第5話 逃避行 吉野の白い風
春の吉野は、山一面が桜に覆われていた。
だが、その美しさとは裏腹に、義経一行の胸には重い影が落ちていた。
静御前が捕らえられた――
その知らせが届いた日から、義経はほとんど眠っていなかった。
吉野の山道を進みながら、義経は何度も空を見上げた。
風は弱く、どこか頼りなかった。
弁慶が後ろから声をかける。
「殿……お休みくだされ。これ以上は――」
義経は首を振った。
「……風が、まだ教えてくれないんだよ」
弁慶は胸が痛んだ。
(殿……静殿のことを、これほどまでに……)
そのとき、山の向こうから追手の声が響いた。
「義経を逃がすなーーーッ!!」
兵たちがざわめく。
「殿、追手が迫っております!」
「このままでは――」
義経は馬を止め、深く息を吸った。
「……弁慶。
俺、どうすればいい?」
その声は、これまでで一番弱かった。
弁慶は一歩前に出た。
「殿。
ここは、我らが食い止めます。
殿は先へ」
義経は首を振った。
「嫌だ。
俺だけ逃げても……静が……」
弁慶は義経の肩を掴んだ。
「殿。
静殿は強いお方にございます。
殿が生きておられねば、静殿も報われませぬ」
義経は唇を噛んだ。
「……俺、強くないよ」
弁慶は静かに言った。
「強いかどうかではございません。
殿は“前に進む”お方です。
それが、殿の強さにございます」
義経は目を伏せた。
その影は、これまでで最も深かった。
追手の足音が近づく。
弁慶が叫ぶ。
「殿、行け!!
ここは我らが守る!!」
義経は馬を走らせた。
だが、走りながら何度も振り返った。
「……静……」
その名を呼ぶ声は、風に溶けて消えた。
――その頃。
静御前は、鎌倉へ向かう道中にいた。
両脇を武士に囲まれ、白い衣が風に揺れる。
武士のひとりが言った。
「静殿。逃げようと思えば逃げられたはず。
なぜ従われたのです」
静は前を向いたまま答えた。
「風が……止まっていましたから」
武士は理解できずに首をかしげた。
静は心の中で呟いた。
(義経様……どうか、生きて)
その祈りは、春の風に乗って吉野へ向かった。
――吉野。
義経は山道の途中で馬を止めた。
風が、ようやく吹いた。
弱く、細く、震えるような風だった。
義経は空を見上げ、ぽつりと言った。
「……静。
俺、生きるよ。
生きて……迎えに行く」
弁慶が追いつき、静かに頭を下げた。
「殿。
そのお言葉、必ず静殿に届きましょう」
義経は小さく頷いた。
こうして――
義経は吉野へ逃れ、静御前は鎌倉へ連れ去られた。
二人の距離は、
風ひとつで繋がるほど近く、
山ひとつ越えられないほど遠かった。
英雄の影は、
ここからさらに深く、濃くなっていく。




