第2話 一ノ谷 滑り落ちた奇跡
冬の名残がまだ山に残る早朝。
義経軍は、一ノ谷の背後に広がる険しい山道を進んでいた。
前夜の雨で山肌はぬかるみ、馬の足は泥に沈む。
兵たちは疲れ切り、誰もが口を閉ざしていた。
その先頭を歩く義経は、相変わらず軽い足取りだった。
弁慶はその後ろで、重い鎧を軋ませながら歩く。
「殿……本当に、この道を行かれるのですか」
弁慶が低く問う。
義経は振り返りもせず、
「だって、こっちの方が近いでしょ?」
と軽く言った。
弁慶は眉をひそめる。
「近いかどうかではなく、馬が死にます」
「じゃあ、馬に頑張ってもらうしかないよね」
「……殿は馬の気持ちを考えたことがあるのですか」
「ないよ」
弁慶は深くため息をついた。
(殿は軽い。しかし、その軽さの奥に何があるのか……)
そのとき、山の上から斥候が駆け下りてきた。
「義経様! この先は崖でございます! 馬では到底――」
義経は斥候の言葉を遮るように、崖の縁へ歩いていった。
眼下には、一ノ谷の平家陣が広がっていた。
海風が吹き上げ、崖は泥でぬかるみ、足元は不安定だ。
弁慶が叫ぶ。
「殿! 危険です!」
義経は崖を覗き込み、ぽつりと言った。
「……なんか、行けそうな気がするんだよね」
兵たちは凍りついた。
弁慶は慌てて駆け寄る。
「殿! これは無謀です! 馬が滑り落ち――」
その瞬間だった。
義経の馬が、ぬかるみに足を取られた。
「えっ」
義経の声が間抜けに響く。
次の瞬間、馬は前のめりに崖を滑り落ちた。
ズザァァァァァァァァッッッッ!!
泥と草が舞い、義経と馬は制御不能のまま一直線に落下していく。
兵たちの悲鳴が山に響いた。
「殿ーーーッ!!」
弁慶は目を見開き、叫んだ。
「殿ーーーッ!!」
だが、義経は落ちながら叫んでいた。
「ちょっ、ちょっと待って! 止まれ! 止まれってば!!」
もちろん止まらない。
馬は泥の斜面を滑り続け、最後に草地へ転がり込んだ。
義経は泥まみれで立ち上がり、呆然とした。
平家の兵たちは、その光景を見て凍りついた。
「……な、なんだ今のは」
「崖を……駆け下りた……?」
「いや、落ちたように見えたが……」
「いやいや、あれは……あえて落ちたのだ!」
「敵陣のど真ん中に一気に降り立つとは……天才か……!」
平家の誤解は一瞬で広がった。
そのとき、山上の弁慶が叫んだ。
「殿に続けーーーッ!!
道は開いた!!」
兵たちは震えながらも、弁慶の声に押されて崖へ向かった。
「え、えええええ!?」
「無理だろこれ!!」
「殿はどうやって……!?」
「知らん! 行くしかない!!」
そして――
兵たちは次々と滑り落ちた。
ズザァァァァァァァァッ!!
ズザァァァァァァァァッ!!
ズザァァァァァァァァッ!!
結果として、義経軍は一気に平家の背後へ到達した。
平家は大混乱に陥り、戦況は一気に源氏側へ傾いた。
泥まみれの義経のもとへ、弁慶が駆け寄る。
「殿! ご無事で……!」
義経は泥を払いながら、静かに言った。
「……勝ったし、どこも怪我しなかったからいいか」
弁慶は胸を撫で下ろし、しかしすぐに表情を引き締めた。
「殿。
今のは“奇跡”ではございません。
殿が前に進んだからこそ、兵が続いたのです」
義経はきょとんとした。
「え、そうなの?」
弁慶は静かに頷いた。
その目には、義経を“英雄として見せる覚悟”が宿っていた。
「そうなのです。
殿が滑り落ちなければ、この勝利はありませんでした」
義経は泥を払いながら、ぽつりと言った。
「……英雄ってさ。
俺、そういうの向いてないんだけどね」
その一言に、弁慶は一瞬だけ目を伏せた。
(殿……その軽さの奥に、どれほどの影を抱えておられるのか)
だが、すぐに顔を上げる。
「殿。
英雄になるかどうかは、殿が決めることではございません。
“世”が決めることにございます」
義経は肩をすくめた。
「世って、ほんとめんどくさいね」
弁慶は小さく笑った。
「ええ。
ですが――殿には、私がついております」
義経は照れ隠しのように泥を払った。
「……じゃあ、行こっか。
次は、ちゃんと歩いて降りたいな」
弁慶は深く頷いた。
こうして――
“偶然の奇跡”は、またしても義経を英雄にした。
だがその奇跡の裏には、
義経の軽さと、弁慶の重さと、
そして“世”の誤解が静かに積み重なっていくのだった。




