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第5話


 翌朝の中庭は、昨夜までの雨が嘘のようによく晴れていた。


 朝の光を受けて、芝の上にはまだ淡い露が残っている。

 その真ん中に立つレティシアは、いつもの重たいドレスではなく、淡い灰青色の実用服に身を包んでいた。裾は軽く、袖口も動きやすいよう整えられている。公爵令嬢らしい華やかさは控えめだったが、そのぶん、彼女の金の髪と白い首筋がかえってやわらかく映えた。


 侍女たちは最初こそ落ち着かなげに視線を交わしていたものの、レティシアが自分と同じ高さまで裾を上げ、盆を持つ姿を見るうちに、その緊張も少しずつ解けていった。


 中庭には、白い布を掛けた細長い卓がいくつか並べられている。

 その上には、昨日焼いた蜂蜜と木の実の祝い菓子。茶器。包み紙。季節の花を挿した小さな花瓶。

 今日は、菓子を配るための段取りと、庭での振る舞いを整えるための稽古の日だった。


《いい? 今日の目標は“皆で見苦しくなく動けるようになること”。派手さはいらない。自然で、感じよく、それでいてちゃんと記憶に残る》


(相変わらず注文が細かいわね)


 指輪の奥でエリスが胸を張る気配に、レティシアは内心でだけ小さく息をつく。


 すると、控えめに前へ出たクレアが、盆を胸の前で抱え直した。


「レティシア様……まずは、歩く速さを揃えたほうがよろしいかと。お菓子を運ぶ人と、お茶を出す人で、ずれると見栄えが悪くなります」


 いつもなら、侍女が主人へそこまで率直に口を出すことはない。

 けれど今日は違った。

 レティシア自身が、それを望んだのだ。


 彼女は唇をわずかに動かす。すぐにエリスが、その意思をやわらかな声に変えた。


「ええ。遠慮なく教えてちょうだい。今日のわたくしは、教わる側なのだから」


 その一言に、若い侍女たちの間で小さなどよめきが起こる。

 レティシアが自分からそう言い切るとは、まだ誰も慣れていないのだろう。


 それでもクレアは真面目に頷き、一度卓のまわりを歩いて見せた。

 盆を傾けない持ち方。裾を乱さない足運び。相手の前で立ち止まる位置。視線の落とし方。


 ひとつひとつは小さな所作なのに、通して見ると不思議と美しい。


(……すごいわ。何気ないようで、全部に意味があるのね)


《当たり前よ。人に何かを届ける動きって、それだけで立派な演出なんだから》


 レティシアは盆を受け取り、クレアのあとを追うように歩き出した。

 だが、三歩目で裾を踏みそうになり、危うく体勢を崩しかける。


 近くで見ていた侍女が、思わず「あっ」と声を上げた。

 レティシアはなんとか踏みとどまったものの、盆の上の紙包みがひとつ傾いてしまう。


 一瞬、場の空気が止まった。


 以前の彼女なら、誰かが慌てて謝り、誰かが青ざめ、凍った空気のままその場が終わっていただろう。

 けれど今、レティシアは盆を持ち直し、小さく肩をすくめた。


「……貴族の礼法より、こちらのほうが難しいのね」


 エリスの声を借りたその言葉に、侍女たちのあいだから我慢できないような笑いがこぼれた。

 悪意のない、やわらかな笑いだった。


「でも、今の曲がり方はちょっと可愛かったです」

「可愛い、は褒めているのかしら」

「もちろんです!」


 笑い声が重なり、空気がふっと軽くなる。


 そこからは早かった。

 誰かが包み紙のたたみ方を教え、誰かが花の向きを整え、別の誰かが卓の配置を直す。

 レティシアもまた、教えられるたびに頷き、試し、失敗し、少しずつ形にしていった。


 貴族と使用人という境界は消えない。

 けれど、そのあいだにあった固い壁が、ほんの少しだけ薄くなっていくのを感じる。


 練習の合間、クレアが冷えた果実水の入ったグラスを差し出してきた。


「お疲れではありませんか」


 レティシアはそれを受け取り、かすかに笑みをのせる。


「ありがとう。……クレア、あなたは本当に、よく見ているのね」


 そう口にしたのはエリスの声だったが、その感心はまぎれもなくレティシア自身のものだった。


 クレアは目を丸くし、それから少し照れたように視線を伏せる。


「そんな……皆が困らないようにと思っているだけです」


「それができるのは、簡単なことではないわ」


 クレアの頬が、わずかに赤くなる。

 近くにいた若い侍女たちが、顔を見合わせて小さく微笑んだ。


 その景色を見て、レティシアの胸の奥が静かにあたたかくなった。


(教える人にも、支える人にも、それぞれの誇りがあるのね)


