喰らいつく
光を失った森には、凍えるような寒さと静けさしか残っていない。キースの頭に生温かく伝う液体がまとわりつく。そして頭の左半分を赤く汚しても怯まない紫の瞳で、イアンを鋭くとらえてたままでいた。
一歩引いて半身を逸らし、イアンは“剣”を抜く。その疑うことの知らない澄んだ青の瞳の中で、キースの瞳が揺れていた。仲間が倒れていく影にも、生臭い血飛沫にも、歪むことのない冷徹な瞳が、その奥で紫の炎を燃やし続けている。流れ込んでくる心がなくても、それが闘志であることがわかった。イアンは生まれて初めて表情から心を読みとり、そして、最大の恐怖にとらわれた。
(なぜ、こいつの心は変わらない?)
一瞬で理解不能に陥る。そこは足掻けば足掻く程に沈む沼と同じく、考えれば考える程恐怖に追い詰められていった。そして、イアンは重大なことに気付けない。
キースは手足が自由になった瞬間、横たわる途中のティルの背を蹴り、腕を振りかざしながら一気に間合いを詰める。五本の魔法線がイアンの腕に直撃し、そのまま上体も縛りつけた。身動きのとれなくなったイアンを押し出すようにしてその場から離れる時、大きく地面が揺れて、元居た場所には巨大な木の根の塊が現れていた。
「な、どうして……?!」
我に返ったイアンには、そこに森中の、この大陸中の森をつくる精霊たちが集まっているのが見えている。皆一様に悲しみ嘆き、その声が膨らむように木の根は大きくなっていく。イアンの元にはもう少しの精霊の力も残っていないことに、やっと気付いて、膝をつき崩れた。
「……。」
イアンが戦意喪失したことは、張りをなくした魔法線がキースの手に伝えた。元々の身体能力が高いイアンを警戒して、解放はしない。だがようやく目をイアンから逸らして、横たわっているはずのティルを探すことができた。しかし、木の根の塊に大きく妨害されてしまい、ティルの姿はもちろん、レタリオすらみることができない。不可解な状況に、上と下の休戦状態の二人は目を合わせる。
「これはなんだ。」
「わからない……どうしてこうなった……?」
「ティルはどこだ。どうしている。」
「……あの中のようです。そして、」
弱々しくイアンが答え終える直前、目線のずっと先でパキンと乾いた音が鳴る。影も気配もなかったその方を二人は同時に見たその刹那、突然重苦しくなった闇にまとわりつかれ、身動きがとれなくなった。キースは確認する。眼球も口も動く、声も出る、指先は少しだけ動かせた。視界が悪いだけで目は見えるし、鼻もきく。情報を得る手段が少ない状況で、嗅覚がこの拘束感の正体を捕らえた。
「これは……」
その方面は専門分野であろうイアンも気付いたようである、このまとわりつくものの正体は、今この空間のほとんどを支配する“闇”そのものだということを。キースの嗅覚は人並みとは桁違いの鋭さを持つ。僅かな“におい”を精霊ももっているのだ、ある程度の範囲であれば、距離感や確実な位置までわかる。だが、これとは別でもうひとつ気配を現した存在があるはずである、キースの嗅覚はそれをも知らせていた。何故今まで気づけなかったのかと思うほどの威圧感はなんとも重苦しい殺気を帯びていて、空気の上にのしかかるようだ。
「ほう、気付いたか。」
「!お前は!」
「ご苦労だったな、冒険者よ。」
闇に浮き上がったその影は、大柄の男の形をしている。禿げ上がった頭に、長く量の多い髭、深く刻まれた眉間と額の皺は、その男の経験を物語っていた。体格を隠すような長いローブの裾を引きずり、男はゆっくりと近づいてくる。男が垂れ下がった分厚い袖の端から太くも皺だらけの指を出して、キースを指差した。
「貴様からは私と同じにおいがする。」
「……?!」
「“アレ”も失せ、森の人も今やただの人に成り下がった。“アレ”も最後にいい仕事をしたものだ。」
「ドン=コルーン……!」
キースは指先を震わせ、イアンを捕らえていた魔法線をゆるめた。与えた魔力を操れば、袋の中の小さな収納に魔法線は収まる。イアンの瞳は、あの男に憎しみに似た色をぶつけて離さないでいる。これはもう、引き受けた仕事の管轄外だと判断したのだ。
「くっ、ははは!賢い冒険者だ。」
「……。」
「だがな、もう遅い。お前にも死んで貰わねばならん。」
人の手に少しずつ首を締められるような感覚がある。闇色の爪が喉に食い込んで、隣のイアンが苦しそうに表情を歪めていた。それを見る視線の先、自分たちの真ん中に、顔があった。真っ黒の闇に突如それだけ浮かび上がった、奇妙でどこか恐ろしい無機物の顔は、お面のようだ。鼻であろう中心に線があり、向かって右側が笑っているような表情が描かれていて、反対側には上下逆さの涙顔が描かれている。お面がギシギシと回り始め、涙顔がゆっくりと上下を取り戻そうとしていた。同じ速さで首も締められていく。これが涙顔になった時、意識を失うかもしれない。
「安心するがいい、仲間もすぐ送ってやる。リロードの忌々しいガキどもも、その取り巻きもだ。」
キースは、口を開いた。酸素を取り込もうとしたのでも、最期の言葉を残そうとしたのではない。のぞかせたキースの白い歯が、真っ直ぐ顎の下にある何かに噛み付く。犬歯を剥き出しにしており、鋭い歯がそれに食い込んでいることがわかった。お面の笑顔が揺れて、ガタガタと音を立てて震え始める。キースが黒い何かを歯で引きちぎると、何かの叫び声が聞こえた。それと共に大きく息を吸い込む音がきこえ、激しく咳き込むイアンが、膝から崩れ落ちた。
「なっ……!」
「い、一体どうなっている!!」
世界が傾いていく中でイアンが見たキースは、大きく噛みちぎった何かを噛み砕いて咀嚼している。それがどう言った行為なのか、イアンはわかっていても受け入れられず、身も心もが硬直して考えやれなくなった。遠ざかっていく耳には、ドン=コルーンという男の野太くしゃがれた遠吠えが聞こえたような気がした。イアンの青の瞳は、恐怖にとりつかれて濁る。
20150907




