第3話
深夜の王都にそびえる魔術塔は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
高窓の向こうには、満ちた月。
青白い光が石造りの回廊を細く照らし、夜更けの冷気とともに塔の奥へ満ちている。
最上階に近い魔術観測室では、ひとりの青年が机上に広げた記録紙へ視線を落としていた。
レオン・フィルニール。
王宮魔術塔に籍を置く顧問魔術師の中でも、最年少でその座についた天才。
灰銀の髪、淡い氷青の瞳、隙のない横顔。整いすぎた容貌は人の目を引くのに、その美しさを賞賛とともに語る者は少ない。
彼が人を寄せつけないのは、無口だからでも、高位の魔術師だからでもない。
その瞳が、あまりにも静かに、あまりにも正確に、人の奥を見抜いてしまうからだ。
「……おかしい」
レオンは低く呟き、水晶球の中で揺れる淡い魔力光へ手をかざした。
そこに映し出されているのは、数刻前に記録された魔力の残響。
術者の癖、詠唱の強弱、魔力の立ち上がり。魔術は必ず痕跡を残す。どれほど巧妙に隠しても、整えられた理の上で発動する以上、完全に消えることはない。
だが今、彼の前にある記録は、その理からわずかに外れていた。
ひとつの術式が発動した痕跡の中に、別の波長が重なっている。
主旋律に寄り添うようでいて、決して同じではないもうひとつの揺らぎ。
まるで、ひとつの身体から、二人分の声が響いたかのような――ありえない痕跡だった。
「詠唱記録はない。にもかかわらず、魔力の立ち上がりだけが存在する……」
レオンは記録紙を指先でなぞる。
魔力の質は繊細で、訓練を積んだ貴族令嬢のそれに近い。けれど、その上から重なるもうひとつの波長は異質だった。軽やかで、鋭く、型に嵌まらない。それでいて不快な乱れではなく、奇妙なほど鮮やかに主の魔力へ寄り添っている。
「寄生ではない。侵食でもない……共鳴、か」
そこでようやく、記録に添えられた対象者の名に目を止める。
レティシア・フォン・アルヴェル。
その名を見た瞬間、レオンの目がわずかに細められた。
婚約破棄の一件は、王宮勤めの者なら誰もが知っている。社交界の華と呼ばれた公爵令嬢が、ある夜を境に声を失い、婚約者だった王太子から人前で切り捨てられた。
その後の変化も、噂になっていた。
以前は近寄りがたいと評された彼女が、最近はまるで別人のように柔らかく振る舞い始めた、と。
「人が変わった、では説明できないな」
レオンは水晶球から手を離した。
机上の光が揺れ、彼の長い睫毛の影が頬へ落ちる。
職務として看過できない異常だ。
それは事実だった。
だが、それだけではない。
王宮では皆、噂ばかりを追う。
彼女が失ったものの重さも、追い詰められた理由も知らないまま、面白半分に語るだけだ。
けれどこの記録だけは、噂ではない。
誰かが彼女に何かをした、その痕跡かもしれなかった。
レオンは静かに立ち上がる。
「……調べるべきだな」
誰に言うでもなく落ちた声は、夜の観測室に淡く溶けた。
それが純粋な探究心によるものなのか。
それとも、誰かが意図的に仕掛けた異常な術式の気配に、職務以上の危うさを感じ取ったからなのか。
いずれにせよ、看過する理由はなかった。
次の日。午後の魔導図書室は、王宮の中でも別世界のような静けさに包まれていた。
高窓から差し込む陽光はやわらかく、古い書架の背表紙を金色に染めている。
紙と革と、長い時間そのものが積み重なったような匂い。ひとつ頁をめくる音さえ、ここではやけに鮮やかに聞こえた。
その静謐の中を、レティシアは一人、奥まった書架の前まで歩いていた。
先日の茶会から数日。
表向きの評判は、ほんのわずかに好転し始めている。
けれど、根本は何ひとつ解決していなかった。
声を失ったままでは、自力で魔法を扱えない。
エリスの助けがあるとはいえ、それに頼りきりではいられない。
それに――このまま誰かに身体の異常を見抜かれれば、次は何を奪われるか分からなかった。
(……手がかりが欲しいわ)
彼女が探しているのは、“発声魔術の歴史”と題された古い文献だった。
詠唱と魔力の結びつき、沈黙の呪い、声を媒介とする古い術式。
いずれも現代では実用から外れた分野だが、だからこそ今の自分に必要かもしれない。
《真面目ねえ、お嬢様》
指輪の奥から、いつもの声が響く。
(真面目にもなるわ。あなたに任せきりでは危ういもの)
