第3話 屋島 見栄が呼んだ奇跡
夕暮れの海に、朱が落ちていた。
屋島の沖には平家の船団が浮かび、波間に揺れる旗が夕陽を反射している。
源氏軍は海岸に陣を敷き、緊張が張り詰めていた。
義経は、海を眺めながらぼんやりと立っていた。
弁慶が後ろから声をかける。
「殿。平家は海戦に長けております。慎重に――」
義経は弁慶の言葉を遮るように、
「静、どうしてるかな」
と呟いた。
弁慶は眉をひそめる。
「殿、今は戦の最中でございます」
「わかってるよ。でも……なんか、風が違うんだよね。今日」
弁慶は理解できなかったが、義経の“気配読み”だけは信じていた。
そのときだった。
平家の船から、ひとりの女官が扇を掲げた。
海風に揺れる赤い扇。
夕陽を受けて、まるで炎のように輝いていた。
源氏の兵たちがざわめく。
「挑発か……?」
「射てということか……?」
弁慶が義経を見る。
「殿、どうされます」
義経は扇を見つめ、ぽつりと言った。
「……あれ、静が持ってた扇に似てる」
弁慶は目を丸くした。
「殿、まさか――」
義経は軽く息を吸い、
「与一、あれ射ってみてよ」
と、まるで散歩の途中で頼むように言った。
弁慶は慌てて止める。
「殿! あれは挑発でございます! 外せば笑われ――」
義経は肩をすくめた。
「いいじゃん。別に笑われても死なないし」
弁慶は言葉を失った。
(殿……本当に、戦に向いておられぬ……)
だが、義経は続けた。
「それに……静が見てたら、ちょっとはカッコつけたいし」
弁慶は深くため息をついた。
(殿の“見栄”が、また何かを起こす……)
義経は与一を呼んだ。
「ねえ与一。あれ、射てる?」
与一は震えながら答えた。
「……殿。あれは……風が強すぎます」
義経は海風を感じ、静かに言った。
「……でも、風が味方してるよ。今日は」
与一は義経の目を見た。
そこには、軽さの奥にある“妙な確信”があった。
「……承知」
与一は弓を構えた。
海風が吹き、波が揺れ、夕陽が沈む。
静寂。
放たれた矢は、風に乗り――
扇の要を、正確に射抜いた。
海がどよめいた。
平家の船団がざわめき、源氏の兵たちは歓声を上げた。
弁慶は呆然としながらも、すぐに声を張り上げた。
「殿の御威光、天に届いたぞーーーッ!!」
兵たちは一斉に叫んだ。
「義経様ーーーッ!!」
義経は、少し照れたように笑った。
「……よかった。静が見てたら、ちょっとは褒めてくれるかな」
弁慶はその言葉に、ふと影を見る。
(殿……誰かに“見られたい”のか。
それとも、“見てほしい”のか……)
そのとき、平家の船団が動き始めた。
義経は海を見つめ、ぽつりと言った。
「……風が変わった。
行けるよ、弁慶」
弁慶は深く頷いた。
「殿の御心のままに」
義経は馬にまたがり、海岸線を駆け出した。
その背中に、夕陽が差し込む。
こうして――
**義経の“見栄”が、またひとつ奇跡を呼んだ。**
だがその奇跡は、
義経の軽さと、弁慶の重さと、
そして静御前の影が、静かに形を変えていく始まりでもあった。




