第4話
図書室でレオン・フィルニールと向き合った翌朝。レティシアは、薄い金色の光が差し込む寝台の上で静かに目を開けた。
柔らかな羽毛布団の温もりは心地よいはずなのに、胸の奥にはまだ昨夜の冷たさが残っている。
見透かされるような氷青の瞳。静かな口調。逃げ道を塞ぐようでいて、決して嘲らなかった声音。
(……完全に怪しまれていたわ)
指先が無意識に喉へ触れる。
そこには何の傷もない。けれど、声だけが戻らない。
《怪しまれてた、というより半分くらい見抜かれてたわね》
指輪の奥から、やけに明るい声が響いた。
(他人事みたいに言わないでちょうだい)
《他人事じゃないわよ。こっちだって、あの男の観察眼にはぞっとしたもの。でもね》
そこでエリスは、わずかに声の調子を変えた。
《厄介なのは、ただ鋭いことじゃない。悪意だけで動いてる男じゃなさそうなところよ》
レティシアはゆっくりとまばたきをする。
それは、自分も感じたことだった。
レオンの眼差しは冷たく研ぎ澄まされていた。けれど、断罪の夜に浴びせられたような愉悦も、社交界で向けられる粘ついた好奇心もなかった。
だからこそ、扱いづらい。
(……ええ。露骨に敵意を向けてくる相手なら、もっと分かりやすかったのに)
《でしょ? 筋が通ってそうで、頭も切れて、しかもこっちをよく見てる。ああいう人はね、下手に隠れようとすると余計に追ってくるのよ》
レティシアは寝台から身を起こし、窓辺へ目を向けた。
朝の光の中で、王都の屋根が遠くまで連なっている。
隠れていたい気持ちはある。
誰にも見つからず、静かに呪いを解く方法だけ探せたなら、どれだけ楽だろう。
けれどもう、それは叶わないのかもしれなかった。
婚約破棄の一件で、レティシア・フォン・アルヴェルという名は王宮中に広まった。
最近では茶会での振る舞いまで噂になり、好意と猜疑のどちらも向けられている。
(注目されるって……こんなにも息苦しいものなのね)
《そうね。でも、向けられた視線は消せなくても、向く先くらいは選ばせられる》
(向く先?)
《あんたが何者か分からないから、みんな勝手に噂を作るのよ。だったら、こちらから“見せたい姿”を先に置いてしまえばいい》
その言葉に、レティシアはゆっくりと振り返った。
見せたい姿。
そんなものを考えたことはなかった。これまではただ、公爵令嬢として隙なくあればよかったのだから。
《大げさなことをする必要はないわ。むしろ逆。身近なところで、ちゃんと効くことをやるの》
(……たとえば?)
《まずは屋敷の中。侍女たちよ》
レティシアはわずかに目を見開く。
《あの子たちの目と耳は、貴族の扇なんかよりよっぽど広いんだから。屋敷の空気が変われば、外へ出る噂の温度も変わる。しかも、レオンみたいな察しのいい男に対しても“今のあなた”の輪郭を先に見せられる》
理屈は分かった。
分かったが、胸の奥には小さな躊躇いもある。
(わたくし、上手くできるかしら)
《そこは練習したでしょう? 第一印象は大事。敵に回さず、踏み込ませすぎない。あんたがこの前学んだこと、今度はもっと近い相手に使うのよ》
レティシアは鏡台の前へ歩き、自分の顔を映した。
確かに、以前の自分より表情は柔らかくなっている。けれどまだ、どこか定まらない。
優しく見せたいわけではない。
媚びたいわけでもない。
ただ、必要のない怖がられ方をしたくないだけだ。
(……分かったわ。やってみる)
《よし。そのかわり、目立ち方は選ぶわよ》
朝食の席で、レティシアは侍女のクレアを呼んだ。
控えめな灰色の制服に身を包んだ彼女は、相変わらず背筋をきちんと伸ばし、無駄のない所作で一礼する。 派手さはないが、細やかで信頼のおける娘だ。以前からよく仕えていたはずなのに、こうして正面から顔を見るのは久しぶりな気がした。
レティシアが小さく唇を動かすと、エリスがその言葉を代わりに形にする。
「クレア。少し、お願いしたいことがあるの」
クレアは一瞬だけ目を丸くした。レティシアから頼みごとをされるとは思っていなかったのだろう。
