第7話 観客席からの退場
腰に回された腕の熱が、ドレスの生地を透過して肌を焦がすようだった。
三拍子のリズムに合わせて、私はなすがままに振り回されている。
シャンデリアの光の粒が視界の端で流星になって消え、代わりに目の前にあるのは、涼しい顔をしたレオンハルト殿下の双眸だけ。
その瞳に映っているのは、間違いなく私だ。
観客席にいるべきモブの私ではなく、舞台の真ん中でスポットライトを浴びてしまった、場違いな女。
足がもつれそうになるのを、彼の手が強引かつ優雅に支える。
白い革手袋の感触。
それは、私がこれまで握りしめてきたペンや帳簿とは違う、圧倒的な「権力」と「意志」の硬さを持っていた。
「……顔が強張っているぞ」
回転の遠心力を利用して、彼が耳元で囁く。
吐息がかかる距離。
私は反射的に身を固くし、かつてアンジェリカの裏工作のために潜んでいた狭い物置の暗闇を思い出した。あの時も息を潜めていたけれど、今は隠れる場所なんてどこにもない。
「……緊張、しないわけがございません。皆様が見ています」
絞り出した声は、音楽にかき消されそうなほど頼りない。
けれど、殿下は満足げに目を細めた。
「見せてやればいい。俺が誰を選んだのかを」
彼はわざとらしくステップを大きくし、私をフロアの中心へと誘う。
周囲の視線が痛い。
羨望、嫉妬、値踏み、困惑。
何百本もの針が全身に突き刺さるようだ。
私のささやかな生存戦略――「背景と同化する」という魔法が、音を立てて崩れ去っていく。
「やっと、目が合ったな」
ふと、彼が言った。
その声の響きに、私は思わず彼の目を正面から見上げた。
「ずっと書類か、俺の淹れた茶か、逃走経路しか見ていなかっただろう」
図星だった。
私は彼の顔を見ることを避けてきた。
見れば、彼が「攻略対象」という記号ではなく、一人の人間として迫ってくる気がしたからだ。
でも今は、逃げられない。
彼の手袋が、私の背中を少し強めに押す。
その圧力に、所有印を押されたような錯覚を覚えた。
曲が終わる。
ジャーン、というフィナーレの和音が響き渡り、殿下が優雅に礼をする。
私もそれに合わせて、深く膝を折った。
カーテシーの最中、床を見つめる視界が揺れる。
拍手が起こった。
それは祝福というより、波乱の幕開けを告げる雷鳴のようだった。
殿下が手を差し出す。
エスコートを解く気はないらしい。
だが、ここで彼の横に立ち続ければ、私は明日から間違いなく貴族社会の的になる。
「……殿下、申し訳ございません。少し、酔いました」
私は彼の指先に触れるふりをして、するりとその手をすり抜けた。
嘘ではない。
状況の激変に、脳が酸欠を起こしている。
「休んできます」
彼の返事を待たずに、私は背を向けた。
これは不敬だ。
でも、彼もそれを追っては来なかった。背中に感じる視線の熱さが、「今は逃がしてやる」と言っているように思えたからだ。
人混みをかき分け、ホールの端へと急ぐ。
令嬢たちが扇の陰から私を見て、さっと道を空ける。以前のような「無視」ではなく、「警戒」による回避だ。
私が通るたびに、小さな波紋のようにざわめきが広がる。
重いガラス戸を押し開け、夜のバルコニーへと飛び出した。
冷たい夜気が、火照った頬を叩く。
第一話の夜と同じ場所。
けれど、あの時とは決定的に何かが違っていた。
私は石の手すりにしがみつき、大きく息を吐き出した。
手すりの冷たさが、現実感を呼び戻す。
ドレスの裾を握りしめる。指に残る、あの白い手袋の感触が消えない。
ポケットを探る。
やはり、栞はない。
私の精神安定剤だったあの栞は、今頃彼の胸ポケットの中だ。
「……降ろされてしまった」
私は暗い庭園を見下ろしながら、ポツリと呟いた。
私は自分を、観客席にいる人間だと思っていた。
舞台の上で繰り広げられる恋愛劇を、安全な場所から眺め、たまに裏方として手助けをするだけの存在。
でも、もう席はない。
チケットは破り捨てられ、私は舞台袖から引きずり出されてしまった。
ガラス戸越しに、煌びやかなホールを見る。
そこは眩しすぎて、もう私の居場所には見えなかった。
かといって、この暗いバルコニーも、もう隠れ場所にはならない。
さっきのダンスで、全員が私の顔を覚えたはずだ。
怖い。
足が震える。
でも、不思議と嫌ではなかった。
あの時、殿下の瞳に映っていた私が、初めて「色彩を持った人間」に見えたからかもしれない。
モブ特有のぼやけた輪郭ではなく、エリナという名の、確かな実体を持った女として。
私は手すりから手を離し、夜空を見上げた。
星が綺麗だなんて思う余裕が、まだ自分にあることに驚く。
明日から、嫌がらせが始まるだろう。
靴に画鋲が入っていたり、書類が隠されたりするかもしれない。
かつてアンジェリカがヒロインに対してやったことを、今度は私が受ける番だ。
受けて立とうじゃないか。
私はドレスの皺を伸ばし、顎を少しだけ上げた。
だって私は、あの完璧な断罪回避劇を演出した女だ。
意地悪な令嬢たちの小細工なんて、私の事務処理能力の前では児戯に等しい。
背後でガラス戸が開く音がした。
追手が来たのかもしれないし、ただの風かもしれない。
でも私は、もう逃げるために走ることはしなかった。
舞台に上げられたのなら、せめて無様には踊らない。
私はゆっくりと振り返り、まだ眩しい光の中へ戻るための呼吸を整えた。
私の日常は壊れた。
それなら、その瓦礫の上で、新しい脚本を書き始めるしかないのだろうか?




