絆
白く、全ての輪郭を失った世界。セイリアは知っている。これは柱で、あれは天井、そして目の前にある四角い箱のような大きなものは、祈りの為の祭壇だ。ぼんやりとしたそれらは、セイリアにとって懐かしい温かさをもっていた。ここはセイリアの夢の世界。今は夢の中でしか訪れることができない、秘密の場所。
「シィア。」
「はい。」
「よかった、また、会えて。」
「私はいつも、あなたのそばにいます。」
「……うん。」
「色々と予想外なこともありましたが、大筋は計画通り。」
「うん。」
「引き続き、クラヴィスの導きのまま。」
「ティルさんが、攫われてしまったの。」
「大丈夫です。これも、導き。」
「わかった。」
「この少年、」
「緑の髪の?」
「ええ。イアン、この子はよくわかっています。ただ、」
シィアと呼ばれる女の声をした赤い影が言いかけて黙った。その不思議な間を、静かに過ごしていたセイリアの頭に耳鳴りが突き抜けた。張り詰めた糸を乱雑に擦るような嫌な音が、脳に残って頭痛を引き起こす。セイリアは頭を抱えてうずくまった。
「痛い……!」
「――」
「シィア!」
「――」
そこには確かに赤い影がある。黙ったままなのか、それともきこえてこないのか、返事がない。体を引きずり手を伸ばした時、視界が晴れて少年の顔が目に入った。優しく微笑むその少年は、汗だくのセイリアの手を取って両手で包み込む。夢が覚めて、現に戻ってきたのだ。この確かな温もりがセイリアにそのことを知らせていた。
「もう大丈夫。」
「イアン君。」
「この手はまだ届きません。それまで僕が引き受けましょう。」
「どういう意味?」
「ううん、そうですね、シィアさんの代理をします、という意味です。」
「君……!」
「こう言うには力不足かもしれませんけれど、僕があの人の代わりにこの手を温めます。この手を繋いで離しません。そばにいますよ、セイ。」
セイリアは、本当はとても心細かったのだ。寂しく、辛く、自分はこの世界に取り残されていくような気さえしていた。震える心に、イアンの温もりはとても沁みる。この得体の知れない少年の言葉が、何故だか心をこんなにも喜ばせ、涙が溢れた。
「僕はずっと、君を待っていた。」
「あなたは、君は、何者なの。」
「ふふ、ゆっくり、話していきましょう。」
イアンの深い森色の瞳が、自分を見つめている。この世界に、自分は確かにいるのだ。その事実に酷く安堵し、そして、痛感した。この過酷な現実は、本物なのだということを。そんな心中を察したのか、イアンはまるで執事のようにあれこれ世話を焼いてセイリアを戸惑わせた。セイリアが何も言わなくても、喉が渇いたと思えば飲み物を差し出し、小腹が空いたと思えば木の実を用意してくる。木の実に至っては、セイリアの大好物の赤い果物を、それも念入りに種や芯を取り除いて渡してくるのだ。明るく温かい森に二人きりで、手厚いもてなしを受けることを不審に思っても仕方がない。だがセイリアは気遣いが心苦しいだけで、他は気にならない。遠い昔からこうしていたような、不思議な感覚だった。やがて二人は友のように冗談を弾ませたり、姉弟のように打ち解けて寄り添ったりするようになる。そして、二人は自分たちのことを話し始めた。
「僕は君のことをよく知っている。生まれたところも、生まれもった使命も。」
「どうして?」
「さて?僕はどこで知ったのかわからない。けれど、シィアさんのように、生まれた時から君のことを知っていた。」
「不思議だなあ。」
「君の運命は辛い。この世界で誰よりも。そして、この世界の何者よりも、君は尊い。神様が、そんな君に与えた安らぎが僕だ。」
「ふふ、安らぎ?」
「そう。だから、何でも言ってほしいのです。セイが楽しく、嬉しく、安らかになることを、僕は手伝える。」
「イアン君。」
「君は、自分が何をすべきかわかっているのでしょう?」
「うん。」
「それではまず、このルマティーグだ。」
セイリアの使命、その内容については二人の口から出てくることはなかったが、二人の心の中で共有する秘密であり、二人をつなぐ絆でもあった。それだけでお互いが長年の知り合いのように思えることができる。ただ、まだ張り詰めている部分があった。セイリアが深く信頼をするシィアいう女性。セイリアはシィアが話そうとしていた、イアンについての言葉の続きが気になり始めていた。すっかり気の置けない仲になり始めているが、シィアは何と言うだろう。シィアを頼りたい時、セイリアは眠るとシィアに会って話すことができた。遠く離れた二人を今、つないでくれるのは、淡く儚い夢の世界だけだ。
「あの、お話中悪いのだけれど……」
「わかっていますよ。僕が本当に何も企んでいないか、シィアさんに訊ねたいのですよね?」
「ええっ!どうしてわかったの?!」
驚き、率直に疑問を投げかけたセイリアとはうってかわり、イアンはとても冷静な姿勢を崩すことなく黙って微笑んでいた。こんな胸中がバレてしまっては、イアンを傷つけたのではないかと心配になる。また、顔や態度にそれが出てしまっていたのだとしたら、それは大層失礼なのではないかとセイリアは思った。
「あ、大丈夫です。そうですね……でも、セイのいう通り、知らなければ傷つかなくて済むことが多いかもしれない。だから神様は心の声は聞こえないものにしたのでしょう。」
「え?え?」
