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物語から降りた令嬢を、第二王子が放っておきません  作者: 九葉(くずは)


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5/12

第5話 ヒロインの影

 あの日、殿下が淹れてくれた紅茶の温度を、私の指先はまだ覚えていた。


 あれから一ヶ月。

 季節は初夏へと移り変わり、王宮の庭園には白い薔薇が咲き誇っている。執務室の窓から流れ込む風も、少し湿度を帯びるようになった。


 私は羽ペンを置き、凝り固まった首を回す。

 目の前の書類の山は、以前のような「魔窟」ではなく、整然とした丘陵地帯程度に収まっている。

 この一ヶ月で、私は完全にこの部屋の備品として馴染んでいた。

 殿下の思考パターンを先読みし、必要な資料を言われる前に揃え、彼がカップに手を伸ばすタイミングで適温の茶を差し出す。


 完璧だ。

 私は優秀な「モブ事務官」として、この世界に定着しつつある。

 そう思っていた。


 給湯室へ向かう廊下で、女官たちのささやき声を聞くまでは。


「聞いた? ついに聖女様がいらっしゃるそうよ」

「ええ、辺境の修道院で見つかったとか。光の魔力をお持ちだなんて、まるで物語の主人公ね」

「第一王子殿下もそわそわしていらっしゃるわ。きっと運命のお相手なのよ」


 足を止める。

 心臓が早鐘を打ち、持っていた空のトレイがカタカタと震えた。


 来た。

 ついに、来てしまった。


 『銀の王冠と薔薇の剣』の正ヒロイン、聖女アリス。

 ゲームのシナリオ通りなら、彼女の登場は物語が「学園編」から「王宮編」へとシフトする合図だ。彼女は王宮に入り、その純真さと光の力で周囲を魅了し、最終的には王子たちの誰かと結ばれる。


