩いズボンから伸びた素足を布団から出したまま、小さく動いて落ち着く場所を探した。
「これでいいのね。」
マーサは飛び出たナディアの脚を布団にしまい、ナディアの前髪をそっと梳く。そして額を重ねて、静かに響く声音で囁いた。
「私、人を楽しませるのは苦手だけど、ナディアと二人で楽しむことはできるもの。」
店の二階は居住空間になっている。店の広さがそこそこにある為、二階もそこそこに広い。部屋は四つあり、そして住人の四人が共用して憩うスペースもある。不自由は何一つないのだが、サラは、欲を言えば風呂がもっと広ければいいと考えていた。
「そうしたら泳げるし。」
アンナの店にはサラたち以外に三人の娘が勤めていた。三人とも近所に住む、若い独身の女性だ。その内の一人が、先日旅行に行ってきたらしい。温かいお湯が絶え間なく湧き続けている、泳げるほど大きな池で入浴をしてきたと今日話していた。その話を聞いてから、広い風呂へのサラの想いは膨らんでいく一方である。ほの暗い浴室で入浴中のサラの顔から笑顔は絶えない。石を積み上げてできた湯船の中で十分に手足を伸ばしながら、その湯船より更に広い、池のような風呂を頭上に思い描いた。その世界にはアンナやマーサ、ナディアの姿もある。四人は仲睦まじく湯気の中を、泳いでいた。
「うん、やっぱり楽しそう。それに…」
この今自分が浸かっている湯は、夕方にマーサが熱く沸かしなおしてくれたものだ。
(広いお風呂は、いつでもあったかいって言ってたな。)
この家に火の魔法を使える者はいない。湯を沸かすのは結構苦労する作業だ。その湯が勝手に湧いてくれるのであれば、楽しいことこの上ないとサラは思う。
「いいなあ、広いお風呂。」
パシャンと水面を軽く叩いた。当たり前のように水は飛び跳ねて顔にかかる。それでもサラの笑顔は衰えず、むしろ繰り返し音を立て続けた。
「……ん?」
ふと違和感を感じて手を止める。灯りが突然叩かれたように揺れ、自分の影が踊ったように思えた。湯船から少し離れた所に天井から吊したランタンが三つある。サラは振り返って確認したが、ガラスの奥の火は灯した時と変わらない。
「あれー?」
自分の立てた波音が揺らしたのだろうか。不思議に思い首を傾げる。
「ま、いっか!あの女の子は私たちと一緒に暮らすのかなあ?どんな子だろー。キースたち、朝になってもまだいるかなー。」
考えてもわからないことはわからない。サラは再びニコニコと笑顔を浮かべて明日に思いを馳せることにした。見上げた小さな窓。晴れた夜空で瞬く星を見て、サラは星がお喋りをしているようだと思った。それを月が優しく見守っているのだ。なんて楽しい日だろう、今夜は眠れそうにない。
20080614
20170117改稿