悲しみの核
「早くキースさんのところへ!」
「どうやって?」
「おばあさん、ボクをここへ連れてきたのはあなただ。だからあそこへ戻すこともできるんでしょう?」
「……ぁ……」
老婆の表情は見えず、声も聞き取れないほど小さい。ナサエルは苛立ちを隠さず、眉間に皺を寄せて老婆へ詰め寄った。掴みかからんばかりの勢いなので、ハーディーンが慌てて後ろから肩を掴んだが、ナサエルはそれを振り払う。見守るしかないハラハラした表情のマリオーズの隣で、カナエが静かにセイリアを見ていた。そのセイリアは、僅かに目を細めて唇をキュッと結んでいる。
「具代的な位置さえわかれば、私の魔法で……」
「いいや、マリー、大丈夫だよ。」
唇に人差し指を当て柔らかく微笑すると、カナエはマリオーズの耳元に囁きかける。マリオーズは困惑に驚きの色をつけてカナエを見上げるが、具体的に何が大丈夫であるのかは知らされなかった。
「待って、ナサエル君。」
「なに!」
「おばあさんは、君をここへ運んで力を使い切ってしまったの。だから、待って、落ち着いて。」
「困るよ!」
「うん、うん。だから私が、そうなの。だから、私がここにいるんだわ。」
怒気が渦巻いていたナサエルが反論しない。まるで自分に言い聞かすようなセイリアの返事に、さあどこから噛みつこうかといった表情だったのに。ハーディーンは妙に落ち着いてしまった理由がわからないまま、縋るような気持ちもあってセイリアの方を見た。そして瞼を限界まで押し上げて驚いた。セイリアが、涙を流していたのだ。
「え、お姉さん?」
「ごめんなさい、大丈夫。嬉しかったの。」
「嬉しかった?」
「ようやく、役にたてる。私がここに来た理由……それがわかったから。」
セイリアはそれだけ言うと、胸の前で両手を合わせる。指は真っ直ぐ指先を揃えて、右と左、柔らかく触れ合わせる美しい合掌だった。突然老婆がガクンと崩れ、セイリアの足元に屈み込んだ。その後すぐ、その辺一帯に暖かい空気が流れ出し、優しい光に皆が包み込まれた。穏やかな風に吹かれているような、心地良い歌を聴いているような空気は、ナサエルたちには魔力に似た何かに思えた。その全てはセイリアを中心に巡り通う。そして、全てにセイリアの気配が香りのように漂う。
「なに、これ……。」
「すごい……!」
「ボクは二回目だ。」
「そうなのか?」
「うん。……よくわからないけど。」
「あ!見て!」
マリオーズがセイリアの足元、先程老婆が身を崩した場所を指差した。そこには老婆の姿はなく、代わりに、老婆が被っていたケープのようなボロ布を頭に乗せた、子どもが立っていた。ニコニコと微笑んでおり、青々とした植物の茎の束を掌のように振る。よく見ると、子どもの手足は植物の寄せ集めだ。
「精霊?」
「森の、精霊か?」
「!!」
子どもが飛び跳ねて無邪気に喜びを表現し、何度も激しく頷いた。やがて音のない歌が止み、また森が当たり前のようにそこにある風景に戻る。ちょこまかと動く子どもの後ろで、セイリアが膝をついてうつ向いた。ナサエルとハーディーンが声をかけるよりも先に、カナエが急ぎ足で駆け寄ってセイリアの肩を抱く。残りの三人はカナエの後ろについて行き、セイリアを囲んだ。子どもも、皆の様子を見渡してセイリアに寄り添う。
「わわ、大丈夫だよ!ちょっとフラッとしちゃっただけ!」
「びっくりしたよ。」
「今のは?」
「再生の、魔法。……あ!ナサエル君、この子に助けてもらって早くキースさんの所へ!」
「はぁ?このチビにぃ?」
チビと言われた子どもは馬鹿にしておどけたようなナサエルの声に喜び、飛び跳ねた勢いで腕に絡みついてきた。更に嫌な顔をされるのを見ると、大きな口をあけて無邪気に微笑んだ。
キースは魔法線を背丈程の長さに伸ばすと、それぞれを編んで一本の線にした。魔力を張り巡らせれば魔法線は魔力と一体となり、思いのままに操ることができる。多種多様な魔力に応える精霊石が、キースの魔力を得て空気を食らう真空となり、その力も相まって、魔法線は鋭さを持った剣となった。鋭さはあっても大物を崩すには剣より心許ない。だが、一点集中すれば話は別だ。ここという弱点があれば勝機はある。魔物でも精霊でもないものを相手にするのは初めてだ、キースはより多くの情報を得ようと、冷たい紫の瞳を開く。ドンの全てを吸い込み、彼の過去を視るために。
「アレはなんだ。」
「この大陸の、悲しみの塊と言ったところでしょうか。」
「そういうことじゃない。」
「えっ?」
「どんな物体なのかをきいている。」
ドンは非常に硬く頑丈で、力の弱いイアンには擦り傷一つ与えるのも難しい。飛び出た眼球はギョロギョロとキースとイアンの動きを追うが、他は微動だにしていない。恐らくあの巨体では、あの姿勢を保つことがやっとなのだろう。手足は腹の肉に吸収され、表面にあるのは乾いた皮膚と眼球と口という格好の大きな球体が、黒いガスを発して呼吸していた。
「……。」
「どうしたら倒せるか、という意味だ。」
「徹底的に叩くとしか。肉体を失えば、悪魔は僕たちを攻撃できないですから。」
言葉だけのやり取りを難しく思いながらここまで答えて、哀れみが滲む瞳をドンだった塊に向ける。
「そうして、しばらくすれば昇華するでしょう。あの身体にはもう、まともな魂はほとんど残っていない。」
悲しみにつけこまれた魂は、悪魔の誘惑と善良な自尊心の間で葛藤する。雑音にかき消されてしまいそうなドンという人間も、初めはそうだった。たくさんの嫉妬、侮蔑、虚無に襲われ、悲しみにくれた時、悪魔の囁きに耳を貸す。最初は戸惑いながらも、誰もが持つ負の感情に働きかけて、自分と同じように引きずりこんでいく。不安が安心に変わる時、自尊心が傷ついたが、自分の心の中に棲む悪魔の仕業と言い聞かせた。しかし悪魔は決して手を貸すことはない。全ては自分自身であると気づくことなく、ドンの魂は堕ちていった。大切な人は離れていき、解消されない悲しみと、その上に蓄積されていった人々の苦しみだけがドンに残る。
「だが、あいつを倒せば終わる。」
「……。」
「あなたには、アレを倒すまで手伝ってもらいます。」
「わかった。」
アレはもはや生き物ではなく、この大陸を苦しめた悲しみの核。救いようのない魂は、輝かしい再生の未来には不必要だ。イアンは念じる。
20150910




