白の絶望と黒の希望
一瞬、目の前の景色が揺れた。マリオーズが気持ちを切り替え身構えたその直後、身の回り全てがグラグラと揺れて身体が振り回される。隣にいたカナエが真っ先に、ハーディーンに飛びついてその身体を庇うように身を屈めていた。何が起きたのかわからないが、何が起きてもおかしくはないので、揺れ続ける状況に耐えながら二人は辺りを伺う。轟きの奥で小さく悲鳴が聞こえた。
「いたたた……!」
「誰?!」
「あっ……。」
「お姉さん、大丈夫?」
宙に浮いていた桃色の髪の少女、セイリアが地面に叩きつけられて目を覚ましたようだ。初対面となる一人と二人は、揺られながら顔を見合わせるしかできない。地面でも割れるのだろうか、とりあえずこの身は安全ではないと判断したマリオーズは、一か八か、気を溜めて魔法を使おうと試みた。何もしないより随分いいと、集中して思い描く。鉄紺色の背中から二筋の光が現れ、ゆっくり形を作っていった。
「マリー、魔法が!」
「使えるわ!いける!」
勢いを上げて線が弧を描き、分かれ、繋がり、おさまった頃にはマリオーズの背中に七色の光の線で描かれた羽が生えていた。七色の光は魔力で、羽は魔法陣である。魔法陣の効果は、マリオーズにしかわからない。天使のようなマリオーズを囲むように光の輪ができると、カナエやハーディーン、更にセイリアもその輪に取り囲まれるように範囲を広げる。やがて輪が縮まりながら頭上へ上がって行った。相変わらず揺られてはいるが、ドーム状の見えない壁に、四人は守られている。
「守りの魔法。とりあえず何か起こっても、一時的にはなんとかなるでしょ。」
「すごく、キレイ。」
「ありがと。お姉さんのこと、後で色々教えてね!」
「あ、うん。」
「封じられていた魔法が使えるようになった。どこで何が起こっているんだ……ナサエル。」
眠り続けるハーディーンから離れながら、カナエは眉間に皺を寄せて呟いた。そうしながら見たハーディーンの寝顔は揺れているが、穏やかだ。あどけないただの少年が眠っているだけ。カナエはハーディーンの顔にかかっていた髪を指先で払って落とした。
「なあハーディーン。君の半身は、どうしているのだろう?」
ハーディーンは歩いていた。見渡す限り真っ白の世界。どこまで行っても果てなどなく、自分の足が地についているかもわからない。それでもハーディーンは、何の疑問ももたず、疲れも忘れて歩き続けている。ここが何処か、自分は何を感じているのかすら、考えていない。ハーディーンの形をした抜け殻が、この白の世界を動いている。たった一箇所、白の世界に黒の穴があった。ハーディーンの抜け殻はそれを目の前にして立ち止まる。黒の穴から、涙も枯れ果てたような声が聞こえた。
「この世には、絶望しかない。」
白の世界に、黒の穴はくっきりと浮かんでいた。ただ、“穴”という存在が、目の前にある。穴は続ける。今にも消え入りそうな、か細い声で、幼さの残る、弱々しい声で。
「父さんも、母さんも、兄さんも、いない。」
「なにも、ない。」
穴が形を変え何かを作り始めると、ハーディーンの光のない青い瞳に、よく知る姿が映り出された。青い目に金髪、ハーディーンである。そして瞳の中のハーディーンは、薄汚れたシャツを着て、傷だらけで痣だらけの腫れた顔をしている、幼い頃の姿だった。ハーディーンは、幼い頃の自分と向き合って、久しぶりに何かを思った。
(こんな、姿だっただろうか。)
否定したくなる程の疑問。それは、ハーディーンが忘れたかった記憶だった。ハーディーンの中で、心が動き始めている。自分だけ不幸そうな顔をして、自分が一番辛いと思い込んで、ただうずくまっていただけの過去。この絶望を前にして、心が軋みそうだ。だが、ハーディーンの頭の中で、一つの声が聞こえた。