 今まで見えていなかったのではない。

 見ようとしていなかっただけだ。


 そう気づいてしまった自分は、もう元のままではいられないのだろう。


 昼を過ぎるころには、中庭の空気はすっかり変わっていた。


 卓の上には焼き菓子が美しく並び、花も整えられ、侍女たちの動きにも無駄がない。

 レティシア自身も、ぎこちなさは残るものの、最初よりはずっと自然に盆を扱えるようになっていた。


「今の動き、すごく綺麗でした」


 そう言ってくれた侍女に、レティシアは目を瞬く。

 綺麗、と言われることには慣れている。だがそれは、着飾った姿や家柄に向けられることがほとんどだった。

 手を動かし、誰かに教わりながら得た所作へ向けられる言葉は、どこか新鮮で、くすぐったい。


 思わず口元がゆるむ。


 その瞬間だった。


 すっと、空気の温度が下がった。


 中庭の入口に、二人の女が立っていた。


 ひとりは、白い肌に冷たい美貌を宿したアナスタシア・フォン・アルヴェル。

 レティシアの義母であり、この屋敷で最も静かに人を追いつめる女。


 その隣には、黄金の巻き髪を揺らしたマリーベルがいる。

 可憐に見える笑みを浮かべながら、その目の奥にあるものだけがひどく冷たかった。


 アナスタシアは、中庭の卓と侍女たちをゆっくり見渡し、最後にレティシアへ視線を止める。


「……何事かと思えば」


 低く、よく通る声だった。

 それだけで、さっきまでの和やかさが一瞬で凍りつく。


「公爵令嬢が使用人たちと庭遊びとは。ずいぶんと暇を持て余しているのね」


 マリーベルが扇の向こうで、くすりと笑った。


「しかも、侍女に教わって盆を運ぶ練習ですって? 姉さま、次は本当に給仕にでもお出になればいいのではなくて?」


 侍女たちの肩が、小さく強ばる。

 つい先ほどまで笑っていた空気は完全に消え、誰もが息を殺した。


 レティシアは拳を握りしめそうになる指先を、どうにか抑え込む。

 ここで感情のままに睨み返せば、相手の思うつぼだ。


 だがアナスタシアは容赦しなかった。


「下の者と馴れ合うのは結構。けれど、アルヴェルの庭でそれを見せつけるのは品がありませんわね。身分の区別も忘れて、自ら名を下げるような真似をなさるなんて」


 その言葉は鋭いというより、冷たかった。

 切り裂く刃ではなく、静かに体温を奪う氷のように。


 マリーベルもまた、追い打ちをかけるように首を傾げる。


「まあ、でもお似合いかもしれませんわ。婚約もなくして、お声もなくして、今度は使用人の人気取りだなんて。ずいぶんお可哀想」


 侍女のひとりが、小さく息を呑む。

 クレアは唇を噛みしめ、やがて一歩前に出た。


「申し訳ございません……私どもが、出過ぎた真似を――」


 震える声だった。

 その背中が謝罪のためだけに折れようとするのを見て、レティシアの胸の奥に熱い痛みが走る。


 違う。

 謝るべきなのは、クレアではない。

 ここにいる誰でもない。


 けれど、その怒りを今この場でぶつければ、傷つくのはまた彼女たちだ。


 レティシアは一度だけ深く息を吸う。

 声は出ない。出せない。

 それでも唇を動かせば、エリスがいてくれる。


 ただし今は、言葉より先に守るべきものがあった。


 彼女は静かにクレアの肩へ手を添えた。

 それだけで、クレアの謝罪はそこで止まる。


 アナスタシアはその様子を見て、わずかに目を細めた。


「庇うの?」


 レティシアは答えない。

 代わりに、まっすぐ義母を見返す。


 かつてのように、怒りに任せて視線を鋭くするのではなく。

 茶会で学んだように。厨房で確かめたように。

 崩さず、引かず、けれどこちらの誇りだけは渡さない目で。


 その沈黙が、かえって場を満たした。


 マリーベルは面白くなさそうに唇を尖らせ、アナスタシアは最後に卓の上の焼き菓子へ視線を落とす。


「まあ、好きになさい。けれど、上に立つ者が自分の立場を忘れたとき、見苦しいのはいつだって周囲のほうよ」


 そう言い捨てて、二人は踵を返した。


 残されたのは、冷えきった空気と、誰もすぐには動けない沈黙だった。


 風が、卓の上の花を揺らす。


 さっきまで祝祭の準備のように見えていた中庭が、今はまるで夢から醒めたあとのように静かだった。

 侍女たちは俯き、誰も口を開けない。

 クレアもまた、自分が謝ろうとした姿勢のまま、固まっている。


 レティシアは唇を噛みしめた。


 悔しい。

 情けない。

 そして何より、また自分のせいで彼女たちが肩身の狭い思いをしたことが、たまらなく苦しかった。


《……ねえ、お嬢様》


 エリスの声が、いつになく低く響く。


《今の見た? あの人たちが腹を立ててるのは、身分の話なんかじゃないわ》


(分かってる)