「僕は、心の声が聞こえるのです。君だけではなく、人間や精霊、動物……ありとあらゆる、魂をもった全ての。」
「ええ!」
「盗み聞きするようで、申し訳ない。」
「えええ!」
「でもセイについては、僕じゃなくても何を考えているかわかるような気がします。」
「そんな!」
「ふふ、ごめん。それだけ心が綺麗だということですよ。そんなことよりもシィアさんですよね。どうしますか?」
「ええっと、うん、一度イアン君のことを話してみようかなって。」
「それが良いと思います。遠すぎて僕にはシィアさんの心がわからないし、わかったとしてもセイは僕の言葉だけでは不安でしょう。」
イアンがしなやかに腕を振ると、セイリアの身体が浮かんだ。この感覚をセイリアは覚えている。初めてイアンに出会った時、このさざ波に浮かぶ心地良さを味わった。たった一瞬で、心理の奥深くまで沈む。セイリアは真っ白な世界に再び身をゆだねて眠った。それを黙って見届けた後、イアンは大きな瞳を細めて遠く天を仰いだ。
「シィアさんの答えを聞き終える前に終わらせてみせる。そうすればわかるでしょう、僕の忠誠心が。」
「待て、ティル。」
嘆きの君が膝を折り、ついた。冷たくなったハーディーンの横で。ティルはハーディーンの顔色の悪さを改めて目にし、この少年が空っぽであることに胸を痛めた。花でも手向けるのだろうか、嘆きの君の寂しそうな背中を、黙って見ていることしかできない。すると嘆きの君が集中を高め、慌ただしく彼女の裾がはためき出した。そして周囲の精霊たちが呼び出されるように集まり出す。
「な、にすんの?」
「……。」
ティルの掌よりも小さい、小人のような姿をした精霊たちが、ハーディーンの周りをびっしりと囲んだ。何やら相談し合うようにお喋りをしているが、その声も小さすぎてティルまでははっきりと届かない。その外で、青い羽の鳥の姿をした精霊たちが集まり、羽を広げてさえずり出した。
「ワタシタチノ チカラ ソレダケデハ カナワナイ」
「デモ」
「ああ。私も力を貸そう、どうか……君たちも。」
小人の姿の精霊たちが、各々好きに飛び跳ねて笑っている。それを見た嘆きの君が、切なそうに微笑んだ。ティルがその微笑みを見る前に険しい表情になり、彼女を囲うように更に精霊たちが集まってきた。白く丸いだけの何かや、黒い糸を何本も束ねたような何かという、ティルが見たことのない何かの姿をした精霊もいる。だがそれらが総じて、この森をつくる精霊たちであることはわかった。とはいえ、何が始まるかは検討もつかないのだが。
「なぁ、」
「すまないが、少し黙っていて貰えるだろうか?見ていればわかる。」
「……はいはい。」
「いくぞ、皆。……そしてすまない。」
その言葉は明らかにティルに向けられた言葉ではなかった。向けられた精霊たちが一斉にざわめき出し、泡が弾けるように次々と姿を消していく。ティルは双眸を見開いた。精霊たちが弾ける度に、小さな光の欠片が輝きながら落ちていく。初めて見る光景であるのに、何故か異様に胸が締め付けられた。肩が震え、寒い。脳裏に鋭い刃が突き刺さるような感覚を覚え、目眩で目の前が真っ暗になった。
(なんだ……これ。)
嘆きの君がハーディーンの腹部の穴に両手を重ねて置き、そこへ気を集中させた。弾けて消えた精霊たちの力を集めて込めて、そこへ一気に流し込んでいく。その端から精霊たちは姿を消していくが、森中から集まり続ける精霊の方が多い。ハーディーンの身体の中で眠っていた血液が活動を再開し始めた。その手足に血が通うのがわかる。目に見えて温かさを取り戻していった。
「ティル!」
「……」
「ティル!手伝ってくれ!」
「……う、」
「早く!我々にはここまでが限界だ!後は頼まれてほしい!」
「う、……は?何の話?」
「見たらわかる!」
頭を振って思考を引き戻すと、ティルは言われたように見た。ハーディーンが息をしている。正確に言うと、酷く咳き込んでいる。ティルは奇声をあげて驚きを表すと、慌てて駆け寄って魔力をかざした。特に酷い腹部の穴と、切れた口内、喉、そして頭。
「何が何なの!!」
「はぁ……っ、この子は、」
「やるけどさ!驚いた!何なんだよ!」
「この子は、犠牲ではいけない。」
「よくわからねぇ!もういい!ちょっと黙ってて!」
「ふ……、頼もしいな。」
逆流していた血液を口から吐きながら、苦し紛れの記憶。ハーディーンの心は、苦しむ身体の遠くでこの風景を眺めていた。きょとんと、その青い瞳を丸めて、必死のティルが悪態をついているのを。その幼い姿のハーディーンは、心を置いて大きく成長した身体のことを理解できていない。
「なんだろう。誰かが僕の名前を呼んでいるけれど。」
ハーディーンは辺りを見渡すが、知っているものが何もない。だが、確かに自分を呼ぶ声がするのだ。泣き声混じりのか細い声、これは聞いたことがある気がした。ゆっくりと足元から映像が登り、頭に浮かぶ。葡萄色の髪の幼い少年が泣いている。
「ナサエル。」
何故か、その少年がナサエルだとわかった。ハーディーンはそんな自分を不思議に思いながらも、その少年に向かって返事をする。ナサエルは泣き声は止めたものの、涙を零しながらこちらを見た。
「まってて、すぐ、会えるから。」
ハーディーンの意識はここで途切れる。後はひたすらに苦しく痛い中、ティルの荒い呼吸を聞いていた。
20131218