「ナサエル。」
陽だまりのようなナサエルの笑顔を思い出した。眩しいほどの強い光に包まれて、新しく希望に満ちた気持ちを。そんな日々を送る途中、置き去りにしてきた自分の絶望を。ハーディーンは、幼い自分に手を差し伸べる。あの時ナサエルだけがそうしてくれたように、屈んで、顔を覗き込む。自然と涙がこぼれた。
「ごめん。今度は一緒に行こう。」
「どこへ?」
「ナサエルのところに。」
見渡す限り真っ黒の世界。そこに明かりが灯るように、子どもの姿がぼんやりと浮かんでいた。瞳は青く澄み、瞬きさえもあどけない。葡萄色の髪をくしゃくしゃに靡かせて、幼い子どもが黒の世界を駆け回っている。そこに声が聞こえてきた。子どもは足を止めて辺りを見渡したが、そこには黒しかない。
「だぁれ?」
「君を助けたい。」
「だから、だぁれ?」
「そうだな……困ったことに、私には、名乗る名前がないんだ。」
「ふぅん?可哀想。」
子どもは再び駆け出した。跳ねて回って、楽しそうな声を上げる。声のことを全く気に留めない様子で、疲れも見せずにはしゃぎ続けた。黒の世界は、子どものはしゃぎ声を響かせない。そこへ声が、また聞こえた。
「君は何をしているんだい。」
「ボク?わからない。」
「わからない?」
「でも、希望をここに閉じ込めたの。だから、怖くないよ。」
また足を止め、胸に両手を当てると慈しむように撫でる。子どもは穏やかに、誰とも何ともわからない存在へ微笑んだ。その両手の中で、温かい鼓動が聞こえている。それが、子どもの言う希望であった。
「本当の君は、どこにいるんだい?」
「……お前、うるさいよ。」
「そうでもないさ。気になっただけだよ。」
「ふぅん。わからない。」
「本当の君が?」
「うん。どこか行っちゃったから。」
「それは困ったな。」
「困らないよ。大切なものは、全部ボクがもってる。」
「君は、本当の君ではないのに?」
「うん、いいんだ。もうここにしか、希望はないもの。」
声が唸り、子どもが欠伸をした。そのままそこへ座り込み横になると、幸せそうに笑みを浮かべながら目を閉じた。子どもの規則的な息遣いしか聞こえてこない時間がしばらく続く。声は聞こえない。子どもは、この黒以外何もない世界で、胸に閉じ込めた希望に浸っている。幼い身体はそれだけで満たされて、それはそれは幸せそうに、楽しそうにしているのだ。声は躊躇した。
「だけれど、」
「まだいたの。うるさいよ。」
「ハーディーンが、君を待っているんだよ。」
「ハーディーンなら、ここにいるもの。」
体を投げ出して仰向けになると、子どもは右手を胸に置いた。右も左も、上も下もない世界だ、子どもの身体は浮いているように右に左に傾いている。目は閉じられ唇に笑みを浮かべたままだが、声に対してやや苛立ちを感じているので眉間の皺が薄ら浮かんでいた。お節介な声はまた少し躊躇って、続く。
「違う……外にいるよ。」
「どうして?あの子は死んだよ。もうボクの希望の中でしか生きられない。」
「生きている。死んでいない。希望の中のその子は、ただの思い出だ。」
「……うるさいなぁ……お前、切り裂くぞ。」
「私の話が嘘ならば、どうぞ、君の思うように切り裂かれよう。」
「……どうするの。」
「ハーディーンに、会わせてあげる。もちろん、生きているハーディーンだ。」
「もし、それができなかったら、切り裂いてもいい?」
「ああ。だが、まずは本当の君を探してほしい。身体がなければ、ハーディーンには会えない。」
「……そうだね。いいよ。」
