第3話 静寂の執務室
数日前に乗せられた馬車の、あの重苦しい密閉感をまだ肌が覚えている。
私は王宮の長い回廊を歩きながら、カツ、カツと響く自分のヒールの音を聞いていた。
磨き上げられた大理石の床は冷たく、すれ違う官僚たちの視線はよそよそしい。無理もない。無名の伯爵令嬢がいきなり第二王子の側近に抜擢されたのだ。
妬みか、憐れみか。あるいは「愛人枠」という下世話な勘繰りか。
どちらにせよ、私がここで歓迎されていないことだけは確かだ。
案内役の侍従が、重厚なオーク材の扉の前で足を止めた。
王宮の北棟、最も奥まった場所にある一室。
「こちらがレオンハルト殿下の執務室でございます」
侍従は慇懃に頭を下げると、私が入るのを待たずに音もなく去っていった。
取り残された私は、巨大な扉のノブに手をかける。
冷たい金属の感触が、手のひらの汗を吸い取っていく。
中に入れば、どんな地獄が待っているのだろう。
過酷な労働か、それとも陰湿な無視か。
私は大きく息を吸い込み、覚悟を決めてノブを回した。
ギィ、と蝶番が低い音を立てる。
身構えていた私を迎えたのは、意外なほどの静寂だった。
部屋は広かった。
正面奥に大きな執務机。壁一面を覆う本棚。窓からは中庭の緑が見え、風に揺れる木々の影が床に落ちている。
人の気配はない。
主であるレオンハルト殿下の姿もなかった。
「……失礼いたします」
誰もいない空間に声をかけ、そっと扉を閉める。
外界から切り離されたような静けさだ。
私は恐る恐る部屋の中央へと進み出た。
そこでようやく、この部屋の異常性に気づく。
机の上だ。
高級なマホガニーの天板が見えないほど、書類が積み上げられていた。
それは山脈のように連なり、一部は雪崩を起こして床に散乱している。未決裁の書類、読みかけの報告書、古い羊皮紙の束。
インク壺が無造作に置かれ、羽ペンが数本、無残に折れて転がっていた。
「うわぁ……」
思わず声が漏れる。
これはひどい。
第二王子といえば聡明で知られているが、整理整頓のスキルはステータスに振らなかったらしい。
私は部屋の隅に用意されていた、ひと回り小さな机に目をやった。
そこが私の席らしい。
何も置かれていない真新しい机。
とりあえず椅子に腰を下ろし、指示を待つことにした。
十分が過ぎた。
三十分が過ぎた。
一時間が経過しても、誰も来ない。
時計の針が刻む音だけが、部屋に響く。
私は膝の上で手を組み、じっと待っていた。これは試されているのかもしれない。「放置」という精神攻撃にどれだけ耐えられるか。
だが、私の視線はどうしても中央の机に向かってしまう。
今にも崩れそうな書類の塔。
端が折れ曲がったままの羊皮紙。
インクが滲みそうな位置にある水差し。
指先がむず痒くなる。
あれは、あと三センチずれたら崩れる。
あの一番下の書類は、たぶん重要度の高い至急案件だ。紙の色が変わっている。
私は鞄から、いつもの手帳を取り出した。
革の表紙を開き、栞を引き抜く。
慣れ親しんだその手触りが、私の中のスイッチを入れた。
「……少しだけ、揃えるくらいなら」
誰に言い訳するでもなく呟き、私は立ち上がった。
これはいじめへの対抗でも、点数稼ぎでもない。
ただの生理現象だ。散らかった数字や文字を見ると、正しい位置に収めたくなる。私の唯一の特技であり、病気のようなもの。
王子の机に近づく。
まずは床に落ちたものを拾い上げる。
日付を確認。三ヶ月前の地方税収報告。
次、一週間前の騎士団遠征費申請書。
その次、昨日の夜会招待状。
時系列もジャンルもばらばらだ。これでは仕事が進むはずがない。
私は近くにあった空の木箱を引き寄せ、手際よく分類を始めた。
【至急・決裁要】
【確認のみ・保存】
