浄化の歌
「森の人ががんばっていたようだけど、これまでだ。」
「え?」
セイリアは、カナエと二人きりの森の空間で、その不思議な静けさを心地よく思っていた。ナサエルと小さな森の精霊についていったハーディーンとマリオーズ。あの四人がいないと、空気の流れる音さえ聞こえてきそうだ。どうもその表情や言動から感情を読み取りにくいカナエであるが、近寄り難くはない。二人きりになった途端、少し雰囲気が変わった気がした。
「森の人?」
「あの子。緑の、髪の。」
(イアン君のことかなぁ。)
「あの子は、あの子のできる方法で、この大陸の人々を救おうとした。」
「あ……。」
「でもそれだけでは、足りない。」
「あなたは……もしかして……そうなのね、あなたなのね?」
「そうだよ、セイリアさん。」
カナエの足元からゆっくりと、蜷局を巻いている白い蛇の姿が浮かびあがってきた。両目は赤く、零れそうな程大きい。艶のある鱗はしなやかに、それぞれ曲線を描いて光っている。その光は目の前にいるのに遠い、幻想的な神々しさを放つ。
「僕はこの悲しみを、終わらせるため、何百年もあなたを待っていた。」
カナエは一言一言を噛み締めながら、照らされて輝く微笑みを温かく浮かべた。
暗い暗い闇の中では、体温さえその一部になろうと失われていく。ナサエルは、ハーディーンの泣きそうに震えた声から、全てを感じ取った。彼とは弟として引き取ってから共に育ち、やがてかけがえのない家族として慕い合うようになる。だが、心を通わせた彼の全てをナサエルは知ることができた。心の中にある、自分以上の絆に、ナサエルが気づかないはずはないのだ。
「っ……!」
「ハーディーン?!」
ドンの魂を食い尽くした“悪魔”は、今、ルイ魂にしがみつき、身体を得ようとしている。だがルイの身体は何かに命を削られていた。ルイは毒薬を口にして、自分の魂諸共、“悪魔”を消滅させようと考えているのだ。
「な、ぜ……!」
ルイの心は、ここへきて大きく揺らいだ。切り離した筈の絆。絆は決心一つでは切ることのできないものであると、ルイが一番わかっていたのに。この巡り合わせは必然であり、自分の不手際だと、薄れゆく意識ではただ悔やむしかできない。この身体は“悪魔”を道連れにすることが、不可能となったのだ。
「ハーディ……ン、」
ルイの心は最期に懺悔した。届くことない声は、懸命に言葉を並べた。同じ色の瞳に映った弟の表情は、あの時と同じように、歪み縋る悲しみに染まっている。二人の絆の時間を無理矢理止めてしまった自分のやり方を、今初めて愚かだと感じた。
「マリー!このチビお願い!」
「えっ!えっ?!どうなってるの?!」
暗闇さえ感じるものの、ナサエルはこの闇の中で身体を動かすことができた。魔力を風に変換して身体を支え、ハーディーンを追う。危機迫る状況であることを、本能が知らせている。半身であるハーディーンの危機は、自分の危機以外の何ものでもない。それが何なのかを知る暇はなく、この場から立ち去ることだけを考えた。
恐ろしい程理性を失い、暴れるハーディーンを取り押さえるのに必死だ。身動きのとれない人たち、苦しみもがく男たち、その異様な光景を見たマリオーズは、身体が震えて足がすくんだ。投げつけられた森の精霊をキュッと抱く。手放しかけた思考を、真っ白になった頭の中にもう一度張り巡らせる。
(怖い!大丈夫!怖い……!大丈夫、落ち着くのよ!マリオーズ!)
「ああ……でも!どうしたらいいの!神様……!」
その時、腕の中で目を丸くしていた精霊が、小刻みに震え出した。マリオーズはまだ気づいていない。そのうちに、人間で言う手足であった茎のようなものが伸び、髪であった蔓草が細く柔らかく変化する。そうして精霊は徐々に姿を変えていき、あどけなさのない静かそうな少年の顔立ちになった。とても抱き抱えられる大きさでなくなり、マリオーズは自然と彼を下ろした。
「ええっ?!」
「しっ。マリーちゃん、祈ろう。」
「だ、だれ!?なに?!」
「うるさいな……声が、きこえないよ。」
「誰のよ!」
「セイリア様のだよ。」
混沌とした暗闇に、一筋の光が差している。その光に照らされて、森の精霊が微笑んだ。精霊の足元が大きく膨らみ、マリオーズの身体が傾いたが、蔓草に支えられて倒れることはなかった。
「みんな、きいて。」
ポコ、と音を立てて、暗闇に芽が生える。揉み合うナサエルとハーディーン、倒れもがくルイ、身動きのとれなくなったまま落胆しているイアン、傍観するしかなかったキース、皆が一斉に小さな緑に囲まれた。雲が切れて大地に太陽が差しこむように、暗闇は砕かれ、辺り一面があたたかい光に包まれる。
「なんだ?」
キースの五感に届く何かがあった。緑が萌える、春の甘い香りを連れた風が頬を撫でる。柔らかな日差しと一緒に降り注ぐ、魔力のような温もりが、優しい歌のように漂っていた。
「セイリアが、」
「あいつが?」
「……セイが、浄化しているんですよ。見ていれば、わかります。」
キースはルイを見た。先程までの呻吟の表情が消え、意識を失うルイの身体から、“悪魔”の影が頭を出してハーディーンに手を伸ばしている。それもあと一歩のところで影がこぼれ、土埃のように舞って消えた。それを見届けたイアンは全身の力を落とし、頭を垂れてセイリアを想った。森の奥深く、塔と呼ばれる場所で、セイリアは歌っている。
これは浄化の歌。この悲しみを消滅させる、唯一の方法だった。胸の前で合わせられた、セイリアの両手が震える。呼吸を荒げ血の気の感じられない顔のセイリアに、カナエは寄り添っていた。
「セイリアさん、僕の力を使って。」
「大丈夫。」
「いいや、大丈夫じゃない。僕は平気。でも、」
固く合わされたセイリアの手を、温めるように細い指で包み込んだ。カナエの長い髪がふわりと膨らむ。穏やかな表情のまま目を閉じ続けてこう言った。
「こちらは返さなくてはいけないものだから、こちらを使って。」
「でも!」
「あなたはこれからたくさんのものを見なければならない。だから、使って。」
ある人々は酒を交わして踊り、ある人々は食卓を囲んで団欒の時を過ごす。人は誰かを想って、そして灯りをともし、昨日と変わらないルマティーグの日常を営んでいる。夜風にのってセイリアの祈りは大陸中の魂に届いた。
20151005




