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第一話:踊る子鹿と銀貨の予感

王国暦1420年、オルテンシア。

第一話:踊る子鹿と銀貨の予感(前編)この街の空は、いつもどこか少しだけ魔法の残り香で色づいている。王都から伸びる送魔導管が街の中枢を貫き、そこから溢れ出る微かな魔素の光が、石畳の隙間や家々の窓辺を青白く照らすのだ。

オルテンシアの城下町は、魔素相場マナ・マーケットの変動とともに呼吸している。

「アルト! また掲示板の前でぼうっとして! そんな暇があったら、昨日の客が残していった魔導皿を磨いておくれよ!」

母さんの甲高い声が、宿屋『踊る子鹿亭』のキッチンに響き渡る。僕はため息をつきながら、エプロンの裾を払って立ち上がった。

「分かってるよ。でも母さん、さっきの相場だと、今日の魔素価格は『水』が下落基調だ。水浴び用の魔導ヒーターをフル稼働させるのは今のうちだよ」

「そんな細かいことはいいんだよ! それより、夕食の仕込みだ! 今日は北の商隊が泊まるんだから、少しばかり見栄えのいいスープを頼むよ」

僕は返事をしながら、慣れた手つきで野菜の皮を剥く。

10歳の僕、アルトにとって、この宿屋は世界そのものだった。父さんが遺してくれたこの宿屋は、オルテンシアでも一番古く、そして一番騒がしい。客のほとんどは魔素の価格変動で一喜一憂する商人や、一攫千金を狙う冒険者たちだ。彼らは朝から晩まで、食堂の壁に掲げられた水晶板を睨みつけている。

この世界の魔法は、エネルギーである『魔素』の相場に縛られている。

誰かが魔導具を使えば魔素が消費され、市場の価格が上がる。雨が降れば水の魔素が安くなり、乾燥すれば火の魔素が高騰する。

僕はこの複雑な市場を、まるで季節の移ろいのように理解していた。数字の裏側にある「人の欲望」と「自然の摂理」が、僕の脳内でパズルのピースのようにカチリと組み合わさる。

(今日の夕方は、風が強くなる……。なら、風属性の魔素が一時的に跳ね上がるはずだ。その前に、宿屋の予備魔導石を仕入れておけば……)

そんなことを考えていると、食堂の扉が激しい音を立てて開いた。

「誰か! 誰かこのガラクタを直せる人はいないの!?」

飛び込んできたのは、見たこともないような銀色の髪をした少女だった。

彼女の靴は泥だらけで、高価なドレスの裾はあちこちが破けている。けれど、その瞳だけは、オルテンシアのどんな商人よりも鋭く、そして苛立たしげに燃えていた。

客たちが一斉に振り返り、囁き合う。「おや、あれはどこぞの貴族のお嬢様じゃないか?」「家出か? それとも……」

少女はそんな視線を無視して、真っ直ぐに僕のいるカウンターへ歩み寄ってきた。

「ねえ、あなた。宿屋の看板息子って、あなたでしょ?」

彼女は荒々しく、使い込まれた古い計算機アバカス・ルーンをカウンターに叩きつけた。真鍮の鈍い光が、彼女の焦燥を映し出す。

「直して。今すぐに。これさえあれば、私は自分の力で証明できるんだから!」

彼女の無鉄砲な勢いに、僕はただ、持っていた包丁を置くしかなかった。

オルテンシアの平和な日常が、明らかに音を立てて変わり始めようとしていた。


少女が差し出した計算機アバカス・ルーンは、王都の魔導士ギルドが発行するような安物ではない。真鍮の枠には繊細な銀の彫金が施され、中央には高純度の魔導石が埋め込まれている。だが、その表面には無数の細かいひっかき傷があり、内部の回路を繋ぐ魔力線は明滅を繰り返して不安定な音を立てていた。

「君、これを『直して』と言うけれど……使い方が根本的に間違っているよ」

僕は淡々と告げながら、少女から計算機を受け取った。彼女の指先は小刻みに震えている。それは怒りからか、あるいは極度の疲労からくるものだろう。

「間違っている? ……笑わせないで! 私がどれだけ計算をやり直したと思ってるの! 昨日から魔素市場の変動値を追っているのに、このアバカスは一度だって正しい数値を弾き出さなかったのよ!」

彼女は憤慨してそう叫んだが、その視線はどこか潤んでいた。

僕はカウンターの奥から小さな精密ドライバーを取り出し、計算機の裏蓋を開ける。中身はかなり酷い状態だった。過度な負荷をかけ続けたせいで、魔力伝導管の連結部が熱を持ち、微小な歪みを生んでいる。

「相場というのはね、予測したい対象だけを見ていてもダメなんだ」

僕は小さなピンセットで内部の魔力線を微調整する。集中すると、周囲の騒音は遠のき、魔素の繊細な振動だけが指先に伝わってくる。

「風属性が強まれば、それを相殺しようと火属性が反応する。さらに、現在のオルテンシアは魔導管のメンテナンス期間だ。魔素の供給量は不安定で、単純な数式で弾き出せるはずがない」

「……何よ、急に難しいことを。そんなの、当たり前じゃない!」

「いいや、君は計算機の数値を信じすぎて、街の気配を忘れている」

僕は最後の調整として、計算機のコアにある共鳴板をコン、と叩いた。その瞬間、沈黙していた計算機が鮮やかな青色の光を放ち、空中に向かって今日の魔素相場の推移を正確に投影した。

