エピローグ 衣川 風の終わる場所
【エピローグ:衣川 ― 風の終わる場所】
夏の終わり、衣川の館には静かな風が吹いていた。
蝉の声が遠くで響き、空はどこまでも高かった。
義経は縁側に座り、ぼんやりと空を見上げていた。
その横顔には、かつての軽さと、そこに寄り添う深い影があった。
弁慶が静かに近づく。
「殿……お疲れでは」
義経は小さく笑った。
「疲れてるよ。
でも……風が、まだ止まってないから」
弁慶は胸が締めつけられた。
(殿……その影を、どれほど抱えてこられたのか)
義経は空を見つめたまま言った。
「静、どうしてるかな」
弁慶は答えられなかった。
静御前が鎌倉でどんな扱いを受けているか――
殿に伝えることはできなかった。
義経は続けた。
「俺さ……ずっと思ってたんだ。
英雄なんて、向いてないって」
弁慶は静かに言った。
「殿。
英雄とは、殿が選んだ道ではございません。
“世”が殿をそう呼んだだけにございます」
義経は苦笑した。
「世って、ほんとめんどくさいね」
弁慶も微笑んだ。
「ええ。
ですが――殿には、私がついております」
その言葉は、五条大橋から続く二人の絆そのものだった。
――そのとき。
館の外から、兵の叫び声が響いた。
「敵襲ーーーッ!!
鎌倉方の軍勢、迫る!!」
義経は立ち上がった。
「来たか……」
弁慶は槍を手に取り、義経の前に立つ。
「殿。
ここは、我らが食い止めます」
義経は首を振った。
「弁慶。
もう……俺だけ逃げるのは嫌だよ」
弁慶は振り返り、静かに言った。
「殿。
逃げるのではございません。
“生きる”のでございます」
義経は目を伏せた。
その影は、もはや隠しようがなかった。
弁慶は続けた。
「殿が生きてくだされば……
静殿も、我らも、報われます」
義経は小さく息を吸った。
「……弁慶。
俺、生きたいよ。
静に……もう一度会いたい」
弁慶は深く頷いた。
「殿。そのお気持ち、必ず風が運びます」
外では、鎌倉方の軍勢が迫っていた。
弁慶は槍を構え、門の前に立った。
その背中は、五条大橋の夜と同じ――
いや、それ以上に大きく、重かった。
義経は弁慶の背中を見つめ、ぽつりと言った。
「……弁慶。
ありがとう」
弁慶は振り返らずに答えた。
「殿。
私は、殿の家臣でございます」
その声は、風に乗って義経の胸に届いた。
――そして。
弁慶は門の前で立ち続けた。
矢が降り注ぎ、槍が突き刺さり、血が流れても――
弁慶は倒れなかった。
“弁慶の立往生”。
それは、忠義の形であり、
殿を守るために生まれた奇跡だった。
義経は館の奥で、静かに目を閉じた。
風が吹いた。
弱く、細く、優しい風だった。
義経は空に向かって呟いた。
「……静。
俺、行くよ。
風の向こうで、また会おう」
その声は、風に乗ってどこまでも広がっていった。
こうして――
義経と弁慶の物語は終わった。
軽さと重さ。
奇跡と誤解。
英雄と影。
そして、風。
すべてが衣川でひとつになり、
静かに、永遠へと溶けていった。