子どもは立ち上がる。どこかに重心を決めて、そこを下にするのだ。風が吹いているように子どもの髪がふわりと浮かび、目が鋭く見開かれる。すると子どもの頭の辺りに、じわりとナサエルの身体が見え始めた。子どもと同じ葡萄色の髪、そして、もしこの瞼が開かれたら、同じ青い瞳が見られるだろう。ナサエルは子どもの身体に対して垂直、横になった姿で、鼓動も呼吸も何もかも忘れて眠っている。それは眠っているというよりは、止まっているようであった。子どもが、自分と同じ形をした、自分よりも大きなナサエルの肩に触れる。
「お前が言っていることが本当なら、間に合う。」
「ああ。任せておくれ。」
白と黒の二つの世界が脆く崩れ落ちて儚く散っていく。決して交わることはなく、相容れない筈の白と黒は、それぞれの絶望と希望を後味のように残して消えた。不意に現実世界に引き戻されたハーディーンが、目を覚ます。激しく揺れる景色に、ここが現実であるか戸惑いながら身体を起こす。
「ハーディーン!」
「ハーディーン、目が覚めたのか。」
「ハディ君!よかった、生きていてくれて……。」
「どうなってるんだ?」
「わからない。突然揺れ出して、そのままだ。」
周囲を見渡し始めてすぐ、ぐるりと張り巡らされたマリオーズの魔法に気づく。しかしこの安堵感はそれの為だけではない。異常事態の中で、ハーディーンは何か近しく全身が震えるような喜びを感じていた。心の中に潜む絶望という闇は、恐ろしく濃く深い。まるでそれに呼応するように、ハーディーンの光の魔力が溢れ出してきた。
「ちょっと!」
無防備な内側から、マリオーズの魔法が圧迫される。マリオーズの言葉は勿論、それに対する抗議だ。それでもハーディーンは抑えきれない。眉を下げて頬に汗を浮かべ、マリオーズに向かって首を横に振る。その表情だけでマリオーズやカナエには、ハーディーンの状況が伝わった。マリオーズは止むを得ず、魔法を切る。
「大丈夫なの?」
「僕は何でもない。ただ、抑えられないんだ……。」
「すごい魔力だ……。」
その時、天と地がひっくり返りそうな衝撃を受ける。各々声を短く上げて、飛び跳ねた身体を辺りで打ち付けた。それから揺れはピタリと収まったのたが、四人はそれぞれ打ち付けた身体をさすり、体勢を整えながら、少しずつしか状況を把握できない。
騒動の後、ハーディーンのすぐ横に突然、木の枝でできた蕾が現れていた。いち早く気づいたカナエが、ハーディーンに注意を促す。だが、ハーディーンは蕾に目を奪われたまま、動かなくなってしまった。
「みんな大丈夫?」
「私は大丈夫よ。それより、何よこれ……。」
「ハーディーン!危ない!」
「……。」
「ハーディーン!」
制止を聞かないハーディーンは、その蕾に触れた。何の躊躇いもなく、ごく自然の流れの中で。それは温かく穏やかな鼓動をうち、手のひらから恐る恐る伝わってくる。ハーディーンの脳裏に、愛しい笑顔が浮かんだ。そして、二つの青い瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
「ナサエル。」
そっと、蕾が開き始めた。一本一本の枝が、焦らしながら伸びて地中に消えていく。中から、老いた女性と、ナサエルが現れた。マリオーズは戸惑い、カナエは訝しげ、セイリアは口を押さえて目を見開いた表情でそれを見る。老婆は膝をついて俯き、そのまま動かなかったが、ナサエルは青い瞳に映るハーディーンを歪めてボロボロと泣いていた。
「ハーディーン……?」
「ナサエル。ナサエル。」
「よかった、よかった。」
ナサエルとハーディーン、どちらからともなく、二人はしっかりと両手を取り合ってお互いを見つめた。ゆっくり額を重ね、目を閉じる。止まらない涙が、瞼の端から絶えることなく溢れ続けた。その二人の瞼の奥では、全く同じ景色が流れている。幼い姿のナサエルと、それと同じ年頃のハーディーンが、抱き合って泣いていた。暖かい森の光を浴びながら。
20140223




