悲しみの森
ティルの瞳孔が開いている。その困惑で落ち着かない瞳には、横たわっているハーディーンの血の気のない顔が映っていた。言葉の浮かばない頭、声の出ない引きつった喉を持て余し、ティルは両膝をついてハーディーンの身体を確認した。その横で嘆きの君が木のように立ち、遠くを見たまま動かない。
ティルは魔力でハーディーンの身体を撫でながら見ていく。顔と手首に擦り傷と、腹部に穴。腹部のそれは目も当てられない。上下しない胸に手を置いて、ティルは俯き声を押し出した。
「な、んで」
「なんで?」
「ここまで、いや。」
「……。」
「そこまで、怒ってるのか?」
「私は怒ってなどいないよ。」
「でも死んでる!」
「……。」
「俺はお前の敵でもないし、この子の味方でもない、でも!」
ハーディーンの身体は、傷を癒そうとするティルの魔力を受け入れなかった。冷えきった頬を撫でた後、ティルは立ち上がって闇雲に感情を露わにする。この二人が敵対していることを、理解しているようでしていなかった所為で、全身が動揺してどうしようもない。それを知ってか知らずか、嘆きの君は眉尻を下げて何度か目蓋を伏せた。その度に、また涙が零れて頬を伝う。ティルは涙を見て少し怯んだが、睨むように目を鋭くして嘆きの君を見ていた。
「待て、ティル。私は怒ってなどいないし、この子を殺めてもいない。」
「は?!じゃあ誰が!?」
「この子らが“森の人”と呼ぶ子だよ。」
「……、……え?」
「君は何か勘違いしているようだ。私の話をしっかり聴いておくれ。まだ何も話していない。」
「ちょ、ちょ、わかったから。わかったけど!これだけきいていい?」
「大体想像はついているけれど、どうぞ。」
「森の人ってお前のことじゃないの?!」
「やはり。ああ、私ではないよ。少年の姿と聞かなかったかい?」
「わからなくなってきた……!」
「だから、話を聴いてほしい。君にわかるように話そう。」
嘆きの君の話はルマティーグ大陸の話から始まった。とても広大なものなそれと、目の前の少年の死に何の因果があるのか、ティルには到底理解ができない。だが、どこかの狼精霊と違ってわかりやすい嘆きの君の語りに、どこか安心して聞いていられた。
物語に仕立て上げられた、嘆きの君の話はこうだ。今、このルマティーグは悲しみに包まれている。この地に人間が住むようになる遥か昔から、この地とここに生ける全てのものを守ってきた嘆きの君は、人々の悲しみを受け入れきれなくなってしまっていた。
「ある日、とある男が悲しみのどん底に突き落とされた。彼の心は悲しみに蝕まれ、やがて心を失ってしまう。そこで、男は“悪魔”に耳を貸してしまった。」
「悪魔?」
「私はそう思うよ。あれは精霊でも、魔物でも、そして、人間でもないものの所業だから。」
嫉妬、侮蔑、虚無。悪魔はそんな心にやさしく囁きかけ、刺激をした。そうしてとある男を中心に悲しみの連鎖が広がっていき、増殖の一途を辿る。誰か一人でも心を強くもって、そして悲しみを乗り越えてくれたら。だが、人間はそこまで強くなかった。
「そこへ森の人、あの子が突然現れて、こう言ったのだ。」
『悲しみの連鎖を断ち切る。』
『できるのだろうか?』
『できる。ルマティーグを、いえ、世界を、救わなければ。』
嘆きの君は森の人に力を託し、全て委ねることにした。森の人の強くしなやかな精神と、常に保たれる理性、それに希望を見出したから。嘆きの君も悲しみに飲まれて心を失ってしまう前に。
「だけれど……」
「なに?」
「犠牲。それが私の弱味。無垢な命が悲しみの連鎖に捕まって、そして森の人に断ち切られる。」
「ハーディーン、この子みたいに?」
「……ああ。森の力が犠牲を生む。悲しみの連鎖も、もう何もかも、見ていられない。」
「そういうことか。」
ティルは嘆きの君の背中を撫でた。嘆きの君は表情も口調も、何も変わらない。ただ淡々と涙を零し続けているだけだが、ティルにはこの瞬間の嘆きの君がとても辛そうに見えた。撫でながら、眉を眉間に寄せて黙る。言葉が見つからないのではなく、この気持ちを表すに相応しい言葉を、ティルはもっていないのだ。ティルは考えた。この悲しみ、嘆きの君の涙を止める方法を。
「キースなら、なんとかしてくれるかも。」
「キース?ああ、あの子。君が一緒に旅をする彼だね。」
「え、会ったの?」
