第8話 王子の視点
腕の中からすり抜けていった体温の余韻が、まだ右手の手袋に残っている。
俺は喧騒の渦巻くホールに背を向け、バルコニーへと続くガラス戸を見つめていた。
夜の闇に溶け込むように消えていったモスグリーンのドレス。
彼女は逃げた。
だが、その逃げ足の速ささえも、俺の想定内であり、愛すべき計算高さの表れだった。
胸ポケットに指を触れる。
硬い革の感触。彼女から没収した、使い古された栞がそこにある。
この薄っぺらい革切れ一枚が、彼女と俺を繋ぐ唯一の物理的な鎖だ。
俺はグラスを傾け、琥珀色の液体と共に喉の渇きを潤した。
周囲からは、好奇と打算に満ちた視線が突き刺さってくる。
「あの地味な娘は誰だ」「第二王子の御乱心か」「聖女様はどうなる」
くだらない。
どいつもこいつも、与えられた台本通りにしか喋れない人形のようだ。
俺がエリナ・ベルジュという存在を認識したのは、断罪の夜よりもずっと前だった。
学園の生徒会室。
俺は書類決裁のために遅くまで残っていた。
隣の部屋では、婚約者である悪役令嬢アンジェリカがヒステリックに叫び散らし、取り巻きたちがオロオロと宥めていた。
よくある光景だ。俺は興味もなく無視していた。
だが、翌朝。
アンジェリカが破壊したはずの花瓶は元通りになり、彼女が撒き散らした暴言の記録は「熱意ある指導」へと議事録が書き換えられ、被害を受けた生徒への補填金が完璧な名目で予算計上されていた。
誰がやった?
俺は興味を持った。
監査を入れ、金の流れを追わせたが、尻尾は掴めなかった。
完璧すぎるのだ。
まるで最初から何もなかったかのように、マイナスがゼロに戻されている。
観察を続けた。
そして見つけたのが、常にアンジェリカの斜め後ろ、最も目立たない位置に立っている小柄な令嬢だった。
彼女は決して主役になろうとしなかった。
発言もしない。自己主張もしない。
ただ、騒動が起きる直前にスッと動き、原因を取り除き、何食わぬ顔で元の位置に戻る。
その手際は芸術的ですらあった。
彼女は自分が「モブ」であると信じ込み、背景に溶け込もうと必死だったが、俺の目には違って見えた。
この狂った茶番劇の中で、唯一、正気を保って舞台装置を支えている裏方。
彼女だけが、俺と同じ「醒めた目」をしていた。
俺が王族という役割を演じているように、彼女もまた「無害な令嬢」という役割を演じている。
だが、俺の演技が周囲を欺くための攻撃的なものであるのに対し、彼女のそれは生存のための防御だった。
断罪の夜。
バルコニーで彼女を捕まえた時、俺は確信した。
彼女の手帳に記された膨大な記録。
あれは、彼女がこの世界と戦ってきた爪痕だ。
あんな面白い女を、田舎に隠居させてなるものか。
今日の園遊会もそうだ。
俺が入場した瞬間、会場のどこに彼女がいるか、一秒で見つけられた。
南東の柱の影。
いかにも彼女が選びそうな、死角でありながら全体を見渡せる特等席。
壁の花を決め込んで、扇の陰から俺を観察している気配。
俺は迷わずそこへ向かった。
聖女? 知ったことか。
ヒロイン補正だか運命だか知らないが、俺の人生に勝手に割り込んでくる他人の都合など、一ミリも受け入れる気はない。
俺が手を差し出した時の、彼女の顔。
絶望と、諦めと、そして覚悟。
震える指先が俺の手袋に触れた瞬間、電流のような痺れが走った。
ダンスの間、彼女はずっと怯えていた。
だが、足は止めなかった。
俺のリードに完璧に従い、衆人環視の重圧に耐えきった。
その姿がいじらしく、そしてどうしようもなく愛おしかった。
彼女は知らないだろう。
俺が彼女の淹れる「ぬるい紅茶」を気に入っていることを。
俺の視線の先を読んで、言われる前に書類を差し出してくる時の、あの得意げな指先を見るのが好きなことを。
引継書などというふざけた紙束を作られた時、本気で焦燥を覚えたことを。
ポケットの中の栞を、指先で強く押し込む。
これは人質だ。
お前が物語の外へ逃げようとするなら、俺はこの栞を使って何度でも物語の中に引き戻す。
グラスを給仕のトレイに戻す。
カチャン、という硬質な音が、俺の中の決意のスイッチを入れた。
逃げたければ逃げればいい。
だが、その先には必ず俺が先回りしている。
お前が「背景」でいられる場所など、もうこの国のどこにもないようにしてやる。
俺は踵を返し、再び光の溢れるホールへと歩き出した。
まずは、彼女に手を出そうとする有象無象の虫除けから始めなければならない。
明日からの執務室が、楽しみでならなかった。
俺だけの共犯者は、次はどんな顔をして、俺の前に現れるだろうか。




