オークの母
キースは窓に肘を掛けて頬杖をつきながら部屋の様子をずっと眺めていた。たまたま、目の前にティルがいる。立ち振る舞い、微かな表情の変化全てに高貴でどこか儚げな空気が漂う。だが、それは黙っていればの話。今にも落ちそうな体を、手を上に引いて釣り上げベッドに乗せる。手を放ればその不自然な姿勢のまま、何一つ表情を変えず寝入っていた。ティルは一度寝てしまうと滅多なことでは起きない。キースは自分の分の布を、ベッドからはみ出ているティルの脚にかけてやりながら、部屋の端にあるベッドを見た。未だに目を覚まさない少女にかけられた布団はかけた時のまま。
キースの見せられた過去。顔を見た瞬間、一気に頭の中に流れ込んできたもの。あの時、シィアと呼ばれた女性は明らかに焦っていた。そして何度もかばうような仕草を見せている。まるで何かに追われているようだ。しかし、当事者であるはずのこの少女の目からはそれらしき事態がわからない。少女がそれ以上を感じていなければ、キースには伝わってこないのも当然である。
『未来は見える?』
『一度だけ、見たことがある。意志で“見る”ことはできない。』
『ふぅん。未来も見られたらもっと便利なのにね。いいな。』
ふと、ティルにそう言われたことを思い出した。悪気はなく、素直な気持ちだろう。本当は便利なものなのかもしれない。キースにとっては忌々しい以外の何ものでもなかった。極力この能力を封じても事ある毎に過去や未来を拾うこの“目”は。薄い溜息をつくと小さく首を横に振り、背伸びをして体をほぐす。なにぶん面積の少ない床だ、ティルが放った荷物を踏みそうになった。袋から皺だらけの衣服が今にも溢れそうだ。長いスカートのような、深い切れ込みのある布。見る角度によっては虹色を反射させるスカーフ状の装飾品。背筋を伸ばさせるような、襟のある上着。これらはどれもティルの育った国の光魔術士の正装であった。その国の光魔術士は神に使える者という役割を与えられており、人々に厚い信頼を寄せられて“救いの象徴”とされていた。謙虚で規律正しく、そして慈愛に溢れるとされる彼らは、人々に寄り添って生活している。実はティルにそのような一面がある、そんなことがあるわけがなく、この衣服だってとあるお人好しな男に押しつけられて着ているだけだった。
キースは袋を拾い寝ているティルの上に落とした。呻き声が聞こえたが、問題はない。踵を軸にゆっくり身体を反転させると、ギッと古い木の軋む音がする。潮風に当てられた、木のにおい。狭い船室は、数歩歩くだけで壁に行き着くことができてしまう。ゆっくりとドアノブを下げて、キースは吸い込まれるように部屋を後にした。
石畳と細い路地。高い城壁のように建物が連なっていて、それがいくつもの細い路地を形成していた。張り巡らされたような路地は、曲がっていたり急な坂になったりと癖がある。都国・ルシウスの首都であるオークの名物だ。観光客やそこで暮らす活気ある人々が行き交う路地は、今はひっそりと夜に飲み込まれていた。人気は全くなく、生活の灯りもポツポツと消えていく。夜が静かに今日を過ぎようとしていた。
「お店、閉めてちょうだい。」
「はーい!」
プツリと音を立てて音楽が止む。赤い髪を後ろで束ねた女性、アンナ・グレースがレコードの針を持ち上げて、テーブルについて雑誌を読んでいた娘にに声をかけた。
娘は結った二つの金髪の束を揺らしながらパタパタと足音を立てて扉の前へ行き、鍵をしめた。そして掛けてある札を裏返すと束ねてあったカーテンを上から落とす。言われた通りに店を閉めると、振り返って満面に笑顔を浮かべた。
「お疲れ様、ママ。」
「お疲れ様。さあ、さっさとお風呂に入って早く寝なさい。」
「はーい、おやすみなさい。」
所々に分かれ道があって入り組んでいる路地の中でも、孤立するようひたすら真っ直ぐに伸びた道がある。その最奥にアンナの店は存在した。昼間と夜の二回、飲食店として営業している。
「あれ?」
夜番だったこの娘がアンナの横を通り過ぎた時、扉を叩く音がした。娘は足を止め、扉にかけたカーテンを見つめる。アンナは無言で立ち上がり、カウンターを越えて扉の前に立った。
「どなた?」
「俺だ。」
「あ!」
扉の向こうには馴染みの男が立っているらしい。声を聞くと娘が興奮気味に駆け寄って、扉に手を伸ばす。しかし、アンナにその手を制されてしまった。
「……いいから、もう上へ行きなさい。」
「でもぉ……。」
「その声はサラだな。」
サラと呼ばれた娘は嬉々と目を輝かせるも、横目で見たアンナに眉を立てて首を横に振られる。もどかしそうに眉を顰めて唇を尖らせ、黙ってアンナの背中に隠れた。
「ウチに何か用かしら?」
「……。」
「……。」
「……“シコードの手紙を届けに”。」
溜息混じりの呆れた声。ぽつりと呟かれた「合い言葉」を聞くと、アンナは微かに笑みを浮かべて扉に背を向けた。それを合図にサラが急いでカーテンを上げ、扉の鍵を開ける。
「キース!いらっしゃい!」
「言われた通り、ママのベッドに寝かせておいたわ。」
「ありがとう、マーサ。起こして悪かったわね。」
「ううん。起こさない方が怒ってた!」
マーサは急いで賑わうテーブルへ駆けていった。テーブルにはキースとサラ、ナディアがいる。三人は、幼い頃アンナが引き取って育てた義理の娘だ。サラは身売りに出されていた所に、マーサは路頭に迷っていた所に、ナディアは命を失おうとしていた所にアンナが現れ、それから一緒に暮らしている。
「ったく……あの子たちはどうしようもないわ。」
「アンナ、酒。」
カウンターの席に腰掛けたティルの真向かいにアンナも座る。ティルはなんだか不貞腐たように机に突っ伏し、くぐもった声で唸った。アンナはグラスを磨く作業を始めながら首を横に振る。
「ダメよ。キースに止められてる。」
「は?」
「アイツには呑ませるな、って。」
「ちっ……。」
「ふふ。……アンタも混ざればいいじゃない。向こうは楽しそうよ。」
アンナが指を指したのはカウンターから少し離れたテーブル席。そこのソファーにくつろぐキースの左右には、少女が三人、乗り出すような体勢で身を寄せていた。
「キース、久しぶりだね。」
「今度はどこに行ってきたの?!」
「病気しなかった?」
「お前ら、寝なくていいのか。」
「いいもん。ねー、サラとマーサ!」
「ね!」
「うん。キースが来た時は特別だもの。」
「ねぇねぇ、今度はどんな所行ってきたのってば!」
「わかったわかった、くっつくな。」
ティルの眉間にできていた皺が一層深くなる。アンナに向き直ると頬杖をついてあからさまに溜息をついた。
「アンナ、酒。」
「だからダメだって言うの。」
「いいんだよ。」
「良くない。ホントろくでなしなのね、ティルは。」
「それもキースが言ったんだろ。」
「ええ。」
「腹立つなぁ。」
アンナは手元のグラスに伏せていた切れ長で目尻の下がった目をティルに向けた。長いまつげが何度か上下すると、口元の泣きぼくろがゆっくり持ち上がる。
「……ティル、元気だった?」
「……。」
「許してあげてね、ウチの子たち。」
「……別に。」
20080309
20170117改稿