「ありがとう」
どれほど歩いただろうか。先へ進んでもさっき通り過ぎてきたような木々が行く手を阻む。薄い霧が足元に纏わりつき始め、この薄暗さが一層不気味になる。何よりも一歩進むごとに増していくこの寒さが、体力と気力を奪っていった。
セイリアは目眩がするのを誤魔化そうとギュッと目をつむり、恐怖を堪えて足を速める。目の前を歩く露出しているナサエルの肩が震えていた。古い麻袋からカーディガンを取り出し、急いでナサエルの肩にかける。驚き目を見開いて振り返ったナサエルに、精一杯微笑んで見せた。ナサエルはキュッと唇を締め、俯いて足を止めた。
「……ありがとう……。」
「うん。あ、キースさん。」
微笑むセイリアの肩にキースのコートが掛けられた。セイリアの肩は、ナサエルと同じように露出している。薄くて軽いコートだが、頼もしい温かさに心が緩んだ。少し気が紛れたところで歩き始めると思ったが、突然ナサエルが膝を折り、その場に座り込んでしまう。自分もそうだが、ナサエルの足が限界なのかもしれない。セイリアは同じように膝をついてナサエルの太腿を撫でた。普段のような刺々しさはなく、今は年相応の子どもらしく見える。
「ナサエル君。」
励ましの二言目のために口を開いた時、セイリアはその表情が異常なことに気づいて喉が詰まった。血の気のない顔、潤んだ瞳と開いた唇が激しく震え、目が見開かれて吊り上っている。眉間に皺を寄せながら、セイリアはナサエルの背中をさすった。その表情からは、絶望に近い恐怖しか感じられない。
「どうした。」
冷たい無感情な言葉が二人の頭上に下りてきた。キースは振り返って見上げてくるセイリアに一瞥し、震えたまま動かないナサエルにもう一度声をかける。
「ナサエルどうした。」
「う、う……ハーディ、ハーディーン……」
「待ってください、キースさん。」
「何をだ。」
「ナサエル君が落ち着くのを。」
「……。」
「なんとかしてみます。」
「セイリア、お前は」
言葉の続きを制するように、セイリアは徐に右と左それぞれの指を揃えて両手を合わせた。瞼を落とし、やや頭を下げる。セイリアを纏う空気が凛とした時、キースの瞳孔が開いた。
「!」
穏やかに優しく、鼓動の様に波打つ空気が広がり始めた。耳を掠める心地よい音。歌のような、声のような、遠い音が、直接心に響く。セイリアを中心にして、その温かい光を帯びた波長が周囲を包み込んだ。
「……お姉さん。」
「ナサエル君、よかった。」
「……。」
「ハディ君に何があったのか、話せる?」
「う、うん。」
取り乱していたナサエルの心が戻ってきたのを確認し、セイリアは合わせていた両手を開いて微笑む。少しずつ光が落ちていき、森がまた暗く聳えるが、随分と柔らかくなった表情でナサエルは笑み返した。
「なんか、借りをつくっちゃったみたい。恥ずかしいな。」
「それで、何があったんだ。」
「あ……。キースさん、すみません。」
「ナサエル君?」
「ティルさんが、攫われてしまったようです。そしてハーディーンが、」
体を強張らせ、セイリアが息を飲む。不甲斐なく眉を歪ませたナサエルは、言葉を詰まらせた。その拳が憎しみで握られて震えている。キースだけは何一つ変わらず、ただ黙ってその続きを待った。ようやく拳がほどかれ唇が緩むが、言葉の続きではなく笑いが発せられた。
「ハーディーンは、死んだ。」
「え……」
「ははは!」
ナサエルの大声は辺りに響く。暗い景色に不釣り合いな笑い声は暫く続き、セイリアの心はすっかり不安に覆われた。