《ひどい。こんなに献身的な相棒なのに》
(献身的なのは認めるけれど、静かではないのよ)
心の中でそう返しながら、レティシアは上段の書棚へ手を伸ばした。
目当ての背表紙は、あとほんの少しで届く位置にある。
そのときだった。
「……失礼」
低く、よく通る男の声がすぐ傍で響いた。
同時に、別の手が同じ本へ伸びてくる。
白く長い指先が、レティシアの指にかすかに触れた。
息が止まりそうになるほど、ほんの一瞬の接触だった。
それなのに、妙に熱が残る。
レティシアははっとして振り向いた。
そこに立っていたのは、灰銀の髪を持つ青年だった。
氷を思わせる淡い青の瞳。整いすぎた顔立ち。静かなのに、目を逸らせなくなるような気配。
社交の場で遠目に見かけたことはある。
王宮魔術塔の若き顧問魔術師――レオン・フィルニール。
(どうして、こんなところに……)
《うわ。来たわね、“察しが良すぎて危険”って顔した男》
エリスの囁きに内心で眉を寄せながらも、レティシアはすぐに姿勢を正した。
驚いたまま固まっていては、かえって不自然だ。
だがレオンは、彼女の動揺を責めるでもなく、届かなかった本を無言で取り、そっと差し出してきた。
「この書でよろしいですか」
冷たい声音だった。
けれど所作は思っていたより丁寧で、突き放すような棘はない。
レティシアは一礼し、本を受け取る。
「……ありがとうございます」
エリスの声を借りて紡がれたその言葉に、レオンの視線がわずかに揺れた。
「やはり」
小さな呟きに、レティシアの心臓が跳ねる。
レオンは本の表紙へ一度だけ目を落とし、それから彼女を見た。
「発声魔術の歴史。いまの貴族令嬢が興味を示すには、ずいぶん珍しい書物です」
探るような言い方ではない。
事実をそのまま示しただけの口調だった。だからこそ、逃げ道がない。
レティシアは本を抱く指先に力を込めた。
わずかに唇を動かすと、彼女の代わりにエリスの声が静かに形になる。
「……少し、個人的に気になることがありまして」
「声に関することですか」
返答が速すぎた。
思わず息を呑む。
レオンの瞳は相変わらず静かだったが、その静けさの奥に確かな確信が見えた。
「茶会の場で、あなたの周囲に不自然な魔力の揺らぎがありました」
胸の奥がひやりと冷える。
《やばい。予想よりずっと鋭い》
エリスの声に、レティシアも同意するしかなかった。
レオンは一歩、距離を詰める。
威圧するためではない。ただ声を落とせば足りる距離まで、静かに。
「声を失ったはずの令嬢が、別の形で言葉を紡いでいる。そう見えました」
見透かされている。
そう感じた瞬間、逃げ出したいような恐怖が背筋を駆け抜けた。
けれど同時に、レティシアは奇妙な違和感も覚えていた。
この男の視線には、好奇心はあっても嘲りがない。断罪の夜に向けられたような残酷な愉悦も、茶会で浴びた品定めの色もない。
ただ、真実を確かめようとする冷静さだけがある。
(……油断はできない。でも、少なくとも悪意だけで近づいてきたわけではなさそうね)
逃げるように視線を逸らしかけ、それでもレティシアは踏みとどまった。
唇がかすかに動き、エリスの声がその迷いを代わりに言葉へ変える。
「……もし、わたくしがそうだとしたら?」
けれどレオンは表情を変えなかった。
「誰にそれを施されたのかを調べます」
あまりにも迷いのない答えだった。
レティシアは瞬きを忘れる。
「異常な術式なら、見過ごせません。まして本人の意思に反しているならなおさらです」
それは義憤というより、彼の中にある規範だった。
誰に媚びるでもなく、声高に正しさを掲げるでもなく、当然のこととして差し出される言葉。
そんなふうに扱われたのは、いつ以来だろう。
哀れまれるのでも、面白がられるのでもなく、一人の被害者として、きちんと。
警戒しなければならない相手だ、とレティシアは自分に言い聞かせた。
相手が穏やかに見えるからこそ、なおさら気を許してはいけない。
それでも、先日の茶会で学んだことがある。第一印象は大事で、無用に敵を作る必要はないということだ。
その教えを思い出しながら、レティシアは唇を開く。響いたのは、彼女の代わりにエリスが紡いだ声音だった。
「……あなたは、ずいぶんと不躾なのですね。レオン様」
とっさに返したのは、半分だけ本音で、半分は自分を守るための言葉だった。
レオンはわずかに目を細める。
「ええ。そうかもしれません」