 レティシアは目を伏せたまま答える。


(楽しそうにしていたのが、気に入らなかったのよ)


《そう。下の者が笑ってることも、あんたがその中心にいることも、全部まとめて面白くないの》


 エリスの言葉は容赦がなかった。

 だが、そのぶんだけ真実だった。


 レティシアはゆっくり顔を上げる。

 クレアの瞳はまだ揺れていた。ほかの侍女たちも、不安そうにこちらを見ている。


 ここで終わらせたら、今日まで積み重ねたものがまた怯えへ戻ってしまう。

 それだけは嫌だった。


 彼女は唇を動かす。

 すぐに、エリスがその決意を声へ変えた。


「……ごめんなさい」


 侍女たちが、はっと顔を上げる。


「でも、やめるつもりはないわ」


 静かな声だった。

 けれど、その一言は確かに中庭の空気を揺らした。


 レティシアはクレアの肩から手を離し、卓の上に並んだ菓子と花へ視線を向ける。


「わたくしは、皆と一緒に作ったものが恥ずかしいとは思わない」


 それは、今この瞬間の彼女の本心だった。


「だから、隠さない。むしろ、もっときちんと形にするわ」


 クレアが息を呑む。

 若い侍女たちの目にも、戸惑いの奥で小さな光が宿り始める。


《そうよ》


 エリスが背中を押すように囁いた。


《庶民の祝い菓子が下品だとか、使用人が目立つのが見苦しいとか、好き勝手言わせておけばいい。でもね、そのまま終わる必要はない》


 レティシアの背筋が、すっと伸びる。


「次は、庭遊びなんて言わせない」


 自分でも驚くほど、声――いや、エリスの代弁は澄んでいた。


「正式な場として整えるの。菓子も、卓も、所作も、すべて。誰が見ても文句をつけにくいほどに」


 それは反発だけではなかった。

 今日ここで笑っていた彼女たちを、ちゃんと守れる形へ変えるための宣言だった。


 クレアが恐る恐る口を開く。


「では……この練習を、続けてもよろしいのですか」


 レティシアは迷わず頷いた。


「ええ。続けましょう」


 そして、ほんの少しだけ微笑む。


「今度は、“見せてもいいもの”ではなく、“見せたいもの”にするの」


 その言葉に、侍女たちの表情が少しずつ戻ってくる。

 不安は消えていない。けれど、沈黙だけだった中庭に、もう一度気配が戻り始めていた。


 クレアがぐっと背筋を伸ばし、静かに頭を下げる。


「承知しました。でしたら、卓の配置を見直しましょう。先ほどより、もう少し流れが美しくなるはずです」


 その一言を合図にしたように、他の侍女たちも動き始めた。

 花瓶を持つ者。包み紙を整える者。盆を抱え直す者。

 まだぎこちないながらも、確かに足は止まっていない。


 レティシアはそれを見つめ、胸の奥に灯るものを確かめる。


 恐れはある。

 また邪魔されるかもしれない。

 今度はもっと露骨に潰しに来るかもしれない。


 それでも。


 このまま黙って引き下がるより、ずっといい。


 夕方が近づき、中庭へ差す光は少しずつ傾いていく。

 白布の上に並ぶ焼き菓子は、さっきまでよりもいっそう整って見えた。

 それはきっと、物の並びだけではない。ここにいる全員の気持ちが、もう一度前を向いたからだ。


《そうそう。やっと顔つきが戻ってきた》


(……ありがとう、エリス)


《感謝は、本当に形にできたあとでいいわ》


 それでも、声は少しだけやさしかった。


 レティシアは卓の端に置かれた花を一輪だけ整え、遠く空を見上げる。

 今日ここで踏みにじられた悔しさは、簡単には消えないだろう。

 けれどその悔しさは、もうただ傷つくだけのものではない。


 次の一手を考えるための火になりつつあった。


 やがて、この小さな中庭での試みは、ただの内輪の練習では終わらない。

 そうなる予感だけが、夕陽の色とともに静かに胸へ沈んでいく。


 レティシアはそっと息を吸い込んだ。


 声を奪われても、黙っているつもりはない。

 守りたいものができたのなら、なおさら。


 その決意を胸に、彼女はもう一度、侍女たちの輪の中へ戻っていった。


拙作をお読みいただき、本当にありがとうございます。

皆さまからの応援が、日々筆を取る力になっています。

もしお気に召しましたら、★評価などいただけましたら嬉しく、今後の創作の励みになります。

これからも少しでも楽しんでいただける物語を紡いでいければと思っております。

心より感謝をこめて──今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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