塔
深い深い緑に包まれながら、静かで穏やかなこの安らぎを味わっていると、時が止まったかのような感覚に陥る。耳を澄ませば、胎内できいた母の鼓動がどこからともなくきこえてきそうだ。ルマティーグの神聖なるクレインの森の奥深くにあるここは、かつて塔と呼ばれ、魂の還る場所と言われてよりどころとされていた。今ではすっかり埃をかぶってしまった本の中でしか語られない。
「すっごくどうでもいいんだ。」
ナサエルはあの日、丁寧に埃を拭ってから本を開いたことを思い出していた。仲間を奪われ途方に暮れて帰ってくると、あの“魔物”の居場所を突き詰めるために。古い文字や聞き慣れない言葉の硬く苦しい羅列でも、彼にかかれば全て童話のようにほどかれる。ナサエルは帰り道のことを、本を開いている間は考えなかった。塔に還りたいと思ってしまったのだ。そして本を閉じた時、自分の守りたい、たった一人分の絆を思い出す。
(ハーディーンはボクがいないと生きられない。)
森の人の居場所を知った時、精霊を殺すということが自分の命を落とすことであることをナサエルは知った。同じ次元を生きる精霊と人間は、お互いの命を奪うと罪を背負うのだ。リロードの名の為に、攫われた仲間の為に、もう後には引けなくなっていたナサエルに用意された道は、薄暗くて寂しい、この一本しかない。この仕事に殉ずることは恐れないが、残される一人の少年のことを思うと、どうしても辺りを見渡してしまう。
『ナサエル、マリーは、森の人を説得しようって言ってついて行ったんだ。』
『でもそんなの無理なんだ。森は“魔物”だ。敵でしかない。』
(もう、どうでもいい。)
ああ、そうか。ナサエルが読みほどけなかった自分の心を放り投げたその時、もつれていた指から離れ、信じられない程あっさりほどけた。そして薄暗い道が消え、別の道が眩しく照らされた。
『ねえ、ハーディーン。』
『うん。ナサエル。』
これで全てを終わりにするのだ。そうと決まれば、自分の失敗などあり得なかった。二人で塔に還ればいいと。
「そんな!あんたたち、死ぬつもりだったの?!」
「そうだよ、マリー。僕はナサエルの行く場所なら、どこでも良かった。」
「ねぇセイリアさん、一人だけ何かわかったような顔してるけどさ。世界の為に祈る?そんなことどうでもいいんだよ。ボクはね、ハーディーンに“先立たれ”、その上精霊を仕留め損ねた。でも違った。もう頭の中がグチャグチャなんだ、また今度にしてくれない。」
「そうだね……ナサエルくん、ごめんなさい。」
セイリアからどこか浮世離れした雰囲気が消え、気味悪く思っていた気持ちが少し晴れた。あたふたと身動きするセイリアに繋がれた老婆の手が揺れている。
「ハーディーン、マリーもカナエも生きていて、みんなに会えた。そうなるとボクはキースさんが心配だ。」
「もしかしたら、まだ森の人と戦っているかも?」
「お婆さん、知ってるんじゃない?」
強く突き刺すように言葉を向けたその先の老婆を皆が見る。老婆の顔は見えない。小刻みに全身が震えており、声を思うように出せないでいた。そんな老婆の肩をそっと叩き、セイリアが励ますように微笑むが、嗄れた声が途切れてしまうだけだった。
「僕がみてみよう。」
しばらく押し黙っていたカナエが、苛立ちを隠せず興奮するナサエルの肩を叩いて、慰めるように微笑する。誰かの発言を待たず、カナエは腕を胸の位置まであげると、ボソボソと口先を動かして何か囁いた。すると袖口がはためいてこたえ、そこから艶のある鱗をもった、白い蛇の頭が出てきた。
「シラサヤ!」
「いや、マリー。違うんだ。今日は。ハクバ、頼む。」
ハクバと呼ばれた白い蛇は赤い両目をこぼれ落ちそうな程見開いていて、小さく蛇行しながら腕、腰から脚を伝い地に頭を降ろした。逞しく鍛え上げられた腕よりは細く、華奢な足首よりは太いその胴体は随分長く、やっと尻尾の先まで地に降りた頃には五重の蜷局をつくっていた。何も言わないままハクバは動かなくなり、無言の時が流れる。そしてマリオーズが痺れを切らす直前に動きだすと、その長い胴で大きな円を描くように回った。
「見ていて。森の人を映すようハクバに伝えてあるから。」
円が濁り始め、やがて光を反射させるようになる。そこは例えるなら小さな池、大きな鏡だ。映し出したのはカナエが言った通り、緑の長い髪をもつ少年、森の人だった。そしてひたすらの闇に包まれた森。木々は静まり返り、ダランと枝をぶら下げて色褪せた葉を次々と落としている。たくさんの緑を抱えているというのに、生命が一切感じられない。
「え?」
「ダメだ。ハーディーン。」
「うん。行こう。」
「ああ……キースさん……?」
「ボクたちを、誰かここから出してくれない?」
森の人の視線の先には、血に濡れた紫の瞳があった。その瞳は鋭さこそ失っていないが、頭からかぶった血液に、光を鈍らせている。ナサエルが一息飲み、そして感情を腹におさめて眉を立てて言った。
20150527




