ゲーテ=マルキス王
「誰?!」
それは広く響く女性の声だった。今まで何の気配もなく突然現れた存在に、身構えたナサエルは勢いよく振り返りながら、強く厳しく問いかける。そこですぐ目に入ったのは、長い鼻筋と毛が生えている尖った耳、獣の顔立ちをした人型。しなやかな身体の線がはっきりわかる、ピッタリとした黒のシャツと黒のパンツを履いた女性だ。艶のある藍色の髪を襟足だけ長く伸ばし、風に踊らせている。
「シャルロッテ!驚かせて、どうするんだ!」
ぽてぽてと変わった足音を鳴らしながら、獣顔の女性の背後から現れたのは、身体と顔、それを形作る全てが丸い何かだ。手のひらで丸めて付けたような鼻と、まん丸なつぶらな瞳、丸い口が叱るような表情を作る。首はなく胴と頭が一体となっていて、限りなく球に近い卵形をしており、そこに短く丸っこい脚、腕がついていて、なんとか人型と呼べそうであった。一応、服のようなものも身にまとっている。
「トロン、しかし!」
「あなたは間が悪いのですよ!」
「ぐぅ!」
「すみません、坊ちゃん、驚かせてしまって……!私はトロン、御者をやっております。そしてこれはシャルロッテ。私たちは亜人です。ご安心を!私はネズミで、これはウサギでして、どちらもあなた方と同じ哺にゅ」
「いやいや、そこではないだろう!」
「何ですと?!」
「坊ちゃん、私たちはっ!!」
「また大きな声を出して!」
「黙れトロン!」
これだけ聞いていても未だ得体が知れないが、その賑やかさに呆気にとられて気が抜ける。すっかり困り果てたナサエルの背後から、イアンとキースが厳しい目線を送っていた。そんな中マリオーズがあることに気づき、目を白黒させながら大口を開けてナサエルの向こうを指差す。
「ま、まままっまさまさまさか!」
「ちょ、マリーまで止めてよ……これ以上は受け止めきれない。」
「ち、ちが!!」
マリオーズはナサエルの頭を無理に押さえ、そして首を曲げさせて何かを見せつけようとする。苛立ったナサエルだが、それも一瞬のことであった。揉めるシャルロッテとトロンの奥から、重々しい金色の光を纏う何かが近づいてきている。その形を、この大陸で知らない者はいない。
「え、え、ウソでしょ……!」
「ななな……!」
動揺を隠せないまま両膝をつき、頭を下げるナサエルとマリオーズに、言い争うのに夢中で気づかなかった二人は、後頭部に衝撃を受けて同時に倒れた。
「この馬鹿者が。」
「申し訳ありません!」
「申し訳ありません!」
「そこの者たち。」
「!」
「!!」
「すまなかった、顔を上げてくれ。」
幾重にも重ねられた上質な布から指をのぞかせて、ナサエルたちを差す。目で捉えなくても知っている端正な顔立ちに迫力のある眼差し、その空気や言葉さえも、重たくのしかかってきて頭が上げられそうにない。ナサエルは、滝のように汗の流れ落ちる音と、早鐘のような心臓の音に全身を支配されていた。精一杯の声を振り絞って、マリオーズが沈黙を破る。
「ゲーテ様……!」
ずっと昔、枯れ果てようとしていたルマティーグ大陸の大地を耕し、人々の為に働く青年がいた。彼は信頼を集め、人を呼び、力を備え、やがて王と呼ばれた。このルマティーグ大陸全土は、最初の王の誕生時からずっと、そのマルキス王家が統治している。 時を重ねても、王国民は王の助けに感謝し、王を慕い、マルキス王国民であることを誇りに思う。そうしてこの大陸の、この王国の秩序は守られてきた。その現代マルキス王は、この若く美しいゲーテ=マルキスである。
「苦労をかけた。」
「いえ、いえ!ゲーテ様!」
「ドン=コルーンの動きには注意をしていたのだが……」
「え、あ、はい。」
「君たちも辛い思いをしたことだろう。もう全て終わった。すまなかった。」
恐怖に近い畏れに心を縛りつけすぎたからか、憎み恐れる男の名前を耳にしたからか、ナサエルは涙が溢れ出して止められなくなった。王とドンとの間にあったことは何も知らないし、何が終わったのかもわからない。それでも何故か、ゲーテのその一言に、救われた気持ちになったのだ。
