表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第2話


 翌朝。

 アルヴェル邸の廊下には、いつも通り静かな朝の気配が満ちていた。


 磨き上げられた床。差し込む朝日。遠くでかすかに聞こえる使用人たちの足音。

 何もかもが昨日までと同じに見えるのに、レティシアの世界だけがまるで別物になってしまったようだった。


 鏡台の前に立った彼女は、そっと自分の喉に触れる。

 声は、戻らない。

 指にはめられた黒い宝石の指輪だけが、昨夜の出来事が悪い夢ではなかったと告げていた。


(……やると決めたのよ、わたくし)


 胸の奥には、まだ痛みが残っている。

 けれど、あの夜ただ泣いて終わらなかった自分を、今だけは裏切りたくなかった。


《よし。じゃあ、這い上がり計画その一。まずは“感じの悪くない第一印象”を身につけましょう》


 朝からやけに元気な声が、指輪の奥から響く。


(その言い方、どうにかならないの……)


《どうにもならないわ。だって重要なんだもの。印象って、最初のシーンでかなり決まるのよ》


 レティシアは小さく息をつき、鏡の中の自分と向き合った。


《いい? 侍女を見たら、まずは笑う。ほんの少しでいいから、口元をやわらかく。で、“おはよう”》


(……簡単に言うけれど)


《簡単じゃないから練習するの。ほら、やる》


 レティシアが唇を動かすと、それに合わせてエリスの声が外へ流れた。


「お、おはよう……」


《硬い! 怖い! 朝の挨拶なのに、これから拷問でも始まりそう!》


(今のはあなたの声でしょう!?)


《声だけじゃ駄目なのよ。表情、目線、空気。喋るって総合芸術なんだから》


 意味が分かるような分からないような理屈だったが、不思議と説得力はあった。

 レティシアはもう一度、鏡の中の自分を見る。


 強張った口元。

 無意識のうちに上がる顎。

 相手を拒絶するような冷たい目。


 昨日まで、それが自分を守るための鎧だった。

 だが今は、その鎧こそが自分を孤独にしていたのだと分かってしまう。


(……もう一度)


「おはようございます」


《うん、今のは悪くない。少し違和感があるけど、棘が減ったわ》


 何度か繰り返すうちに、ぎこちなさの中にも少しずつ変化が生まれた。

 言葉に乗る温度が変わるだけで、鏡の中の自分が別人のように見えてくる。


 やがて部屋へ入ってきた侍女の姿に気づき、レティシアは息を整えた。


「おはようございます」


 自分から向けた挨拶に、侍女は目を丸くする。


「レ、レティシア様!? お、おはようございます……??」


 その返事には戸惑いが滲んでいたが、露骨な怯えはなかった。

 レティシアは胸の奥がかすかに揺れるのを感じる。


(……今の、普段と少しだけ反応が違ったわ)


《でしょ? ほら、たった一言でも、相手の反応って変わるのよ》


(……だからって、人の心を簡単みたいに言うのは好きじゃないわ)


 それでもレティシアはくすり、と胸の内でだけ笑いがこぼれた。  昨日の夜には考えられなかったことだった。


 午前の練習が一段落したころ、エリスが唐突に言った。


《次は実戦ね》


(……嫌な予感しかしないのだけれど)


《お茶会よ》


 ぴたり、とレティシアの動きが止まる。


 お茶会。

 それは、今の彼女にとって最も気の重い言葉のひとつだった。

 昨夜の断罪劇は、すでに社交界の隅々まで広がっているだろう。声を失い、婚約を破棄され、家にも見放された女。そんな自分が茶会に現れれば、好奇の目で眺められるに決まっている。


(無理よ……)


《無理じゃない。むしろ今だから行くの》


(笑われるわ)


《笑わせておけばいいじゃない》


 あまりにも軽く言われて、レティシアは眉を寄せた。


《いい? 今のあなたには、黙って評判が落ち着くのを待つ時間なんてないの。相手が好き勝手に物語を作る前に、自分で“今のあなた”を見せるのよ》


 それは昨夜、彼女が言ったことと同じだった。

 奪われた声を取り戻せないなら、別の形で世界をひっくり返せばいい、と。


《狙うのは上位の取り巻きじゃない。まだ色がつききっていない子たち。格下とか弱いとかじゃなくて、“自分の目で判断する余地が残ってる相手”》


 その言い方に、レティシアは少しだけ目を見開いた。

 思っていたより、エリスはずっと人をよく見ている。


(……あなた、本当にそういうのが得意なのね)


《生き残るために覚えたのよ》


 軽い口調だったのに、その一言だけは妙に重く聞こえた。

 レティシアはそれ以上追及せず、ゆっくりと頷いた。


(分かったわ。行く)


《よし。それでこそ、私の見込んだお嬢様》


 当日。

 レティシアは鏡の前で装いを整えていた。


 選んだのは、いつもの深紅ではなく、灰みを含んだモーヴグレーのドレス。華美な宝石は外し、髪も落ち着いた形にまとめる。目を引くためではなく、拒まれないための装いだった。


(こんなふうに自分を整える日が来るなんて、思わなかったわ)


《いいのよ。戦略的おしとやか、最高じゃない》


(褒めているのかしら、それ)