 そして、重要なことが一つ。

 聖女が来れば、王宮内の配置換えが行われる。

 特に、第二王子ルートに入る場合、彼女はまず「第二王子付きの補佐」として接点を持つことになるのだ。


 つまり、私の席はなくなる。


 私は震える息を吐き出し、トレイを抱え直した。

 ショックはなかった。むしろ、妙に納得している自分がいる。

 そうよね。私ごときがいつまでも、攻略対象の隣にいられるわけがない。

 これはバグ修正だ。

 世界が本来あるべき姿に戻ろうとしているだけ。


 私は給湯室に入るのをやめ、踵を返して執務室へ戻った。

 足取りは重いが、頭の中は氷水に浸したように冷えていく。


 やるべきことは一つ。

 立つ鳥跡を濁さず。

 後任のヒロインが困らないよう、完璧な引継ぎをして去ることだ。


 執務室に戻ると、殿下は会議で不在だった。

 好都合だ。

 私は自分のデスクに向かい、新しい羊皮紙の束を取り出した。


 インク壺の蓋を開ける。

 ペン先にたっぷりとインクを含ませる。

 その一連の動作に、自分への未練を断ち切る儀式のような重みを込める。


『業務引継書 及び 第二王子殿下取扱説明書』


 タイトルを書き込み、私は猛烈な勢いで筆を走らせた。

 書類の分類ルール、各省庁への根回しの手順、お茶の温度の好み、機嫌が悪い時の眉の角度。

 私がこの一ヶ月で蓄積したすべてのデータを、文字にしていく。


 ヒロインはドジっ子属性があるから、分かりやすく箇条書きにしなければ。

 重要な部分には赤線を引く。

 そう、この帳簿の締め日は特に間違いやすい。


 紙をめくる手が止まらない。

 書けば書くほど、胸の奥がちりちりと痛んだ。

 こんなにたくさんのことを、私は知っていたのか。

 彼の癖も、視線の意味も、沈黙の理由も。

 全部、私だけの知識だと思っていたのに、これからは別の誰かがこの知識を使って、彼を支えることになる。


「……よし」


 最後のページを書き終え、私は愛用の革の手帳から栞を抜き取った。

 使い込まれた革の栞。

 これを引継書の「最重要事項」のページに挟む。

 殿下が無理をして徹夜しそうになった時の、止め方が書いてあるページだ。


 栞を挟んだ瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。

 これで終わり。

 私は私の日常へ帰る。


 その時、ドアノブが回る音がした。


「戻ったぞ」


 レオンハルト殿下が入ってくる。

 私は反射的に立ち上がり、作りたての引継書を両手で持って彼に歩み寄った。

 余計な感情が顔に出ないよう、能面の笑顔を貼り付ける。


「お帰りなさいませ、殿下。お疲れのところ恐縮ですが、こちらをご確認いただけますでしょうか」


「ん? 決裁書類か?」


 彼は上着を脱ぎながら、無造作にその束を受け取った。

 そして、パラリと一枚目をめくる。


 一瞬で、部屋の空気が変わった。


 先ほどまでの初夏の穏やかな空気が消え、真冬の吹雪のような冷たさが肌を刺す。

 殿下の動きが止まっていた。

 視線だけが、紙の上を高速で滑っていく。


「……これは、なんだ」


 声の温度が、氷点下まで下がっていた。

 私はスカートの裾を握りしめ、努めて明るく答える。


「業務の引継書です。近々、聖女様がいらっしゃると伺いましたので。私の後任になる方のために、マニュアルを作成しておきました」


「後任?」


 殿下がゆっくりと顔を上げた。

 その瞳に宿っていたのは、私が予想していた「了承」でも「感謝」でもなく、底知れない昏い光だった。


「誰が、お前を解任すると言った?」


「え……いえ、ですが、聖女様は特別な方ですし、本来なら殿下の側近を務めるのは……」


「誰が決めた?」


 彼が一歩、私に近づく。

 圧力が凄い。

 私は後ずさりしようとしたが、背後は自分のデスクで行き止まりだった。


「それは、世界の……流れと言いますか、物語の常識として……」


「くだらない」


 彼は吐き捨てるように言い、私の渾身の引継書を、バサリと自分のデスクへ放り投げた。

 紙束が散らばり、私が挟んだ栞が床に滑り落ちる。

 あ、と思う間もなく、彼はその栞を拾い上げた。


「お前はまだ、そんな妄想に囚われているのか。聖女が来ようが、誰が来ようが、俺の執務室の人事は俺が決める」


 彼は栞を指で弄びながら、私を見下ろした。

 その目は怒っているようで、どこか悲痛な色も混じっていた気がする。

 なぜ?

 私は彼のために、一番スムーズな交代劇を用意したのに。


「俺が必要としているのは聖女じゃない。お前だ」


 心臓を、直接鷲掴みにされたような衝撃が走る。

 それは愛の告白などという甘いものではなく、所有宣言に近かった。


「この引継書は没収する。二度と、勝手な退場準備をするな」


 彼は栞を自分のポケットにしまい込んだ。

 私の栞。

 私のアンカー。

 それを奪われたことで、私はこの部屋に釘付けにされたような錯覚を覚える。


「……申し訳、ございません」


 頭を下げるしかなかった。

 安堵と、恐怖と、理解できない高揚感がごちゃ混ぜになって、指先が震える。


 彼はふいっと背を向け、窓の外を見た。


「明日の園遊会、お前も来い」


「え?」


「全職員参加だ。逃げるなよ」


 それは命令だった。

 私は床に散らばった引継書を拾い集めながら、ぼんやりと考える。


 物語は強制力を持って修正されるはずだ。

 なのに、なぜこの人は、その修正を拒絶するのだろう。

 私の知っているシナリオは、もうどこにも通用しないのかもしれない。


 ポケットの中で、栞を失った手帳が、空っぽの口を開けているような気がした。

 私は、一体いつになったらここから解放されるのだろうか。

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