「いや、直接は。ティル、私はこの森そのものだよ。ずっと君たちを見ているのだから。」
「ふぅん、そういうこと。」
「彼は……とても強い。」
「うん、そうだよ。怖いけど。森の力なんてなくても、絶対なんとかしてくれると思う。」
嘆きの君は足元のハーディーンに視線を落とした。これは犠牲が犠牲を生む連鎖。あの時森の人に全て投げ出してしまった自分の所為で新たにできてしまった悲しみだ。もう希望は絶たれ、そんなものは二度ともたないとすら思っている。
「とは言え、お前の力も必要なんだけど。」
「私の力?」
「うん。協力してほしい。」
「私にできることが?」
「何言ってるんだよ、たくさんあるだろ。お前も森の人も、あのキースでも、一人で戦うのは辛いじゃん。みんなで協力しないと無理。」
「協力。」
少し、背中が重たくなった。森の人に背負わせたものが自分に戻ってきたような感覚だ。この重さを、また投げ出したくない。再び背負った責任の分、ずっと心は軽くなっている。
「キース君も、協力してくれるだろうか?」
「大丈夫、頼んでみる。」
希望などないし、二度ともたないと思う。これは希望ではない。宿願なのだ。それも、誰かの望みではなく自分自身のものである。ただ憧れ望んでいるだけの、目を逸らし嘆いているだけの、自分ではもういられない。
「立ち上がろう、みんなついてる。」
閉ざされていた心に風が吹き抜ける。真っ暗で冷たく、深く深く、ただ広がっていた悲しみの森のような心に、柔らかな光が差し込んできた。花も草も蔓も木も、森の全てが今この時を待ちわびていた。嘆きの君は目を閉じて涙を流す。大粒の涙が溢れて止まらない。
「本当だ、私は……一人ではない。」
「そうだよ。何言ってんの。」
「あの子。森の人を一人にしてはいけなかったね。」
「まだ間に合うだろ。」
「そうだな。」
一寸先が見えない濃い闇の中、木の根に腰掛けて二人は身体を休めていた。ナサエルがキースから小瓶を手渡され、その中に入っている液体を一気に飲み干して溜息をつく。この戦いの結末はわからない。だが、一つだけ定められていることがあった。
「ナサエル。」
「何ですか?あ、離れろということでしたら、それは拒否します。あなたまで攫われてしまったら」
「そんな話じゃない。」
空になった瓶を返しながら、寄り添わせていた身体を更に張り付けた。腕を絡め、頭を預け、蔦のようにキースに絡みつくナサエルは、至って真面目な表情で訊かれていないことを答える。そして無表情なキースは、流されることなく重たい口を開き続けた。
「お前は、精霊殺しの話を聞いたことがあるか?」
「……さあ。」
「殺したらどうなるか、知っているのか?」
「どうでしょう?」
「……。」
腕に絡めている手の力が強くなった。こんなに近くにいても、お互いの表情がわからない。それでも、はぐらかそうとするナサエルの声は態とらしさに包まれていて、誰がどこから聞いても答えがわかる。キースは溜息をついた。
「聞いたことがあってもなくても、知っていようがいまいが、もう決まっていることなんですよ。」
「それで、いいのか?お前は。」
「ボクは、もう飽きた。」
腕を掴む手が震えている。また、ナサエルの魔力が溢れ出てきていた。そこには刺々しさはなく、どんよりとした重さがあるだけだ。キースに指摘されてナサエルが我に返ったが、魔力はもう隠さなかった。ずっと前に気付かれているのだろう。だからこそ、この手は離さない。
「わかった。それと、あまり右腕は触るな。」
「何故?この手袋のことですか?」
「触るな。」
「はーい。……あ。」
二人の視線の先で、森が動いた。風がないのに枝葉が揺れている。扉が開くように、木が捻れながら道を開き、その隙間からか弱い木漏れ日がさした。導こうとその光が一本の道を照らし、誘おうと踊る。ナサエルは目を細めて口端を思い切り吊り上げ、禍々しく笑んだ。
「来い、ということのようですね。」
「そうみてぇだな。」
「ボクの覚悟が伝わったのかな。ま、どっちでもいーや、もう。」
「気を緩めるな。まだ歩かされるかもしれないと思え。」
「はーい、キースさん。」
突然現れた怪しい道を、軽やかな足取りで進んでいくナサエルに腕を引かれながら、紫の瞳を瞼で半分隠したキースが剣の柄を握り締めた。細い瞳にナサエルの横顔が映っている。黒い魔力の渦巻く、華奢な背中と一緒に。キースは瞼を閉じてその背中を隠した。
20131128