《もちろん。今日は“しおらしく見えて、ちゃんと印象を残す”が目標だから》


 胸の奥はまだ落ち着かなかった。

 それでも扉の前に立ったとき、レティシアは昨日よりも少しだけましな顔で前を向けていた。


 通された先の応接間には、柔らかな紅茶の香りと、色とりどりのドレスが満ちていた。

 白いクロス、繊細な焼き菓子、磨かれたティーセット。

 見た目は優雅そのものだ。けれど、彼女が足を踏み入れた瞬間、その場の空気がひやりと変わったのが分かった。


 視線が集まる。

 好奇。警戒。侮り。戸惑い。


《大丈夫。睨まない。顎を上げすぎない。堂々と、でも喧嘩腰は駄目》


(注文が多いのよ……)


 けれど、そのおかげでどうにか表情を崩さずにいられた。


 一人の伯爵令嬢が、扇を閉じてこちらを見る。

 涼やかな目元に、試すような色が浮かんでいた。


「まあ、レティシア様。思っていたよりお元気そうですのね」


 あからさまな皮肉ではない。けれど、優しさでもなかった。

 周囲の令嬢たちが息を潜める。


(……来たわね)


 喉の奥がきゅっと縮む。

 だが、逃げたくないとレティシアは思った。


 彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろし、ほんの少しだけ口元を和らげる。


「おかげさまで。少々厄介な呪いは受けましたけれど、思ったよりしぶとかったようですわ、わたくし」


 一拍の間。

 それから、くすりと誰かが笑った。


 張りつめていた空気が、ほんの少し緩む。


(ちょっと!? 今のはなんの冗談よ。そんなことわたくしは言わな――)


《掴みとしてはまぁまぁね。よし、この調子でいくわよ》


 口パクしろというのでエリスの指示に従ったが、飛び出してきたのは普段とはかけ離れた言葉遣い。それもレティシアそっくりの声真似で言うものだから、当然怒りもわく……が、エリスはまったく気にした様子もない。むしろエンジンがかかってきたとばかりに、ノリノリである。


 別の令嬢が、おそるおそる言葉を継いだ。


「本当に……呪われたのですか?」


 その問いには悪意よりも純粋な興味が強く滲んでいた。

 レティシアは紅茶の表面に映る自分を見つめ、それから小さく肩を竦める。


「ええ。とても面倒な呪いですの。治すには、どうやらずいぶんおしゃべりな精霊の助けが必要みたいで」


 今度は、さっきよりはっきりと笑いが広がった。


 誰かが「それは大変」と肩を揺らし、別の誰かが「少し見てみたいですわ、その精霊」と微笑む。

 からかわれているわけではない。場を壊さず、自分から少しだけ笑いものになることで、相手が安心してくれたのだとレティシアは気づいた。


(……こんなやり方があるのね)


《あるのよ。馬鹿みたいに真正面から殴り合うだけが会話じゃないの》


 その後は、驚くほど穏やかだった。

 好きな茶葉の話。最近流行している髪飾りの話。市場で評判の菓子の話。

 どれも小さな話題だったけれど、レティシアにとっては新鮮だった。


 今までの彼女なら、こういう場で“勝つ言葉”ばかりを探していた。

 けれど今日は違う。ただ会話を続けること、その場にいる相手を不快にさせないこと、それだけを意識していた。


 それが、こんなにも心を軽くするなんて思わなかった。


 茶会の終わり、令嬢たちは立ち上がり、形式通りの挨拶を交わしていく。

 その中で、一人の少女が扉のそばでふと振り返った。


 男爵家の令嬢だった。控えめで、茶会のあいだもあまり大きな声を出さなかった娘だ。


「……今日のレティシア様、少し素敵でしたわ」


 それだけ言って、彼女は頬を染めるように微笑み、去っていく。


 レティシアはしばらくその場に立ち尽くした。


(……今の、皮肉ではなかったわよね)


《ええ。ちゃんと、あんたに向けた言葉だった》


 胸の奥に、じんわりと熱が広がる。

 昨夜、全部を奪われたと思っていたのに。

 たった一言で、こんなにも救われることがあるのだと知ってしまった。


 その夜。

 寝台に腰掛けたレティシアは、月明かりの差し込む部屋でそっと指輪を撫でた。


(……エリス)


《なあに、お嬢様》


(今日は、ありがとう)


 ほんの短い沈黙のあと、指輪の奥で笑う気配がした。


《どういたしまして。……でも、今日うまくいったのは、あんたが逃げなかったからよ》


 レティシアは目を伏せる。

 逃げたかった。何度も帰りたかった。胸の奥ではずっと怖かった。

 それでもあの場に座り、笑われることを恐れながら言葉を返したのは、自分だった。


(少しだけ……自信がついた気がするの)


《いい傾向ね》


 エリスの声が、いつもより少しやわらかかった。


《でも、まだ始まったばかりよ。次はもっと難しい相手とも渡り合えるようにならないと》


(やっぱり来るのね、そういう流れ)


《当然でしょう? せっかく最初の一歩が踏み出せたんだもの。ここからよ、這い上がるのは》


 レティシアは呆れたようにため息をつき、けれど最後には口元を緩めた。


 昨日までの自分なら、こんなふうに夜を終えられなかっただろう。

 傷ついたまま、冷えきったまま、ただひとりで膝を抱えていたはずだ。


 けれど今は違う。

 指輪の中にはやかましいほど前向きな“声”がいて、胸の奥には消えかけていた小さな火が残っている。


 それだけで、世界はほんの少し違って見えた。


《じゃあ明日からは、“微笑み方”の特訓ね》


(まだやるの……?)


《当たり前でしょ。這い上がる悪役令嬢に、魅力的な微笑みは必須なの》


 レティシアはとうとう声もなく笑った。


 月光の下、黒い宝石がかすかに光る。

 こうして、声を失った令嬢と喋りすぎる指輪の奇妙な共同戦線は、次の一歩へ進み始めたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