顔のない女
私、苅野輪廻は、とある海沿いに建設された原子力発電所の職員だ。新卒で入社して、もう二十代後半になる。担当は作業工程の管理。広大な敷地内で行われる無数の保守点検や、機器の交換、トラブル対応といった作業が、スケジュール通りに、かつ安全基準を満たして進行しているかをチェックする仕事だ。言うまでもなく、二十四時間三百六十五日稼働し続けるプラントにおいて、夜勤は避けられない。だが、朝陽と共に目覚めるなどという健康的な生活リズムが死ぬほど苦手な私にとって、真夜中の静まり返った施設で過ごす時間は、むしろ性に合っていた。
と言っても、仕事自体は結構適当にやっている。自分で言うのも何だが、私は地頭は良い方だと思っているし、物事の要点を掴むのは昔から得意だった。膨大なマニュアルや手順書も、斜め読みで必要な箇所だけを脳にインデックスしておくことができる。ただ、その反面、単調な勉強や無意味に思える書類仕事は反吐が出るほど大の苦手だった。延々と続く安全確認のチェックボックスや、似たような文言が並ぶ定例報告書を作成していると、とにかく脳が活動を停止したがるのだ。結果として、激しい睡魔に襲われることになる。
だから私は、仕事中にたまに寝ている。これはもう、サボりというより生理現象に対する自己防衛だ。背筋を伸ばし、マウスに手を置いたまま、モニターの光を浴びながら意識を飛ばすプロフェッショナルだと自負している。もちろん、ずっと寝ていてはまずいので、デスクには常に強刺激のエナジードリンクを常備し、カフェインを血中に流し込みながら、死んだ魚のような目で作業をこなす毎日を送っている。
仕事の都合上、トラブル対応やスケジュールの調整で残業になることも多い。その分、人間関係の構築に割く時間は極端に少なく、人との会話は必要最低限だった。たまに現場に向かう途中の通路や、入退域管理所の前で作業員に話しかけられることもある。
「お疲れ様です、苅野さん。午後のポンプ点検の作業工程ですが……」
「作業工程……? ああ、も、問題なしですよ……」
大抵は、そんな風に軽く答える程度で終わる。相手の顔すらまともに見ていない。私にとって職場の人々とは、プラントを構成する部品の一つに過ぎず、それ以上でもそれ以下でもなかった。放射線管理区域の無機質な白い壁と、蛍光灯の冷たい光。そんな場所で、淡々とした日々が過ぎていく。
◆
帰宅後のプライベートな時間は、私にとって数少ない精神の安寧をもたらす時間だ。家では趣味の食虫植物を育てている。特に好きなのはハエトリグサだ。マンションのベランダには、無数の鉢植えが所狭しと並べられている。あの、獲物を待ち構える静かな残酷さと、無駄のないフォルム。虫が二回触れた時にだけ閉じるという、極めて理にかなったエネルギー効率の良さ。それらを眺めていると、職場の馬鹿げた書類仕事で削られた心が、すーっと癒やされていくのを感じる。
植物の世話を終えると、次は自室のゲーミングPCに向かう。日課となっているFPCや対戦ゲームに没頭するのだ。現実世界では極力波風を立てないようにしている私だが、ネットの匿名空間では別だ。特にチーム戦で味方の足手まといになったり、敵から執拗な煽り行為を受けたりすると、途端に沸点が下がる。
「はぁ!? なんだ今のエイム! ふざけんなよ、ピギィ!」
深夜の部屋に、自分でも驚くような奇声が響く。ボイスチャットを繋いでいれば、そのまま口論に発展するのはいつもの事だった。「お前の立ち回りがクソなんだよ」「は? 論理的に考えてお前のカバーが遅いからだろ」と、理詰めと罵倒を織り交ぜて相手を完膚なきまでに叩き潰す。
ゲームに疲れたら、次は電子の海のパトロールだ。ネット上には、原子力発電に関する素人の浅知恵や、悪意あるデマを流すユーチューバーが腐るほどいる。「日本産の魚介類は終わっています」だの「怪しいお米セシウムさん」などという動画を見るだけで吐き気がする。私はそういう動画を開いては即座に低評価を押し、コメント欄に長文のアンチコメを書き込む。事実誤認を正確な数値とソースで指摘し、反論してくる信者たちとは徹底的に口論する。感情論でしか語れない連中を、現実と論理で殴りつける日々。それが私のストレス発散法だった。
