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物語から降りた令嬢を、第二王子が放っておきません  作者: 九葉(くずは)


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第4話 紅茶の温度と距離感

 羊皮紙の上を走るペンの音が、カツカツと規則的なリズムを刻んでいる。この二週間、私の耳はこの音に支配されていた。


 私は手元の書類束に、最後の検印を押す。

 インクが乾くのを待つ数秒間、窓の外に目をやった。中庭の木々は二週間前より少し緑を濃くし、夏が近いことを告げている。

 王宮の奥深く、第二王子執務室。

 ここは世間の喧騒からも、貴族たちのドロドロした足の引っ張り合いからも隔離された、奇妙な聖域だった。


 私の仕事は、文字通り「影」だ。

 レオンハルト殿下が決済した書類を分類し、関係各所へ送る手配をし、時には不備のある数字をこっそり修正して差し戻す。

 会話は必要最小限。

 「ここを頼む」「はい」「終わりました」「ご苦労」

 それだけだ。


 私は革表紙の手帳を開き、今日のタスクリストに横線を引いた。

 その間に挟まった栞を指で撫でる。

 かつて断罪イベントのシナリオ進行を管理していたこの栞は、今ではただの事務用品として、私の平凡な仕事を支えている。

 平和だ。

 拍子抜けするほどに。


 殿下は私を監視しているはずだが、その視線を感じることはほとんどない。彼はただ黙々と、私が整えた書類の山を崩していくだけだ。

 このまま、便利な事務員として空気のように扱われるなら、それも悪くない。


 そう思っていた矢先だった。


 ガタリ、と椅子が引かれる音がした。

 反射的に背筋が伸びる。

 顔を上げると、殿下が席を立ち、執務机を離れて部屋の隅へと歩き出していた。


 行き先は、給湯台だ。


「殿下?」


 呼びかけに答えず、彼は美しい陶器のポットを手に取った。

 カチャリと茶器が触れ合う音が、静寂な部屋に異様に大きく響く。

 私は慌てて席を立ち、小走りで彼の元へ向かった。


「おやめください、私がやります!」


 事務官補佐の仕事には、主君への茶汲みも含まれている。それを王族自らにやらせるなど、職務怠慢でクビが飛ぶ案件だ。

 だが、私が手を伸ばすより早く、殿下は茶葉の缶を開けていた。


「座っていろ」


 短く、低い声が降ってくる。

 私は伸ばしかけた手を空中で止め、ぎこちなく引っ込めた。


「ですが、そのような雑用を殿下にさせるわけには……」


「雑用ではない。気分転換だ」


 彼は私を一瞥もしないまま、手慣れた手つきで湯を注いだ。

 立ち昇る湯気が、銀色の髪を柔らかく霞ませる。

 その横顔があまりに自然で、そして絵になりすぎていて、私は言葉を失った。


 王族が、自分で茶を淹れる?

 そんな描写はゲーム本編にはなかった。彼は常に従者を侍らせ、冷たく命令を下すキャラだったはずだ。

 私の知っているデータと、目の前の現実がまたしても噛み合わない。


 呆然と立ち尽くす私の前で、二つのカップに琥珀色の液体が注がれる。

 殿下はソーサーを二つ持ち上げると、くるりと振り返った。


「ほら」


 片方を、私に差し出してくる。


「えっ」


 心臓が嫌な音を立てた。

 これは何だ?

 忠誠を試す儀式か? それとも、何かミスをした私への遠回しな処罰か?

 まさか、毒?

 いや、私が死んで困るのは、書類整理ができなくなる彼の方だ。論理的に考えて毒の線は薄い。


 私が固まっていると、殿下は鼻を鳴らし、自分のカップに口をつけた。


「……毒など入っていない」


 心を読まれた。

 私は顔が熱くなるのを感じながら、慌ててカップを受け取る。

 指先に伝わる陶器の温もりが、緊張で冷えた手をじわりと溶かす。


「いただきます……」


 恐る恐る口元へ運ぶ。

 香りはダージリン。最高級の茶葉だ。

 一口、含む。


「……!」


 驚いて、思わず目を見開いた。

 熱くない。

 いや、正確には「熱すぎない」。

 猫舌の私が、冷まさずにそのまま飲めるギリギリの温度。完璧な適温だった。


 通常、淹れたての紅茶は熱すぎて飲めないことが多い。

 なのに、これは計算されたように飲み頃になっている。

 なぜ? 偶然?


 カップ越しに殿下を見ると、彼はすでに自分の席に戻ろうとしていた。


「お前が淹れる茶は、いつも熱すぎるんだ」


 背中越しに投げられた言葉に、私は首を傾げた。

 熱すぎる?

 私はいつも、教本通りに沸騰したお湯で淹れている。それが正式な作法だからだ。

 でも、彼はそれを「熱すぎる」と言った。


 そして、今彼が淹れたのは、私にとって最適な温度。

 ……待って。

 彼は「自分にとってぬるい」から淹れ直したのではなく、わざわざ私に飲ませるために温度調整をしたのか?


 いや、ありえない。

 自意識過剰だ、エリナ。

 相手は氷の第二王子。たまたま彼も猫舌だっただけだ。あるいは、給湯のお湯が冷めていただけかもしれない。


「……美味しいです」


 その事実だけを口にすると、書類の山に隠れた彼の肩が、ほんの少しだけ揺れた気がした。


「なら、さっさと仕事に戻れ。まだ北部の治水工事の決裁が残っている」


「はい」


 私は自分の席に戻り、カップをデスクの端に置いた。

 湯気の向こうで、栞を挟んだ手帳が目に入る。

 そこには「王子の好み:不明」と書いたメモが残っているはずだ。

 後で書き加えておこう。「殿下は意外と庶民的な淹れ方をする」と。


 カップに残る紅茶は、最後まで優しい温度を保っていた。

 それが余計に、私の中の警戒心を複雑な形に歪ませていく。

 気まぐれにしては丁寧すぎる。監視にしては甘すぎる。

 

 この温度は、何なのだろう。


 私は空になったカップの底を見つめながら、解けない謎を喉の奥へ飲み込んだ。

 この心地よさに慣れてはいけないという警告音が、頭の片隅で鳴り続けている。


 殿下は、本当にただの「仕事仲間」として私を見ているのだろうか?

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