救いの手は
桃色の髪の少女は全ての質問に首を横に振る。最後に名前を尋ねられると、間をおいてたどたどしく「セイリア」と答えた。髪の色も着ていた服も見かけないものだ。時々独特な仕草をすることもある。長く旅をしていたアンナの知識にもなく、その謎を明かされることはなかったが、それ以外は明るく穏やかな性格で、周囲とすぐ馴染んでいった。
「セイリア、本当に行くのね?」
「はい。」
「セイ……行っちゃうの?ホントのホントのホントに?」
「うん。ごめんね、サラ。」
「そっかぁー……。」
「ごめんなさい、みなさん。」
セイリアは深々と頭を下げた。暫くしてゆっくり頭をあげると、半壊した店の外装を見て今度は眉を下げた。緋色の瞳が揺れる。申し訳なさで締め付けられる胸を両手で押さえて、また頭を下げた。どうやらセイリアの生まれ育った場所では謝罪をする時に頭を下げるらしい。アンナの家で過ごした数日間、セイリアが頭を下げる仕草には全て謝罪の言葉が伴っていた。
「迷惑かけた、アンナ。」
「いいのよ……キース。」
「ねえっキース!セイをよろしくね!?」
「ああ。」
サラに両手を掴まれ、鋭く目を向けられる。アンナの家に滞在中、サラは一番にセイリアを気にかけていた。何ものかに追われているのは確実だが、そんなこと関係ない。セイリアはこれから一緒に暮らすのだ。と、アンナたちは思っていた。あの夜までは。
「キースたちはねー、旅をしているんだよー。」
「旅?」
「うん!旅!船乗ったり~鉄道乗ったりして、外国行って美味しいもの食べたり不味いもの食べたりするの!」
「うん。」
「あとね!これはすごいよ!」
「なに?なに?」
「マモノと戦うの!剣でズバーンってやったり、魔法でバシャーンってやったりするんだって!」
サラは拳を空に突き出しながら興奮して感覚的に話した。セイリアは引き千切られた毛先を隠すように髪をまとめられ、サラと全く同じ格好をしてそれを見ている。そのすぐ横でマーサが苦笑、ナディアが目を輝かせていた。今は店の片付けの途中だ。マーサは時々ガタガタと揺らされるテーブルを押さえながらグラス磨きに勤しんでいたが、妹二人は休憩と言ってカウンターに腰掛けて談笑。ナディアはサラの話に身を乗り出す。
「くぅーっ!カッコイイ!キースカッコイイ!剣カッコイイ!」
「うんうん!それでね、魔法はティルさんが得意なんだってー。」
しんと一気に部屋が静まり返った。この辺りでアンナの叱咤やキースの制止の声が響きそうな気はするが、今回はそうではない。アンナとキースはあれから部屋に篭って話し込んでいるからだ。あの時、キースの淡々とした語り口で告げられることを受けとめる度に、アンナの顔色は薄れていった。そして、ティルもまた落胆が酷かった。娘の三人はその様子を見て、触れられない空気を感じ、アンナとティルには今も何も言えない。ナディアが眉尻を極端に下げ、席に落ち着いた。最後の発言者のサラが肩を縮めながら気まずそうに視線を泳がせている。
「あ、えっと、そうね……」
渋い顔の二人を見てセイリアが顔を曇らせるのを見兼ね、マーサが無計画に口を開いて無駄に身振り手振り会話を繋ごうとした。しかし、最良の言葉が見つからない。無理に繋がらなくてもいい、とにかく空気を変えよう。深呼吸して再び、今度は口を開く。
「……ティルさんも、ママと同じように苦しいんだと思う。」
サラとナディアがおずおずと視線をマーサに向けた。緋色の瞳でセイリアもじっとマーサを見ている。時計の秒針だけが相槌を打つ静かな間を置いてマーサが言う。
「笑って送りだそうよ。また二人が来てくれるように。二人に、また会えるようにさ。」
「おくり、だす?」
「そうよ。セイ、キースたちは冒険者だもの。ずっとずっと。」
「ずっと……?」
「そう。でもまた会えるわ。」
「ティルさんも?」
「ええ。二人はずっと一緒に」
「ティルさんも、行ってしまうの……!?」
「セイリア?!」
セイリアの顔から血の気が引き、店を飛び出して行った。あまりにも突拍子もない行動に三人の娘たちは目を白黒させながら慌てて追いかける。店の壁に空いた大きな穴から、女性たちが立て続けに夜の暗闇に飛び出した。大声でセイリアを呼ぶサラよりも速く、ナディアがセイリアに追いつく。
「ちょっと、危ないってセイリア!」
「でも!ティルさんが行ってしまう……!」
「まだ行かないよ!」
「でもっ……!」
「あーもーっ!!」
