第6話 不釣り合いなエスコート
ポケットの中が軽すぎる。
指先で探っても、いつもそこにあるはずの硬い革の感触――あの栞がないことが、昨夜からの不安を増幅させていた。
私は鏡の前で、モスグリーンのドレスの裾を整えた。
流行のパステルカラーでも、目を引く深紅でもない。壁紙や観葉植物に同化するために選んだ、徹底的に地味な色合いだ。
アクセサリーも最小限。真珠の粒がついたピンを一本だけ髪に挿す。
これなら大丈夫。
誰の記憶にも残らず、風景の一部としてやり過ごせるはずだ。
「……よし」
自分に言い聞かせるように呟き、私は部屋を出た。
今日は王宮主催の園遊会。全職員参加という名目のもと、実質的には聖女様のお披露目に向けた貴族たちの顔合わせの場だ。
本来なら、第二王子は輝くような正ヒロインをエスコートして現れる。
私はその遥か後方、給仕係の近くでグラスを傾けていればいい。
王宮の大広間へと続く回廊を進む。
近づくにつれ、弦楽器の調べと、数百人の話し声が混ざり合った独特の熱気が肌にまとわりついてくる。
入り口の衛兵が敬礼し、重厚な扉が開かれた。
光の洪水。
天井の高いホールには巨大なシャンデリアが輝き、着飾った貴族たちが色の渦を作っていた。
香水の甘い匂いに、一瞬めまいを覚える。
私は呼吸を浅くし、人の流れの縁を縫うように移動した。
目指すは会場の南東、太い大理石の柱の裏側。
あそこならメインステージからは死角になり、かつ出口にも近い。私の計算した「最強のモブ席」だ。
誰とも目を合わせないよう、視線を足元の絨毯に固定して進む。
無事に柱の影へ滑り込み、冷たい石肌に背中を預けた時、ようやく肺の奥まで空気が入ってきた。
ここからなら、物語の進行を安全圏で見守れる。
私は扇を開き、口元を隠して会場を見渡した。
ざわり、と空気が変わったのはその時だった。
入り口付近の令嬢たちが、一斉に道を空ける。モーゼの海割りのように人波が分かれ、静寂が広がっていく。
現れたのは、レオンハルト殿下だった。
息を呑む。
今日の彼は、いつものラフな執務服ではない。
白を基調とした正装に、王家の証である青いサッシュ。銀色の髪は完璧に整えられ、冷ややかな美貌が照明を反射して輝いているようだった。
ゲームのスチルそのものだ。
あまりの完成度に、現実感を喪失する。
周囲の令嬢たちが色めき立ち、扇で顔を隠しながら熱い視線を送っている。
さあ、誰の手を取るの?
やはり噂の聖女様? それとも高位貴族のご令嬢?
私は他人事として、その光景を眺めていた。
殿下がまっすぐに歩き出す。
迷いのない足取りだ。
誰かに挨拶するわけでもなく、会釈を返すわけでもなく、ただ一点を見据えている。
その進行方向の先に、聖女らしき姿はない。
あるのは、給仕のワゴンと、観葉植物と――
……私?
扇を持つ手が硬直した。
まさか。
だって、ここは柱の影だ。メインルートからは外れている。
私の後ろに誰かいるのだろうか。
背後を確認しようと首を巡らせかけた瞬間、殿下の視線が、物理的な重みを持って私を捉えた。
目が合った。
その瞬間、逃げ場が消滅したことを悟る。
彼は人混みを一直線に切り裂いて、私の目の前までやってきた。
周囲の視線が、吸い寄せられるようにこちらへ集中する。
「誰?」「あの地味な娘は?」「まさか」
ひそひそ話が波紋のように広がる。
私の心臓は早鐘を通り越し、破裂しそうだった。
殿下が目の前で止まる。
近い。香水の匂いではなく、いつもの執務室のインクと紅茶の匂いがかすかにして、それが余計に混乱を招く。
「……見つけた」
彼は小さく呟くと、私に向かってスッと右手を差し出した。
白手袋に包まれた、洗練された指先。
それはダンスの申し込みであり、王族からの命令書でもある。
「殿下、私は……」
拒否の言葉を探す。
体調不良、足の捻挫、身分の違い。
けれど、喉が渇いて声が出ない。
「逃げるなと言ったはずだ」
彼は穏やかな笑みを浮かべているが、その瞳は決して笑っていなかった。
昨日の「栞」を取り上げた時と同じ、独占欲の混じった昏い色。
その手が、もう数センチ近づく。
断れば、彼の顔に泥を塗ることになる。
衆人環視の中、第二王子の手を空振りにさせるわけにはいかない。
それは私の「目立たず生き残る」という基本方針と矛盾するが、ここで騒ぎを起こす方がもっと致命的だ。
震える手を、ゆっくりと持ち上げる。
自分の意思というより、見えない糸に操られているような感覚だった。
私の指先が彼の手袋に触れた瞬間、強い力で握り込まれた。
「――っ」
引き寄せられる。
モスグリーンの地味なドレスが、彼の純白の正装と重なった。
不釣り合いだ。
誰の目にも明らかなほど、私たちはちぐはぐなはずなのに。
「音楽を」
殿下が短く命じると、指揮者が慌ててタクトを振った。
優雅なワルツが流れ出す。
腰に回された腕が熱い。
一歩、踏み出される。
私はそれに合わせて、身体を動かすしかなかった。
かつて悪役令嬢の付き合いで叩き込まれたダンスのステップが、こんなところで役に立つなんて皮肉だ。
回る。世界が回る。
シャンデリアの光が流星のように尾を引き、周囲の貴族たちの顔が色とりどりの壁になる。
その回転の中心で、殿下の顔だけが鮮明に固定されていた。
これは夢だ。
あるいは、断罪イベントの延長戦だ。
そうでなければ説明がつかない。
なぜ、この人は。
どうして、選ばれるはずのない「背景」の手を、こんなにも強く握りしめているのだろうか。
私は彼の手袋の布越しに、奪われた栞の不在を思い出していた。
私の物語は、もう私の手の中にはない。
この強引な王子の掌の上で、書き換えられ始めているのだと、めまいの中で自覚させられていた。