否定しないのか、とレティシアは拍子抜けした。
「ですが、見過ごすほうが失礼だと思いました」
静かな声音のまま告げられたその一言に、レティシアはわずかに目を伏せた。
見過ごさない。
それは救いになる言葉でもあり、同時に厄介な言葉でもある。秘密を抱えた今の自分にとって、よく見てくる相手はそれだけで脅威だった。
レティシアが言葉を失っていると、レオンは彼女の抱えた本へ視線を戻した。
「その書は導入としては悪くありません。ただ、記述が古く、伝承と実証が混ざっています」
思わず身を乗り出したレティシアの問いも、エリスの声を通して静かに落ちた。
「……では、何を読めば」
問いを返してから、レティシアは内心で小さく息をついた。
相手のペースに乗せられている気もする。けれど、ここで露骨に身を引けば不自然だ。
けれどレオンはそれを指摘せず、ひとつ奥の書架へ目を向けた。
「沈黙の術式だけを辿るなら、三列目の下段にある“言霊封鎖術考”のほうが早いでしょう。閲覧権限が必要ですが、私が同行すれば借りられます」
《……何この人、便利すぎない?》
エリスが呆れ半分で呟く。
レティシアも同じ気持ちだった。
そして同時に、警戒心も増していた。
こんなにも手際よく距離を詰めてくる相手を、信用していいはずがない。
レオンが本の位置を示すために少しだけ身を屈めたとき、灰銀の髪がさらりと揺れた。所作は洗練されていて、言葉にも無駄がない。
感じの悪い人ではなさそうだ、とレティシアは思う。
けれど同時に、こういう相手ほど油断してはいけないとも。
何より、その人が自分を笑わない。
だからこそ余計に、どう接するべきか分からなくなる。
「どうされました」
見つめすぎていたらしい。
低い問いに我に返り、レティシアは慌てて視線を逸らした。
レティシアは一度だけまばたきをし、かすかに首を振る。続いて落ちた返答は、やはりエリスが代わりに届けた声だった。
「……なんでもありません」
レオンは追及しなかった。
ただ、ほんのわずかに口元の気配を和らげる。
微笑みというにはあまりにも小さい、けれど確かに冷たさだけではない表情だった。
「でしたら、また」
それだけを残し、彼は一歩退いた。
書を持ち去ることもなく、秘密を暴くと脅すこともなく、必要なことだけを告げて去っていく。
レティシアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
《ねえ、お嬢様》
指輪の奥で、エリスが呆れたように声を落とす。
《あの男、感じは悪くないけど、かなり危ないわよ。頭が切れるし、観察眼もある。下手に仲良くしようとしなくていいからね》
(……ええ。分かってる)
レティシアは抱えた本に視線を落とす。
確かに、レオン・フィルニールは思っていたほど冷酷な人物には見えなかった。むしろ、筋の通った人間に思える。
けれど、それと油断していいかどうかは別の話だ。
(ただ、必要以上に敵に回すのも違うわ。先日の茶会で学んだもの。第一印象は大事。礼を尽くして、でも踏み込ませすぎない。それでいい)
《そうそう。それよ。にこやかに、でも内側までは渡さない。そういう相手だと思っておきなさい》
レティシアは小さく息をついた。
怖いのは、見抜かれることだ。
また誰かに弱みを握られることだ。
だからこそ、相手が善人に見えるかどうかで判断してはならない。
そのことだけは忘れまいと、彼女は胸の内で静かに言い聞かせた。
抱えた古書の重みが、ようやく現実へ引き戻してくれた。
呪いを解く方法は、まだ見つかっていない。
エリスの正体も、この指輪の仕組みも、何ひとつ明らかではない。
それに加えて、厄介な魔術師に目をつけられた。
感じの悪い相手ではない。むしろ話は通じそうだ。
だからこそ難しい、とレティシアは思う。
敵に回さず、かといって近づかせすぎもしない。
微笑みを忘れず、秘密は明かさない。
茶会で得た小さな学びは、こんなところでも試されるらしい。
《ま、要するに気をつけなさいってことよ》
エリスの一言に、レティシアは内心で頷く。
(ええ。良い人そうだからって、油断はしないわ)
そう言い聞かせながらも、灰銀の瞳の鋭さは、妙に印象へ残っていた。
あれはきっと、これから先も簡単には振り切れない。
静まり返った図書室で、レティシアはそっと古書を抱き直す。
呪いを解くための道も、王宮で生き残るための立ち回りも、まだ始まったばかりだった。