ナディアはセイリアに飛び付いた。少し引きずられたが、セイリアは脚を止めて息を上げながらナディアの頭を見下ろした。緋色の瞳には涙の膜が張っている。ナディアはセイリアの全身が小刻みに震えていることに気づいて、理解が追いついていないものの、宥めるように背中を撫でてやった。
「だいじょーぶだよ、まだ行かない。ちゃんといるよ、ティルさん。」
「ほんと……?」
「うん。」
サラとマーサの足音が近付いて来た。ナディアがセイリアを抱き締め、セイリアは涙を浮かべている様子が月明かりに照らされている。二人は息を切らして駆け寄り、ナディアと同じように抱き締めた。
「セイ、ティルさん探そっか。」
「……うん。」
「夜のオークは狭いからさ、きっとすぐ見つかるよ。」
「多分だけど……」
「ん?」
「あそこだと思うな。」
「よし!じゃあ行こう!」
セイリアとサラが手を繋いで先を歩いていく。マーサとナディアはその後ろのやや離れた所を歩いた。マーサは夜道に気を配り、セイリアの周囲を警戒している。騒動の後にキースから聞いたのだが、あの得体の知れない男や生き物は、セイリアを追って来ていたらしいのた。
「ねぇマーサ。」
「あ、え、なに?」
「セイリアさー、襲われたじゃん?」
「……うん。」
「目が覚めていきなり怖い思いして……かわいそうだよね。でもそこへティルさんが助けに来てさ、倒れる程必死に守ってくれてさ。」
「うん。」
「……ティルさんがいないと怖いのかな。」
ナディアの言う通りかもしれないし、そうではないかもしれない。マーサはなにも言わないでセイリアの背中を見た。あの夜のことをセイリアは話そうとしないし、恐ろしい思いをしただろう、敢えて訊こうとも思わない。そしてティルはあの夜を境にすこぶる機嫌が悪い。倒れていた所をマーサたちに見られ、介抱され、恥ずかしいのではないかとアンナは言っていた。だからこそティルにもあの夜のことを訊けないのだが。
「ついたよー。」
「ここ?」
入り組んだ路地だった。長い階段を上りきったと思ったらすぐ曲がり角で、また小さな階段を上がる。人がやっと行き交えるような狭い道を通り、上り坂かと思えば突然下り坂になって、更に階段を上がる。左右には建物が連なっていて、壁のように続いていた。と言うよりは、背の高い壁の中に窓があるような景色だ。時々灯りがこぼれている窓の中には、扉の上に手書きの看板が掛かっていることもあった。居住と商売の区間が厳しく定められていないオークは、家の隣に店があることは珍しくない。夜に開いている店はあまりないため、殆どはそこへ暮らす人々の生活の灯りであると思われる。
サラが足を止めた灯りは、今までの窓と違ってとても賑やかな声が聞こえてくる。ここはオークにやってきた商人や冒険者が集う、酒場だ。
「あ、いたー!」
「ティルさん!」
あまりにも雄々しい空間だった。笑い声や喧騒、物音で溢れかえり、埃っぽい空気の中を食べ物と飲み物が行き交う。重量感のある防具と武器を身につけた、いかにも冒険者といった風の格好をした女性もいたが、こんな薄い部屋着のような格好の女性はサラたち以外にいない。扉の開く小さな音には誰も気付かなかったが、サラが大きな声で言ったので大勢がこちらを見た。たくさんの視線に構うことなく、セイリアが駆け出した。店の入り口に近い片隅にティルはいた。喧騒が少し止んで、ざわめく。間を置いて入ってきた瞬間、マーサとナディアにもたくさんの視線が向けられた。ナディアが眉間に皺を寄せて辺りの人間を睨みつけながら、サラやセイリアを見つけて追いかけた。
「げ、なんで来たのアンタ。」
ティルのいる小さなテーブルには空のジョッキがたくさんと、煙草の吸殻にまみれた入れ物があった。眠そうな目が更に眠そうにして、必死に瞼を押し上げようとしている。駆け寄って来たセイリアはそのテーブルとティルの様子を交互に見て酷く驚き、身体を硬直させて立ち尽くす。何に衝撃を受けたのか、大きく震える人差し指でテーブルかティルかを指していた。
「あ、あああ……!」
「なんな……ゲェッ!なんだオマエラ!」
続いて目に入った三人の娘たちには、瞼を限界まで押し上げて大きく裏返った声で叫んで立ち上がった。脚の脆そうな安いテーブルが大袈裟に揺れて、ジョッキが何個か転がり落ちた。
「ティルさん、」
「お嬢ちゃんたち、こいつの仲間か?」
「え、ちがうけど。て言うかなに?気安く呼ばないでオッサン。」
「そうなのか?」
「あのっ仲間じゃないけど知り合いです!」
