第9話 嫌がらせと小さな反撃
背中を焼くような視線の熱さが、一夜明けてもまだ肌に残っている。
私は王宮の通用門をくぐりながら、無意識に左胸のポケットを押さえた。そこにあるはずの栞の感触がないことが、昨夜の園遊会が夢ではなかったことを残酷に告げている。
あんなに派手に踊らされて、ただで済むはずがない。
すれ違う文官たちの視線が、昨日までとは明らかに違っていた。「空気」を見る目ではなく、「異物」を見る目だ。
覚悟はできている。
私は鞄のベルトを握りしめ、いつもの倍の速度で廊下を歩いた。
共有資料室の前で足を止める。
まずは昨日の決裁書類をアーカイブに戻さなければならない。
重い扉を開ける。
カビと古紙の匂いが鼻をつく薄暗い部屋には、数人の下級貴族の令嬢たちがいた。彼女たちは私が入った瞬間、ピタリとおしゃべりを止め、扇で口元を隠して目配せをした。
「……あら、どなたかと思えば」
「昨日の『主役』様じゃないこと」
聞こえるように放たれた刺々しい声を、私は無視して指定の棚へ向かった。
だが、そこにあるはずのファイルがない。
第二王子管轄の予算申請書綴り。昨日、確かにここへ一時保管したはずだ。
「何かお探しですの?」
一番奥にいた令嬢が、意地悪く猫なで声を出した。
棚の隙間には、無惨に破られた紙片が数枚、わざとらしく落ちている。
古典的だ。
あまりにもベタな嫌がらせに、私は逆に冷静になった。
私はしゃがみ込み、その紙片を拾い上げた。
指先につく埃が、彼女たちの浅はかさを象徴しているようだ。
重要書類の紛失・破損。これを私の管理不行き届きとして報告し、あわよくば王子に幻滅させようという魂胆だろう。
「……そうですか」
私は小さく呟き、破片をハンカチに包んで鞄に入れた。
怒りは湧かない。
悪役令嬢アンジェリカの取り巻きだった頃に比べれば、こんなものは挨拶代わりにもならない。あの頃は、靴にナメクジを入れられたり、教科書が噴水に浮いていたりするのが日常だったのだから。
私は令嬢たちに一瞥もくれず、資料室を出た。
背後で「何よ、すました顔して」「どうせ泣きつくんでしょう」という声が聞こえる。
泣きつく? まさか。
そんな非効率なことはしない。
執務室への長い廊下を歩きながら、私は脳内で復旧手順を組み立てた。
1. 破損状況の確認(現物確保済)。
2. バックアップからの再発行。
3. 犯行現場の入退室記録との照合。
幸い、私は「整理屋」だ。
原本がなくなるリスクを常に想定し、すべての書類の写しを個人の手帳と別保管庫に二重管理している。
彼女たちが破ったのは、ただの紙切れに過ぎない。
執務室の扉を開ける。
そこにはいつもの静寂と、紅茶の香りがあった。
レオンハルト殿下はデスクに向かい、ペンを走らせている。私が部屋に入っても、顔を上げずに手を動かし続けている。
「おはようございます、殿下」
「……ああ」
短い返事。
昨夜あんなに情熱的に私をエスコートした人と同一人物とは思えない冷淡さだ。でも、今の私にはこの温度の低さが心地よい。
私は自分の席に着き、まずは予備の保管庫から書類の写しを取り出した。
インク壺の蓋を開け、新しい羊皮紙を広げる。
ペン先に黒いインクを含ませるたび、私の中の感情が「事実」という冷たい文字に変換されていく。
『業務妨害報告書 及び 資料破損に関する損害賠償請求案』
私は淡々と事実を記述した。
被害日時。破損した書類の件名。復旧にかかった工数(私の人件費換算)。
そして、資料室の入退室記録から割り出した、当該時間帯に在室していた職員のリスト。
感情的な訴えは一切書かない。「いじめられました」ではなく、「業務効率が低下しました」と書くのが、この部屋の流儀だ。
カリカリというペンの音だけが、部屋に響く。
書き上げた報告書に、破られた紙片の現物を証拠として添付する。
完璧だ。
私はインクが乾くのを待ち、書類を揃えて立ち上がった。
殿下のデスクの端に、それを置く。
「本日の定期報告です。一部、共有資料室にてトラブルがありましたが、業務への支障はありません。復旧済みです」
殿下の手が止まった。
彼はペンを置き、私の報告書を手に取る。
視線が上から下へと滑り、添付された破れた紙片で止まる。
一瞬、部屋の温度が下がった気がした。
空調のないこの部屋で、肌が粟立つような冷気。
「……支障はない、と言ったな」
低い声だった。
怒鳴るわけでも、声を荒らげるわけでもない。ただ、深海の底のような静かな圧力がそこにあった。
「はい。写しがございますので」
「そういう問題ではない」
彼は報告書をデスクに叩きつけるように置いた。
その乱暴な音が、私の心臓を跳ねさせる。
「俺の部下が、俺の目の届かないところで不当な扱いを受けた。それが『業務上のトラブル』で済むと思っているのか」
殿下は立ち上がり、窓際へと歩いていった。
逆光になったその背中からは、隠しきれない苛立ちが滲み出ている。
私は言葉に詰まった。
私はただ、事務的に処理をしたつもりだったのに。彼は何を怒っているのだろう。私の対処が甘かったのか、それとも騒ぎを起こしたこと自体が不快だったのか。
「……犯人のリストはこれだな」
彼は振り返らずに言った。
「はい。入退室記録に基づきます」
「分かった。下がっていい」
それだけだった。
私は一礼して、給湯室へと逃げるように退室した。
ポットにお湯を注ぎながら、震える指先を見つめる。
怒られたわけではない。でも、あの静かな怒りは私に向けられたものではない気がした。じゃあ、誰に?
翌日、その答えは残酷なほど明確な形で示された。
私が登城すると、資料室が妙に静まり返っていた。
昨日私に突っかかってきた令嬢たちの姿がない。
代わりに、新しい人員が配置され、怯えたように作業をしている。
風の噂で聞いた。
昨日の午後、大規模な人事異動が発表されたらしい。
該当の令嬢たちの実家である子爵家や男爵家に、過去の脱税疑惑や不正受給の調査が入ったとか。本人は地方の閑職へ即日出向。事実上の追放だ。
執務室に入ると、殿下は昨日と変わらぬ様子で紅茶を飲んでいた。
私のデスクの上には、昨日提出した報告書が戻されている。
その隅に、赤いインクで一言だけ書き添えられていた。
『処理済』
たったの三文字。
それだけで、私の周りから敵意が一掃されたのだ。
私は報告書をファイルに綴じながら、紙の端を強く握りしめた。
怖い人だ。
容赦がない。
でも、その冷酷な刃が、今は私を守る盾になっている。
ポケットの中の空虚さを埋めるように、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
これは「依怙贔屓」だ。
本来なら断罪されるべき悪役側のやり方だ。
それでも、誰かが私のために怒り、動いてくれたという事実が、強張っていた心を溶かしていく。
私はそっと殿下の背中を見た。
彼は気づかないふりをして、書類に向かっている。
この人は、私が思っている以上に、私を「自分のテリトリー」に入れているのかもしれない。
守られることに慣れていない私は、この過剰な防衛にどう報いればいいのだろう。
インクの匂いが漂う部屋で、私はまだ答えのない問いを抱えたまま、次の書類に手を伸ばした。




