プロローグ 五条大橋
京の夜明けは、まだ息を潜めていた。
薄紫の空が川面に滲み、五条大橋の欄干には白い露が光る。
その静寂の中心に、ひとりの巨躯が立っていた。
武蔵坊弁慶。
千本の太刀を奪い取ると誓い、すでに九百九十九本を手にしている。
その名は京の町で怪物のように語られ、武士たちは彼の姿を見ただけで道を譲るようになっていた。
今や、弁慶が橋に立つだけで、誰も近づかない。
静寂そのものが、彼の強さを物語っていた。
「あと一人。あと一人で、俺の千本目だ」
低く響く声が、橋の下の水面を震わせた。
そのときだった。
橋の向こうから、ひとりの若者が歩いてきた。
白い水干、軽い足取り。
まだ元服前の少年で、武士の風格など微塵もない。
だが、歩くたびに風がその周囲を撫で、
まるで光が彼を追いかけているかのようだった。
源義経。
だが、この時点で彼を知る者はほとんどいない。
ただの“どこかの坊ちゃん”にしか見えない。
弁慶は巨体を揺らし、前に立ちはだかった。
「貴様の太刀、もらい受ける」
雷鳴のような声が橋を震わせる。
義経は、少しだけ眉をひそめた。
「え、なんで?」
その軽さに、弁慶は一瞬だけ言葉を失う。
「問答無用!」
弁慶が大薙刀を振り上げた瞬間、
義経は反射的に一歩横へずれた。
それは達人の動きではない。
ただ、弁慶の怒りの気配を読み、
「ここにいたら殺される」と直感しただけ。
だが、弁慶の全力の踏み込みは、
橋の夜露を踏んでわずかに滑った。
巨体が前のめりに崩れ、欄干が軋む。
弁慶は体勢を立て直すが、
その隙に義経は欄干に手をかけ、軽く跳んだ。
風に乗るような跳躍。
弁慶の頭上をひらりと越え、
橋の中央に静かに着地する。
義経は、少し困ったように言った。
「……あのさ。俺、別に戦いたいわけじゃないんだよね。
殺されないなら、それでいいんだけど」
弁慶は、ゆっくりと振り返った。
怒りは消えていた。
そこにあったのは、ただひとつの“筋”だった。
「……負けた。
この弁慶、殿に一生お仕えいたす」
義経はぽかんとした顔で言った。
「え、なんで?」
弁慶は深く頭を下げた。
「勝負に負けた以上、筋を通す。それだけだ」
義経はしばらく考え、
「……まあ、殺されないならいいか」と呟いた。
こうして、
“軽い主君”と“重すぎる家臣”の物語が始まった。