少女は息を呑んだ。壁に映し出された数値は、彼女が先ほど市場の掲示板で見ていたものより、さらに先の、夕方以降の変動までを正確に予測していた。

「……嘘。どうしてこれが動くの? 私は何度調整しても、こんな綺麗なグラフを描かなかったのに」

「君の魔力が、少しだけ過剰なんだ。この計算機は繊細だから、強い魔力を流しすぎるとノイズが出る。……ほら、受け取って」

僕は計算機を彼女に戻した。少女はそれを両手で包み込むように受け取り、まじまじと見つめた。その表情から荒々しさが消え、代わりに驚きと、そして少しの安心が浮かぶ。

「……ありがとう。私、計算機が壊れてるんだと思ってた。……私の腕が悪いんじゃなくて、良かった」

彼女の肩の力がふっと抜けるのが分かった。その姿を見て、ようやく彼女がただの「生意気な家出娘」ではなく、何かに焦って、必死に背伸びをしている一人の少女なのだと理解した。

「名前は?」

僕が尋ねると、彼女は急に背筋を伸ばし、先ほどまでの威勢を取り戻そうとしてふふっと笑った。

「ティナ。今日から、この街でお世話になることになったわ。……アルト、だっけ? あなた、なかなかやるじゃない」

ティナと名乗った少女は、泥で汚れた顔を拭うことも忘れて、勝利した軍人のような誇らしげな笑顔を見せた。その笑顔は、古びた宿屋の食堂に、少しだけ春の風を連れてきたような気がした。


食堂の喧騒が、遠い砂嵐のように感じられた。客たちは相変わらず水晶板に群がり、銀貨の増減に叫び声を上げているが、僕とティナの周囲だけが、微かな静寂に包まれていた。

「……それで、ティナ。君はこれからどうするつもりだ?」

僕はカウンターの布巾で手を拭いながら聞いた。家出令嬢という素性は、彼女の纏う衣服の端切れや、慣れない靴の汚れから見当がつく。だが、それ以上を詮索するのは無粋だ。ここは宿屋。泊まる客には、その事情が何であれ、温かいスープと寝床を提供するのが僕の仕事だからだ。

「どうするって……決まってるじゃない」

ティナは少しばかり生意気に顎を突き上げ、僕の背後にある厨房を指差した。

「この計算機が治ったおかげで、これからは私の計算通りに稼げるはずよ。でも、市場の動きを詳細に読み解くには、もう少し街の『生きた情報』が必要なの。……だから、ここで働かせて!」

「働く?」

「そうよ! 宿屋なら色んな商人が泊まるでしょう? 彼らの会話を盗み聞き……じゃなくて、貴重な市場情報を仕入れつつ、私もここで働いて生活費を稼ぐの。それに、あなたのその、少し鼻につく冷静さ……あ、失礼、その優れた分析力をもっと間近で見たいのよ!」

僕は呆れて溜息をついた。母さんが聞いたら、目を丸くして喜ぶだろう。人手不足の『踊る子鹿亭』に、タダ働き同然の労働力、それも貴族の令嬢とあれば。

「母さんには、僕が上手く言っておく。その代わり、仕事はちゃんとやってもらうよ。皿洗い、清掃、そして、買い出し」

「買い出し? 私に任せて!」

ティナはやる気満々に拳を握りしめた。その真っ直ぐな瞳からは、家出の不安など微塵も感じられない。10歳の子供同士の会話だ。だが、不思議と彼女と話していると、自分の世界が少しだけ広がっていくような感覚があった。

その夜、宿屋の屋根裏部屋。

僕たちは小さな木製のテーブルを挟み、ティナの計算機を置いていた。窓から見える城下町の明かりは、魔素の輝きを反射して揺らめいている。

「ねえ、アルト。明日の魔素価格、どう動くと思う?」

ティナが少しだけ不安そうに僕を見る。その顔には、先ほどまでの威勢はなく、ただの少女の繊細さが滲んでいた。僕は彼女の隣に座り、計算機の数値を指でなぞる。

「……明日は北からの風が吹く。風属性が安くなるから、それを動力源にする製粉工場の生産効率が上がる。小麦が安くなり、結果として街の食料品価格が下がるはずだ」

「なるほど……。そうすれば、宿屋の朝食コストも下がるわね。そこまで読んで、仕入れのタイミングをずらすの?」

「そうだ」

「へぇ……。ねえ、アルト。私、今日までは一人で必死だったけど……二人なら、もっと上手くやれる気がするわ」

ティナがふわりと微笑んだ。その笑顔を見て、僕の胸の中で何かが音を立てて弾けた。

宿屋の息子である僕にとって、数字はただの「利益」だった。けれど、ティナという相棒ができた今、その数字の先には、彼女と一緒に過ごす穏やかな未来があるように思えたのだ。

魔法と経済が支配する、この騒がしいオルテンシア。

その片隅で、10歳の少年と、家出した令嬢の『小さな経済学』が動き出した。

「さあ、明日の朝食は最高のスープを出そう。……それが、僕たちの最初の利益になるはずだ」

僕がそう言うと、ティナは満足そうに頷いた。

踊る子鹿亭の明かりは、いつもより少しだけ優しく、街の夜に溶け込んでいた。

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