◆
だが、最近、職場で何かが変なのだ。
明確な違和感の始まりは、五味アツムの態度だった。彼女は施設に契約で来ているゴミ収集員で、私が職場で唯一仲が良いと言える人間だった。常に作業着姿で、愛想笑い一つしないひねくれた性格の持ち主。喜怒哀楽が読み取れないポーカーフェイスの彼女だが、「残業ゼロで帰るためなら何でもする」という確固たる美学を持っており、効率重視の私とは妙に気が合った。互いに休憩室の隅で、無言でコーヒーを飲みながらタバコを吸うような、一種の悪友と呼べる関係性だった。
そのアツムが、最近全く口を利いてくれないのだ。
休憩室で見かけても、私の姿を見るなりサッと目を逸らし、足早に立ち去ってしまう。廊下ですれ違いざまに声をかけても、返事がない。
「お疲れ、アツム。今日のゴミの量やばくない?」
そう話しかけても、彼女は足を止めない。ちらりとこちらを見るその顔は、いつもの無表情ではなく、どこかひどくどんよりとした、絶望と悲哀が混ざったような酷い表情だった。
違和感はアツムだけにとどまらなかった。職場全体が狂っている。
誰も私に挨拶をしてこなくなったのだ。出勤して詰所のドアを開けても、誰も顔を上げない。まるで私が空間に存在していないかのように振る舞う。それはまあ、面倒な人間関係が省けて別にいいのだが、許せないことが一つあった。
私のデスクが撤去されていたのだ。
ある日出社すると、いつも私が座っていた隅のデスクが跡形もなく消え去り、そこには書類棚が置かれていた。は? 意味がわからない。一時的な配置換えだとしても、当人に何の連絡もないなんてあり得るだろうか。工程管理のデータをどうやって処理しろというのだ。
その上、他の女職員共が、私のことをこそこそと噂しているのだ。
「あれって……」
「本当に……?」
といった声の切れ端が耳に届く。どうせ私が夜勤中に寝ていることでも告え口されたのだろう。だが、直接は言ってこない馬鹿な奴らの相手をする必要は無い。私は現実主義者だ。不毛な諍いにエネルギーを割くのは馬鹿げている。
私はイライラしながら、自販機で買ったばかりのエナドリの缶を開け、中身を一気に喉に流し込んだ。そして、共有スペースのテーブルに、空になったアルミ缶をドン! と激しく叩きつけた。
途端に、ヒソヒソと話していた女職員共がビクッと肩を跳ねらせ、完全に口を閉ざした。その顔には明らかな恐怖が浮かんでいた。ざまあみろ。少しは大人しくしていろ。私は心の中で冷笑した。
そんな奇妙な状態が一週間続いた。書類仕事は誰かの端末を適当に借りて済ませていたが、やはりアツムに無視され続けているのは、私の中に黒いモヤモヤとしたものを生み出していた。論理的な理由がないのだ。私は彼女に何か恨みを買うようなことをした記憶はない。
ある夜勤の時、廊下で廃棄物の回収カートを押しているアツムを見つけた。今度こそ逃がさない。私は彼女の前に立ち塞がった。
「ねえ」
彼女は顔を伏せたまま、答えない。カートを握る手が小刻みに震えているように見えた。
「ねえってばっ!」
苛立ちが頂点に達し、私は彼女の肩を強く揺すった。
アツムはぎょっと大きく目を見開き、私を……いや、私の背後にある空間を見るような焦点の合わない目で、口を震わせた。そして、絞り出すような声で言った。
「輪廻、なんでだよ。この前、一緒に飲みに行こうって言ったじゃねぇか」
その目は、心なしか潤んでいた。ポーカーフェイスのアツムが泣きそうになっている。
は? 理解ができない。脳の処理が追いつかない。
「行ったでしょ。駅前の居酒屋に。なに? 私、なんかしたの? 割り勘の計算間違えたとでも言うの?」
私がそう捲し立てても、彼女はまた黙り込んでしまった。ただ、ポロポロと涙を流し、首を横に振るだけだ。コミュニケーションが成立しない。
心底イラッとして、私はため息をついた。
「あっそ。なら知らね」
非論理的な感情の押し付けはご免だ。私は振り向いて、ずかずかと詰所に戻った。
詰所のドアを乱暴に開ける。すると、またしても他の職員たちが数人集まり、私のことをヒソヒソと言っているのが聞こえた。
