ラムプの森で
ルマティーグ大陸。三日月のように曲がっている細長い大陸だ。その南から東にかけて大きな湖が伸びており、その湖と森が大陸の多くを占めていた。都国・ルシウスを含む五つの国から成っている。
五つの内最南端にある国、ラムプ。普段は穏やかなラムプのとある森に、強い風が吹いていた。草花は足元でざわめき、木の枝は軋むように揺れている。頭上を緑で覆い尽くした木々の上では相変わらず空が何食わぬ顔で真っ青を広げ、一つだけ間違いで浮かんでしまった雲が、落ち着く場所なく排除されるようにすぐ流れて消えていった。遠くで、耳鳴りが聞こえた。
「キース。」
「……。」
中性的でやや高い声の青年が傍らで横になっている青年へ呼び掛ける。キースと呼ばれた青年は聞いているのかいないのか、身体をぴくりとも動かさない。穏やかとはとても言えない風だけが二人のシルエットの間を通り過ぎていく。
「わかってるんだからな、起きてることくらい。」
「……なんだよ。」
「……。」
高い声はそれきり黙った。その質量感のない声の代わりに、紙が擦れるような音が二回だけ風の音に紛れ込む。
「行けばいいんだろ、行けば。」
暫くの無言からようやくキースが立ち上がり、小柄とも言えるその腰に差した大剣が無機質な音を立てた。その大剣を片手で抜き、鞘を払い落として肩に担ぐとそのまま逆風へ向かって歩を進めていく。小さくなっていく背中がやがて深い緑に紛れて見えなくなると、残された青年はクスクスと静かに笑う。大樹の曲がった根が丁度机のように窪んでおり、そこに置いて広げていた大きな本を閉じた。そしてその年季の入った表紙に突っ伏し目を閉じて呼吸を整える。
「素直じゃないな、ホント。」
長い白磁のようになめらかな刃は、柄から離れる程広くなっていて、ひし形におさめた剣先は鋭く、繊細なまでに薄い。装飾は柄と刃が接する部分に赤く光る丸い石がはめ込まれただけで、彫り物などもないシンプルなもの。そんな質素で古風な大剣がキース愛用の武器だ。
目的まではそう遠くないはずだ。キースは五感でそう感じている。真っ直ぐ歩みを止めない。髪が風の所為で乱れ、時折視界に入ってくる。薄手のコートの裾は踊るように揺れて肌をくすぐった。足下に広がる緑もまとわりつくように吹かれているので、目に映る全ての物が自分の行く手を阻んでいるようにさえ感じていた。
「……面倒臭い。」
そして森の中のだだっ広い空間に佇んで、本当に心底面倒臭そうに嫌な顔をして呟くのだった。キースは担いでいた大剣を振り落とし、切っ先を芝生に突き刺して柄を手放した。全体的に小柄な彼ではあるが、スラリと伸びる脚と突き刺した大剣の長さは同じ長さだ。何もない先を深い紫の双眸で見据えて薄く息を吐いた。耳鳴りがする。これが何であるのか、知る者は少ない。キースの表情が引き締まった直後、けたたましい雄叫びがだだっ広い空間を震わせた。
風が前触れなくピタリと止んだ。森には静けさが戻ってきている。頭上にある枝の隙間から穏やかに光が差し込むと、ティルは目をパチリと開け、のっそり体を起こした。
「遅いな。」
ティル=ワード。すっと通る鼻筋、細く整った眉、くっきりとした二重の眠たそうな目はやや鋭い。中性的な雰囲気ながら長身と肩ほどまで伸ばした透き通るように色素の薄い金色の髪を持つ。魔術士であるティルは回復魔法である光魔術を得意とする。普段はキースの補佐に回ることが多い。
「終わったみたいだけど、何か嫌な予感。」
爽やかな森色の光に包まれながらゆっくり流れる空気には暖かささえ感じる。そんな空気に誘われ二重の目立つ眠たそうな目を本当に眠たそうに擦り、本に肘を突いて頬杖を作った。
「おい。」
少ししてから低く唸るような声が掛かった。キース・ティサイア。落ち着いた茶色の髪。襟足が長く、他は適当に跳ねさせている。眉と共に鋭い目。瞳は深い紫。すっきりと収まった鼻と落ち着いた口元から凛とした雰囲気を漂わせている。
「あ、お帰……り。遅かったな。」
「他に言うことは?」
「行ってくれてありがとう。」
「……。」
「わかってるわかってる。その肩のヒトは?」
そんなキースが纏う澄んだ空気に似つかわしくない、淡い桃色。それはどう見ても人間の髪だ。相当長く、俯せになるよう担いだキースの腰を通り過ぎて揺れている。
「居たんだよ、行った先に。」
キースはあからさまに溜息をついて、腰掛けながら語り始める。