パチ、という水分が弾ける音でナサエルが目を覚ます。慌てて体を起こすと、肩にかけられていたキースのコートが落ちた。そして全身を覆う薄い布から飛び出して立ち上がり、身構えて辺りを見渡した。炎の揺らめきを顔に映し、眠っているセイリアがまず目に入る。自分がさっき横なっていたすぐ横で、木の幹に持たれて座っている。その丁度向かい、焚き火の向こうにキースがいて、大剣を布で拭いていた。ナサエルはホッと息を吐いて座り込み、自嘲するように笑む。自分がかけてもらっていた薄い布を、セイリアの膝にかけながら。
「炎の魔法、使えたんですか?」
「いいや。」
「じゃあ、どうやって?」
「……。」
何を言わないキースを歯痒く思いながら、座り直して問うた。答えは顎で示された先にあるらしい、目線をキースの足元にずらす。そこには掌程の大きさの板と木の枝があった。ずっと前に何かの本で読んだ文を思い出して苦笑した。
「これはまた……ま、いいや。どのくらい寝てました?ボク。」
「数時間。」
「そうですか。」
「……。」
「……。森の人はこの先にある所にいるでしょう。」
「ここからどのくらいかかる?」
「さあ。正確な位置は把握していません。」
パチンと音がして、焚き木が動いた。火が大きく揺れて、またすぐ静かになる。二人の表情は驚くほど冷静で、静かに炎に照らされていた。
「森は全て森の人の力になる。本体に極力近づかなければ勝算はないでしょう。」
「ああ。」
「ハーディーンが……殺されたのは、痛い。」
「何故、死んだとわかる?」
「彼は森の人に殺された。ボクたちの心は繋がっていたからわかる。」
「……。」
キースの目の奥、そのずっと先の脳裏に、ある映像が届いた。炎に囲まれ項垂れていたハーディーンの目の前に、少年が立っている。少年の顔は影になっていて見えないが、ナサエルやハーディーンと同じような背丈で、布を纏っただけのような不思議な格好をしているのはわかった。ハーディーンが口を動かして何か言うと、少年が両腕を横に上げた。炎が一瞬で消えて、突如地面を割って出てきた木の根がハーディーンの腹部を突き上げる。そしてやがて木の根はハーディーンを貫き、映像が見えなくなった。映像と共に流れていた、ナサエルの恐怖する声と悲しみの心が聞こえなくなると、キースは目を閉じる。
「抽象的な表現ではなく、本当に。お互いがどこにいて、何を見て、何を感じているかわかるんです。」
「そうか。」
「ねぇキースさん。ハーディーンと僕は血が繋がっていないんだ。」
ナサエルはニッコリと微笑み、小首を傾げて、両肩を上げた。歪みのない弧を描く唇が、ナサエルの思い出を綴り始める。キースは武器を触るのをやめ、目を閉じたままそれを聴いていた。それは決して心穏やかに聴いていられる話ばかりではなかったが、黙って目を閉じている。ナサエルの言葉が詰まった、その時だけ、キースは目を開いた。大粒の涙を零しながら微笑む奇妙なナサエルと、美しい思い出が紫の瞳に映った。
金髪の幼い少年は、青あざだらけの腫れた顔をして木の下で本を読んでいた。葡萄色の髪の幼い少年が、その本に手を置いて金髪の少年の顔を覗き込む。金髪の少年の青い瞳と、葡萄色の髪の少年の青い瞳が繋がった。
「こんにちは、ボクはナサエル。ナサエル=リロード。」
「こ、こんにちは。」
「ハーディーン=イーズさんだね。」
「う、うん。」
「ボクをずっと呼んでいるのは、キミ?」
「う……うん。」
「ありがとう。」
「……、」
「やっと会えたね。」
「うん。」
「いっしょに行こうか。」
「一緒にいこう。」
「ハーディーン。」
「僕たちは、ずっと一緒だ。」
「……そうだね。」
「ナサエル。」
「ん?」
「ありがとう。」
「あはは、突然何さ。」
「言いたかったんだ、あの時も。」
「あの時?」
金髪で青い瞳の少年と、葡萄色の髪で青い瞳の少年が微笑んだ。その後ろで、金髪で青い瞳の幼い少年と、葡萄色の髪で青い瞳の幼い少年が両手を繋いでいる。かたく、つよく、お互いを繋ぎながら、幼い二人は泣いていた。
20131116