「なんでもいい、知ってんなら連れ帰ってやれ。愛想は悪ィし悪ガキだしで面白がった連中がじゃんじゃん呑ませちまってよ、すっかり潰れる一歩手前だ。」
「帰れ!こんなとこ来んな!」
「オメェみたいなガキもな。ホラ!さっさとキレーな嬢ちゃんたちと帰んな!」
「なんだとクソオヤジ!」
激昂したからか酔いからか、真っ赤な顔のティルは親切な男性に飛びかかろうと踏み込んだ。しかし一歩足を踏み鳴らした所で膝が折れて崩れる。男性が言った通り、かなり呑まれていた。恰幅の良い男性の腹にティルの頭が倒れこんだが、男性が動じなかったお陰で跳ね返り、そのままの勢いで床に落ちた。何に対するものか、店内のどこからか笑い声が上がった。ハッと我にかえったようなセイリアが慌てて屈み、ティルの頭のあちらこちらを撫で回す。
「ティルさん!」
「潰れたな。ちょうどいい、そのまま帰れ帰れ。嬢ちゃんたちのようなキレーな娘が来るところでもないんだからよ。」
「うっさいなー、わかってるよ。オッサン、ホントお節介。」
「おーおー、一番ちっこい嬢ちゃん。オメェはオーク出身か?」
「ハ?」
「オークの子どもは元気でいい!」
男性はナディアの髪を乱雑に撫で、伸び放題の眉を上げて笑んだ。ナディアは小さな拳を振り回して抵抗する。そして口汚く罵って暴れた。マーサが一喝すると大笑いしていた男性と大怒りのナディアが同時に飛び跳ねて、二人して目を丸くして静かになった。
「驚いた……カミさんが来たのかと思った。」
「はぁ?オッサン結婚してんの?早く家帰ったら?」
「嬢ちゃんくれぇの子どももいるぞ。……そうだな。そろそろ帰るか。」
「フン。」
「兄ちゃん運ぶの手伝うよ。」
「あ、助か」
「いい!」
高身長のティルを家までのあの距離を運ぶのは骨が折れる。男性が力を貸してくれると大変助かるのだが、ナディアはマーサの言葉を遮るように声を張り上げた。遊ばれたナディアは相当腹が立っているのだろうか、マーサは呆れながらも説得力しようと口を開く。
「あのね、ナディア、」
「私、商人は信用できないんだ。」
「え?」
「ほう。」
「じゃーね、オッサン。早く帰って子どもと遊んでやりなよ。」
転がっているティルの腕を引き、小さな背中に担ごうとするナディアから、サラがティルの上体を取り上げて軽々と脇に抱える。手が空いたナディアは、引き摺られそうな脚を両手に持つことにした。その横で心配そうに、そしてできる限りのことをと、セイリアがティルの腕を掴む。三人は男性の前を振り返ることなく通り過ぎた。残されたマーサはナディアの失言を男性に深く詫び、お礼を言って小走りで去って行った。
「ティルさ、んっ重い!」
「もう!だから言ったのに!」
「でもあのオッサン嫌いなんだもん!」
「いい人そうだったよー?」
「でも嫌いなの!」
行きは上りが多かったので帰りは下りばかりだ。だが下りは体力を使う。ナディアは意地を張ったことをやや後悔しながら、ティルの足を肩にかけて歩いた。気を紛らわそうとティルの足を見る。この至近距離ではブーツの靴底が歪にすり減っているのがよくわかった。酒場と自宅の往復よりもずっと長い距離を歩いているのだろう。ティルよりも長くて重たいものを運んだこともあっただろう。魔物に追われたり、オッサンに絡まれたり、そんな日もあるのだろう。大変そうだ、が、羨ましくもある。ナディアはセイリアの背中を見つめた。細くか弱い腕、しっかりと握られているティルの腕。その姿にぼんやり覚えがあった。
自分もセイリアと同じように救いの手を差し伸べてもらったことがある。その手に必死にしがみついて、もがきながら生きていた頃。時折噛み付き引っ掻くこともあったのに、それでもたくさんの手は今でも自分を見捨てない。自分の手は、まだ誰かの救いの手にはなれない。セイリアは目の前のティルの手にしがみついていたいのだから。
「セイ……行っちゃったよー。」
「だいじょーぶなのかな。」
「キースがついているから大丈夫よ。」
「そっか。ティルさんもいるし、ね。」
「さ、マーサ、サラ、ナディア。片付けるわよ。」
「はい!」
「はーい。」
「そうだママッ!キースにどんくらいもらったの?お・か・ね!」
「もうアンタは!お金のことはいいの。」
ナディアが態とらしくとぼけて見せ、全員が笑い声をあげた時。セイリアがふと立ち止まって振り返った。そして深く頭を下げ、薄く微笑む。オークの晴れた空に太陽の光を遮るものはない。石畳みや石の壁が眩しくて、目を細めた。
20130615
20170117改稿
20181213改稿