「……はい。なんなりと、お申しつけくださいませ」
その声音には礼儀と緊張が同居していた。
レティシアはティーカップを静かに置き、言葉を選ぶ。
「あなたの故郷で、祝いの日によく作る菓子があると聞いたわ。蜂蜜を使った、小さな焼き菓子」
クレアの瞳がかすかに揺れる。
「それを、わたくしにも教えてほしいの」
沈黙が落ちた。
あまりにも予想外だったのだろう。クレアはすぐには返事ができなかった。
レティシアは内心で息を詰める。
無理もない。つい先日までの自分なら、侍女の故郷の菓子に興味を示すことなどなかったはずだ。
《落ち着いて。焦って畳みかけない》
エリスの囁きに従い、レティシアはただクレアを見つめた。
やがてクレアが、おそるおそる口を開く。
「……どうして、急にそのようなことを?」
当然の問いだった。
レティシアは少しだけ視線を和らげる。
「知りたくなったの。屋敷の外で、人がどんなものを好んで、どんなふうに日々を祝っているのか」
そこで一度言葉を切り、ほんのわずかに笑みを乗せる。
「それに、せっかくなら美味しいものを、皆で食べたいでしょう?」
エリスが丁寧に整えてくれた声音は柔らかい。
けれど、その言葉を望んだのはレティシア自身だった。
クレアはしばらく黙っていたが、やがて緊張の奥から小さな驚きの笑みをのぞかせた。
「……はい。もし本当にお望みでしたら、厨房に材料はございます」
その返事だけで、胸の奥が少しあたたかくなる。
昼前の厨房は、いつもより少し落ち着かない空気に包まれていた。
公爵令嬢が自ら足を運ぶことなど滅多にない場所だ。磨き込まれた作業台の向こうで、料理人たちも侍女たちも、何事かと視線を交わしている。
レティシアは扉の前で一度だけ呼吸を整えた。
ここで威圧してしまえば、すべてが台無しになる。
唇を動かす。
すぐにエリスが、彼女のための声を載せてくれた。
「今日は少しだけ、場所を借りたいの。仕事の邪魔はしないわ」
料理長が当惑しながらも頭を下げる。
「レティシア様が、厨房に……でございますか」
「ええ。クレアに教わりたいものがあるの」
自分の名を出され、クレアがびくりと肩を揺らした。
だがレティシアは、わざとその反応を追わなかった。恥をかかせたくなかったからだ。
作業台の上に並べられたのは、小麦粉、蜂蜜、刻んだ木の実、乾燥果実、それに香りづけの香草。
祝いの日に焼くというその菓子は、思っていたより素朴で、けれど材料の組み合わせがあたたかい。
《いいわね。派手じゃないけど、絵になる》
(絵になる、って……)
《人に見せる以上、大事なことでしょ。ほら、手元を丁寧に》
エリスの指示は相変わらず細かい。だが、そのおかげでレティシアも必要以上に緊張せずに済んだ。
クレアが生地のまとめ方を示し、レティシアがそれを真似る。
最初は指先に無駄な力が入り、形が崩れた。すると、近くで見ていた若い侍女が思わず小さく笑い、慌てて口元を押さえる。
以前なら、その一瞬で場は凍っていただろう。
けれど今のレティシアは、わずかに肩をすくめた。
「……あまり器用ではないの。見逃してちょうだい」
エリスの声に、侍女たちの間から今度は安心したような笑いが漏れる。
それは嘲りではなかった。
ただ、固くなっていた空気がほどけた音だった。
クレアもまた、少しためらってから口を開く。
「生地は、押し込むよりまとめるようにしたほうが綺麗に焼けます」
「こうかしら」
「はい。……そのほうが、ずっと」
教え、教わり、焼き上がりを待つ。
それだけの時間なのに、不思議なほど穏やかだった。
やがて厨房の空気が甘く香り始める。
蜂蜜が焼ける匂いに、木の実の香ばしさが混ざり、誰もが少しだけ頬をゆるめた。
焼き上がった菓子を見て、若い侍女のひとりが目を輝かせる。
「可愛い……」
丸く、小さく、表面に薄い艶を帯びた焼き菓子は、どこか愛らしかった。
レティシアはその様子を見て、そっと胸を撫で下ろす。
《ほらね。大成功の一歩手前って顔してる》
(まだ一歩手前なの?)