【不要・廃棄】
【保留・調査要】
紙をめくるたび、カサカサという乾いた音が心地よく響く。
内容を深く読まないように注意しながら、日付と差出人と件名だけで瞬時に振り分けていく。
この作業をしている時だけは、余計なことを考えなくて済む。
自分が「物語」から逃げ損ねたモブであることも、ここが敵地であることも、すべて忘れられる。
無秩序な情報の海に、杭を打ち込み、道を作る。
それが私の仕事だった。
アンジェリカの取り巻き時代も、こうして裏で彼女の尻拭いをし続けてきたのだ。
気づけば、机の上には四つの整然とした山ができていた。
天板のマホガニー色が、ようやく顔を出す。
インク壺を定位置に戻し、ペン先を拭って並べる。
ふう、と息を吐き、額の汗を拭った。
美しい。
完璧な秩序だ。
達成感に浸りながら、私は最後の一枚――栞代わりのメモ用紙を手に取った。
その時。
「……ほう」
背後から、感心したような声が降ってきた。
心臓が喉の奥で跳ねる。
完全に気配を消されていた。
慌てて振り返ると、いつの間にか開いていた扉の前に、レオンハルト殿下が立っていた。
ラフなシャツ姿で、腕には上着を引っ掛けている。
その視線は私ではなく、綺麗になった机の上に注がれていた。
「も、申し訳ございません! 勝手な真似を……!」
私は最敬礼の姿勢で頭を下げる。
王族の机を勝手に触るなど、不敬罪で首が飛んでもおかしくない。
やってしまった。職業病が仇になった。
「顔を上げろ」
声に怒気は含まれていなかった。むしろ、機嫌が良い響きすらある。
恐る恐る顔を上げると、彼は机に歩み寄り、一番左の山――【至急・決裁要】の束を指先で弾いた。
「優先順位の判断が的確だ。この三ヶ月、誰も手を付けられなかった『魔窟』を、わずか二時間で更地にするとはな」
「え……?」
「前の補佐官は、この山を見て三日で逃げ出した。その前は一日だ」
彼は私の作業机に視線を移し、それから私を見た。
値踏みするような、狩人が獲物の肉質を確認するような目。
「やはり俺の目に狂いはなかった。お前は優秀な『整理屋』だ」
褒められているのだろうか。
それとも「これでお前は逃げられない」という宣告なのだろうか。
私はスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「……私の特技は、目立たないように片付けることだけですので」
「それがいい」
彼は自分の椅子に深く腰掛け、満足げに組んだ指に顎を乗せた。
「目立つ能無しは山ほどいるが、目立たない有能は稀少だ。……紅茶を淹れてくれ。茶葉はそこの棚だ」
唐突な指示。
私は一瞬戸惑ったが、すぐに「はい」と答えて給湯室の方へ向かった。
事務官補佐の仕事に、雑用も含まれるということか。
背中で彼の視線を感じながら、私はポットにお湯を注ぐ。
熱気が顔にかかり、少しだけ冷静さを取り戻せた。
殺されるわけでも、牢屋に入れられるわけでもなかった。
ただ、都合の良い労働力として認定されただけだ。
それなら、まだマシだ。
期待されず、ただ機能を果たすだけの道具として扱われるなら、私の心は守られる。
カップに紅茶を注ぎながら、私は自分の手帳をどこに置いたか思い出す。
あの栞を挟んだまま、私の席の引き出しにしまってある。
今日一日、私は生き延びた。
でも、この静かな執務室は、思った以上に居心地が良すぎて――それが逆に、怖かった。
湯気の向こうで、レオンハルト殿下が書類にペンを走らせる音が聞こえる。
その規則的な音を聞きながら、私は小さな疑問を抱いた。
彼はなぜ、あんなに溜め込むまで仕事を放置していたのだろう?
ただの怠慢には見えないその山の意味を、私はまだ知らない。