「どうして、あんなことが起きてしまったのかしらね……」
「苅野さん、まだお若いのに……」
はぁ? なんなんだ? こいつらまで。
若いのに何だというのだ。将来を悲観されるようなミスはしていない。私はこうしてピンピンしているし、工程管理の仕事だって(適当だが)回している。
「おいっ! 言いたいことがあるなら直接言えよっ!」
私は叫び、彼女たちに詰め寄った。だが、彼女たちは私の声など全く聞こえていないかのように、悲痛な顔で書類を見つめ続けている。完全に無視だ。
もういい。頭がおかしくなりそうだ。このフロアの人間は全員、集団ヒステリーか何かにかかっているに違いない。
私は踵を返し、詰所を出て廊下をずかずかと歩き出した。頭を冷やしたかった。
深夜の原発は、機械の低い駆動音だけが響いている。そうして無目的になかば無意識で歩いていると、ちらり、とあるエリアが目に入った。
地下のポンプ室へ続く通路。そこが、黄色と黒の立ち入り禁止テープで厳重に封鎖されていた。
<汚染区域・関係者以外立入禁止>
赤い警告の文字が目に飛び込んでくる。周囲には真新しい放射線防護服の廃棄ボックスが置かれ、ものものしい空気が漂っていた。
事故が起きたのだろうか? いや、おかしい。私は工程管理の担当だ。プラント内で異常があれば、真っ先に私の端末にも情報が来るはずだ。だが私の記憶には一切ないし、朝に確認した報告書にもそんな事象は出ていなかったはずだ。
気になり、私は足早に詰所へと戻った。職員たちの存在を無視して、空いている共有パソコンの前に座り、イントラネットから事故報告のファイルサーバーにアクセスした。本来なら私個人のデスクのパソコンで見るべきだが、無いものは仕方ない。
アクセス権限を使って直近のインシデントログを調べる。すると、厳重にロックのかかった一つのファイルが見つかった。
パスワードを解除し、目を通す。
それは、一週間前に起きた事故の詳細だった。INESすなわち国際原子力事象評価尺度レベル三の、小規模な放射性物質流出事故。老朽化した配管のマイクロクラックから、一次冷却水が気化して漏洩したらしい。少量とはいえ、内部の放射性物質を含んだ高濃度の蒸気だ。無防備な状態で少しでも浴びたら、急性の放射線障害で死の危険がある。
そして、その報告書の末尾に、赤字で<労災>の文字があった。
死亡者が出たらしい。
背筋に冷たいものが走った。なぜ、こんな重大な事故の情報を私は知らなかったのか。一週間前? 私は何をしていた? なぜ記憶がすっぽりと抜け落ちている?
気になり、私は震える指でマウスを操作し、総務部のデータベースから労災報告書を探した。
あった。
<労働者死傷病報告>
PDFファイルを開き、画面に表示された文字を読んで、私の体は完全に固まった。
心臓の鼓動すら聞こえなくなるような、圧倒的な静寂が訪れた。
そこには、被災者の氏名として、はっきりと記されていた。
苅野輪廻
死因、高濃度放射線被ばくによる急性心不全及び多臓器不全。
発生場所、地下ポンプ室。発生日時、一週間前の深夜二時十四分。
そうだ。
私は、あの夜、いつものように眠気覚ましのエナドリを片手に、サボり場所を探してあの地下通路へ向かったのだ。そして、運悪く配管の破裂に直面し、高濃度の蒸気を全身に浴びて……。
点と点が、恐ろしいほどの論理性を持って繋がっていく。
私がアツムと飲みに行ったと思っていた<この前>とは、事故の日のことだ。
私のデスクが撤去された理由。
職員たちが私を無視していたのではなく、私が見えていなかった理由。
空き缶がドンと鳴った時、彼女たちが怯えた理由。
私がいくら叫んでも、声が届かない理由。
「あぁ、そうか」
私は、顔を上げた。
不思議と、恐怖や悲しみはなかった。ただ、地頭の良さゆえか、突きつけられた現実を極めて冷静に処理し、納得している自分がいた。
私は、死んでいたのだ。
私はゆっくりと立ち上がり、詰所の壁に掛けられている姿見の前に立った。
鏡を見た。
そこに映る私の首から上。
蒸気で爛れ落ちたのか、それとも私の認識が欠落しているだけなのか。
顔がなかった。