《当たり前でしょ。こういうのは、誰に光を当てるかが大事なの》
その言葉を受けて、レティシアはクレアへ向き直った。
「これは、あなたが教えてくれたから上手くいったのね」
クレアは驚いたように目を瞬く。
「い、いえ……私はそんな」
「皆にも配りましょう。これは今日のわたくしの菓子ではなく、クレアの故郷の祝い菓子なのだから」
その一言に、厨房の空気がさらにやわらかくなる。
レティシアが自分の手柄にしなかったことが、何より意外だったのだろう。
クレアはしばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
その声は震えていた。
けれど悲しみではなく、戸惑いと、少しの嬉しさで。
午後。焼き菓子は屋敷の侍女や使用人たちに配られ、小さな評判になった。
公爵令嬢が厨房に立った。
侍女の故郷の菓子を教わった。
しかも、それを自分の手柄にせず、皆で分けた。
大きな出来事ではない。
けれど、こういう話こそ人の記憶に残るのだと、レティシアはその日のうちに知ることになる。
中庭で一息ついていた彼女のもとへ、焼き菓子を口にした若い侍女たちが遠慮がちに近づいてきた。
「とても、美味しかったです」
「クレアのあんな顔、初めて見ました」
「……嬉しそうでした」
言葉をかけられるたび、レティシアの胸は少しずつあたたかくなる。
向けられるのが恐れではなく、戸惑い混じりの好意であることが、まだ信じきれなかった。
そのとき、クレアが盆を抱えて歩み寄ってきた。
盆の上には、包み紙にくるまれた焼き菓子がいくつか乗っている。
「レティシア様。余った分を、王宮の詰所と……魔術塔にも届けることになりました」
その一言に、レティシアの指先がぴくりと揺れた。
魔術塔。
そこには当然、レオンもいる。
《ふふ。思ったより早く、次の一手が転がってきたわね》
(べつに、あの人のためじゃないわ)
《分かってるわよ。向こうが勝手に受け取るだけ》
そう。これは誰かひとりのためではない。
屋敷の外へ出る菓子のひとつにすぎない。
なのに、なぜだか落ち着かない。
レティシアはクレアの盆へ視線を落とし、少しだけ考えたあとで唇を動かす。
「……では、魔術塔へ届ける分には、少しだけ上等な包み紙を使ってちょうだい。あそこは夜遅くまで働く方が多いのでしょう?」
クレアは一瞬きょとんとしたが、すぐに頷いた。
「かしこまりました」
《おやおや》
(違うわ。礼儀よ)
《はいはい。礼儀ね》
エリスの含み笑いに、レティシアはわずかに眉を寄せた。
けれど否定を重ねるのも不自然で、結局それ以上は何も言えなかった。
夕刻。
魔術塔の執務室では、レオンが書類の束から顔を上げた。
扉の外で、若い塔仕えが遠慮がちに声をかける。
「フィルニール様。アルヴェル邸から、差し入れが届いております」
レオンは眉を動かした。
「……アルヴェル邸から?」
「はい。本日、屋敷で焼かれた祝い菓子だそうです。厨房の者だけでなく、魔術塔にも、とのことで」
差し出された包みは、たしかに簡素すぎず、かといって大げさでもない上品なものだった。
受け取って封を開けば、蜂蜜と木の実のやわらかな香りがふわりと立ちのぼる。
レオンはしばらくその包みを見つめていた。
公爵令嬢レティシア・フォン・アルヴェル。
声を失い、婚約を破棄され、なお今は王宮の視線の只中にいる女性。
その彼女が、侍女の故郷の菓子を教わり、こうして塔へまで配ったというのなら――
「……なるほど」
何に対しての呟きなのか、自分でも分からないまま、レオンはひとつ菓子を手に取った。
甘さは控えめで、香りは静かで、けれど不思議と後を引く味だった。
人を驚かせるための派手さはない。
だが、確かに記憶には残る。
彼は窓の外へ視線を向けた。
夕焼けに染まり始めた王都の先に、公爵家の屋敷がある。
見せたい姿を、自分で選び始めたのか。
それとも、誰かが彼女にそうさせているのか。
どちらにせよ、あの令嬢は思っていたよりずっと厄介で、そして目が離しにくい。
甘い香りの残る指先を見下ろし、レオンは静かに息を吐いた。
その夜、レティシアは自室の窓辺に立ち、王都の灯を遠く見つめていた。
たった一日のことなのに、胸の内には不思議な疲労と、ほんの少しの達成感がある。
怖くなかったわけではない。厨房へ向かう足も、最初の一言を告げる瞬間も、ずっと怖かった。
けれど、踏み出してみれば、変わるものがあるのだと知った。
(……こういう積み重ねなのね)
《そうよ。派手な逆転なんて、だいたい小さな印象の積み重ねの先にあるんだから》
レティシアは小さく笑うように目を伏せた。
(でも、レオン・フィルニールには通じるかしら)
《あの男には、別に好かれなくていいの。警戒されすぎず、敵視されすぎず、それで十分》
(ええ。……そうね)
それで十分なはずだった。
なのに、魔術塔へ届けられた包みを、彼がどんな顔で受け取ったのかが少しだけ気になる自分がいる。
その気持ちを深追いしないまま、レティシアは指輪にそっと触れた。
まだ、呪いは解けていない。
まだ、秘密も危うさも消えていない。
それでも今日、自分で選んだ振る舞いが、誰かの表情をやわらげた。
それは確かな一歩だった。
窓の外では、夜の帳が静かに王都へ降りていく。
その下で、声を失った令嬢の小さな反撃は、まだ始まったばかりだった。