ゲーテは未だに頭を上げようとしないマリオーズとナサエルの前に膝をつき、二人の小さな肩をそっと撫でた。そして立ち上がり、二人の横を通り過ぎていく。シャルロッテが長い耳を揺らしながら顔を上げて立ち上がる。
「いてて……リロードの坊ちゃんにカミーナのお嬢さん。悪かった、ちょっと緊張してしまって……。私たちは、魔法省において圧倒的な支配力をつけたコルーン氏を警戒していた。」
「えっ。」
「だが察知したのかコルーン氏はこの森に逃げ込み、見失ってしまったのだ。君たちが無事でよかった。」
「無事、って。」
「幽閉されていたでしょう?コルーン氏に。リロード、カミーナ……君たちの父は、コルーン氏に並ぶ権力をもっている。彼は名前を継ぐ君たちを、ずっと狙っていたんだ。」
「う、そ!全然気づかなかった!」
この会話をイアンが影に隠れながら聞いていた。そういうことになっているのか、そういうことにしたいのか。心の声が遠く、王国側もどこまで知っているのかまではわからない。そして、自分のことをどのように認知しているのかも。王国の三人が去るまで、身を隠していることにする。
「って、なんであなたまで。」
「関わりたくない。」
この木の高い位置にある枝は、身を隠しながら下の様子も伺える。大体の把握が終わって一息ついた時、同じように息を潜めるキースがいたことに気づいた。彼らの探しているドンに致命傷を与えたのは彼だ、厄介事には違いないだろう。ドンの亡骸は一欠片も残っていない。それが魂を食い潰された者の末路である。
(救えなかった。)
木の下に見える闇の精霊が、ドンの身体が最後にあった場所にうずくまっているのを見た。あの時、少しでもドンの魂を引き出せたのなら、指の一本分は残せたかも知れない。さらに悔やまれるのは身体だけではなく、魂を残せなかったこと。亡骸も生きていた痕跡も、物質はいつかは全て朽ちるが、魂はそうではない。しかし、ドンという人間は、身体の死をもって完全に消滅してしまった。自分の未熟さを悔やむ。ドンの魂とたくさんの犠牲、そして、セイリアを代償に、このルマティーグはようやく救われた。
「久しいな。」
すぐ下に来ていたゲーテの怒気を含んだ重い声に、ハッと我に返る。肉声かそれとも心の声か、考えに耽っていたため判断がつかなかったが、下の彼の表情を見る限りは、その怒りを隠しているように見えない。横たわるルイと、その実弟であるハーディーン、森の精霊を見下ろすようにゲーテは立っていた。見上げる形のハーディーンが、ぎょっと目を見開いてから、慌てて頭を下げる。その内心は、突然の王に酷く混乱していた。
「君はリロードの。そして、この大馬鹿者の弟だな。そっくりだ。」
「え、あ、は!……え?」
「死んでいるのか?」
「いいや。だいぶよくなった、毒は。あとは私にはどうしようもできない。たくさんのショックから、いやされるのを待つだけ。」
「そうか。これは、どうしたことか……ききたいことが山ほどある。」
多少の混乱を除いて、ゲーテはここであった出来事を知らない。ドンのことも目の前の森の精霊のことも、ルマティーグを支配しようとしていた“悪魔”の呪いのことも。心を乱すばかりの子どもたちに代わり、森の精霊が答える。淡々としたこの残状についてきいても、彼の心は揺らがなかった。今ゲーテの中にあることは、ここにいる全ての者に対する身体への気遣いと、労いの気持ちである。
「話しは後だ、皆を城へ案内する。身体を癒し、心を休めるといい。森の人、旅の者も全員な。」
イアンと同じように様子を伺っていたキースは、顔を上げたゲーテと目が合った気がした。皺が寄るキースの眉間を見て、笑いがこぼれそうになる口を手の甲で押さえて隠す。その一瞬、イアンは肩の力が抜けたのを感じた。
「隠れていたつもりなだけ恥ずかしいですね。」
「……。」
「ティルさんのこともある。行きましょう、皆のところへ。」
20151008