雄叫びはキースに向けられたものではなかった。剣を抜き歩を進めていくと、そこは木々の薄い、開かれた小さな空間。短い草と小さな花だけが広がる。そして人間の10倍の大きさはあるドラゴンがいた。砂色のザラザラとした皮膚。口先が鋭く、口元の牙が針のように伸びている首の長いドラゴンだ。退化した羽が肩辺りから小さく生えている。それの前には既に対峙している人がいた。対峙とは言っても、ドラゴンはジリジリと距離を縮めてはまた引き、唸り続けては時々吠える。躊躇っているようにも見えなくはない。それも、長い桃色の髪を慌ただしく揺らす、少女に向かって。少女は見慣れない衣服を着ていた。長い襟を左前になるように胸で重ね、それを腰に巻いた紐で止めている。袖が長く、手の甲は隠れて見えていない。紐から下の裾が短いスカートのようになっており、密着した薄手のパンツが太股を覆っていた。
「何だ……?」
少女の足元では風のようなものが絶えず激しく渦巻いて見えていたが、はためく髪や衣服以外はまったく動かない。キースはその場で剣を両手で握り直し、僅かに脚を開くと腰を浅く落とした。肩より上に上げて剣の切っ先をドラゴンに向けて狙いを定める。途端に痺れを切らしたドラゴンが大きく口を開けて急激に距離を縮めていく。キースは瞳孔にドラゴンを捉え、足にぐっと力を入れて構えた。
少女が両腕を上げ身を翻す。手を隠していた長い裾が風に乗って浮き、その裏側で白くて細長い指がゆっくり線を描いていた。そして、ドラゴンは縦長の口に風が当たって素早く吹き飛ばされた。
「……。」
ゆったりと舞うような少女の動きからは考えられない速さ。渦巻いていた風が鞭になって暴れる。何よりもキースが気になったのは、虚ろな少女の瞳だ。意思の読み取れない瞳には何も映っていない。転がっていたドラゴンが弱々しく立ち上がる頃。風が事切れ、少女が倒れた。キースは舌打ちをして向けていた切っ先を振り落とす。
短い草花が一瞬の内にキースからドラゴンまでを繋ぐ一本の直線を描いて伏せた。そしてドラゴンが続いて硬直した後、声もなく倒れた。草花は何かに押し潰されたようになって立ち上がらず、ドラゴンも痙攣が止むと仰向けになったまま動かなくなる。それを確認し、キースは剣を握る手を緩めると、倒れた少女の元まで小走りをして、顔を覗き込んだ。
「……。」
緑を背景に、桃色の髪の少女は幸せそうに微笑み、寝息を立てていた。
「……で、連れてきたワケね。」
「置いてきても良かったが。」
「そんなわけにはいかない、そういうことか……一応、俺たち冒険者だからな。いつもみたいに言い寄ってきた人じゃなくてよかった。」
仰向けに寝かされた少女の側に膝をついたティルは口を開かずに女へ視線を走らせた。少女という言葉がよく似合う程あどけない顔付きだ。
「すり傷が数カ所。右手の平の切り傷が一番酷いくらいだ。骨折とか病気はなさそう。少し喉が痛んでるのは気になるけど。」
紐を巻き付けたような靴、変わった衣服も所々綻んでいる。頬や露出した足には血が滲んでいるすり傷が所々にあった。ティルは触れずに一通り体を確認した後、見つけた傷に片手をかざして魔力を送り込んでいく。瞬く間に皮膚が再生し、すり傷が閉じた。右の手のひらは真ん中辺りから真っ二つにするように皮膚が裂けている。その手を取ると空いた手の人差し指を立て、傷を指差した。指先から真っ直ぐ魔力を当てると傷がじわじわと音を立てて細胞が再生していく。薄い線が消えると、そっと右手を自然の形に置いた。
「おしまい。……この人どうする?たしか、ルマティーグにはアンナがいるよな。えっと……」
「ルシウスのオークに。」
「そうそう。オークオーク。
アンナは身よりのない女を何人か養ってるみたいだし、アンナに任せたらどう。」
「そうだな。」
「キース、オークまでどのくらい?」
「ルシウスは最北端だ。船が一番早い。それでも半日かかる。」
「げっ。」
キースは天を仰いで日の高さを確認しようとしたが、空は緑に覆われていて太陽は確認できなかった。
「船かぁ……。」
ティルが声を低めて刺々しい視線を向けるとそれを受けたキースが眉間に皺を寄せ、呆れたように溜め息をついた。黙って背を向けて歩き始める。ティルがキースに習って薄い溜め息をついた後、渋々腰を上げて伸びた。一歩踏み出そうとした足元には目を覚まさない少女が静かに息をついたままだ。
「ちょっと!この人どうすんの!」
先へ行ってしまった仲間からは返事がない。憤りながらも乱雑に少女を抱き上げて、小さくなった背中を追った。
20080206
20170117改稿
20181130改稿