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物語から降りた令嬢を、第二王子が放っておきません  作者: 九葉(くずは)


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3/12

第3話 静寂の執務室

 数日前に乗せられた馬車の、あの重苦しい密閉感をまだ肌が覚えている。


 私は王宮の長い回廊を歩きながら、カツ、カツと響く自分のヒールの音を聞いていた。

 磨き上げられた大理石の床は冷たく、すれ違う官僚たちの視線はよそよそしい。無理もない。無名の伯爵令嬢がいきなり第二王子の側近に抜擢されたのだ。

 妬みか、憐れみか。あるいは「愛人枠」という下世話な勘繰りか。

 どちらにせよ、私がここで歓迎されていないことだけは確かだ。


 案内役の侍従が、重厚なオーク材の扉の前で足を止めた。

 王宮の北棟、最も奥まった場所にある一室。


「こちらがレオンハルト殿下の執務室でございます」


 侍従は慇懃に頭を下げると、私が入るのを待たずに音もなく去っていった。

 取り残された私は、巨大な扉のノブに手をかける。

 冷たい金属の感触が、手のひらの汗を吸い取っていく。


 中に入れば、どんな地獄が待っているのだろう。

 過酷な労働か、それとも陰湿な無視か。

 私は大きく息を吸い込み、覚悟を決めてノブを回した。


 ギィ、と蝶番が低い音を立てる。

 身構えていた私を迎えたのは、意外なほどの静寂だった。


 部屋は広かった。

 正面奥に大きな執務机。壁一面を覆う本棚。窓からは中庭の緑が見え、風に揺れる木々の影が床に落ちている。

 人の気配はない。

 主であるレオンハルト殿下の姿もなかった。


「……失礼いたします」


 誰もいない空間に声をかけ、そっと扉を閉める。

 外界から切り離されたような静けさだ。


 私は恐る恐る部屋の中央へと進み出た。

 そこでようやく、この部屋の異常性に気づく。


 机の上だ。

 高級なマホガニーの天板が見えないほど、書類が積み上げられていた。

 それは山脈のように連なり、一部は雪崩を起こして床に散乱している。未決裁の書類、読みかけの報告書、古い羊皮紙の束。

 インク壺が無造作に置かれ、羽ペンが数本、無残に折れて転がっていた。


「うわぁ……」


 思わず声が漏れる。

 これはひどい。

 第二王子といえば聡明で知られているが、整理整頓のスキルはステータスに振らなかったらしい。


 私は部屋の隅に用意されていた、ひと回り小さな机に目をやった。

 そこが私の席らしい。

 何も置かれていない真新しい机。

 とりあえず椅子に腰を下ろし、指示を待つことにした。


 十分が過ぎた。

 三十分が過ぎた。

 一時間が経過しても、誰も来ない。


 時計の針が刻む音だけが、部屋に響く。

 私は膝の上で手を組み、じっと待っていた。これは試されているのかもしれない。「放置」という精神攻撃にどれだけ耐えられるか。


 だが、私の視線はどうしても中央の机に向かってしまう。

 今にも崩れそうな書類の塔。

 端が折れ曲がったままの羊皮紙。

 インクが滲みそうな位置にある水差し。


 指先がむず痒くなる。

 あれは、あと三センチずれたら崩れる。

 あの一番下の書類は、たぶん重要度の高い至急案件だ。紙の色が変わっている。


 私は鞄から、いつもの手帳を取り出した。

 革の表紙を開き、栞を引き抜く。

 慣れ親しんだその手触りが、私の中のスイッチを入れた。


「……少しだけ、揃えるくらいなら」


 誰に言い訳するでもなく呟き、私は立ち上がった。

 これはいじめへの対抗でも、点数稼ぎでもない。

 ただの生理現象だ。散らかった数字や文字を見ると、正しい位置に収めたくなる。私の唯一の特技であり、病気のようなもの。


 王子の机に近づく。

 まずは床に落ちたものを拾い上げる。

 日付を確認。三ヶ月前の地方税収報告。

 次、一週間前の騎士団遠征費申請書。

 その次、昨日の夜会招待状。


 時系列もジャンルもばらばらだ。これでは仕事が進むはずがない。

 私は近くにあった空の木箱を引き寄せ、手際よく分類を始めた。


 【至急・決裁要】

 【確認のみ・保存】

 【不要・廃棄】

 【保留・調査要】


 紙をめくるたび、カサカサという乾いた音が心地よく響く。

 内容を深く読まないように注意しながら、日付と差出人と件名だけで瞬時に振り分けていく。

 この作業をしている時だけは、余計なことを考えなくて済む。

 自分が「物語」から逃げ損ねたモブであることも、ここが敵地であることも、すべて忘れられる。


 無秩序な情報の海に、杭を打ち込み、道を作る。

 それが私の仕事だった。

 アンジェリカの取り巻き時代も、こうして裏で彼女の尻拭いをし続けてきたのだ。


 気づけば、机の上には四つの整然とした山ができていた。

 天板のマホガニー色が、ようやく顔を出す。

 インク壺を定位置に戻し、ペン先を拭って並べる。


 ふう、と息を吐き、額の汗を拭った。

 美しい。

 完璧な秩序だ。


 達成感に浸りながら、私は最後の一枚――栞代わりのメモ用紙を手に取った。

 その時。


「……ほう」


 背後から、感心したような声が降ってきた。

 心臓が喉の奥で跳ねる。

 完全に気配を消されていた。


 慌てて振り返ると、いつの間にか開いていた扉の前に、レオンハルト殿下が立っていた。

 ラフなシャツ姿で、腕には上着を引っ掛けている。

 その視線は私ではなく、綺麗になった机の上に注がれていた。


「も、申し訳ございません! 勝手な真似を……!」


 私は最敬礼の姿勢で頭を下げる。

 王族の机を勝手に触るなど、不敬罪で首が飛んでもおかしくない。

 やってしまった。職業病が仇になった。


「顔を上げろ」


 声に怒気は含まれていなかった。むしろ、機嫌が良い響きすらある。

 恐る恐る顔を上げると、彼は机に歩み寄り、一番左の山――【至急・決裁要】の束を指先で弾いた。


「優先順位の判断が的確だ。この三ヶ月、誰も手を付けられなかった『魔窟』を、わずか二時間で更地にするとはな」


「え……?」


「前の補佐官は、この山を見て三日で逃げ出した。その前は一日だ」


 彼は私の作業机に視線を移し、それから私を見た。

 値踏みするような、狩人が獲物の肉質を確認するような目。


「やはり俺の目に狂いはなかった。お前は優秀な『整理屋』だ」


 褒められているのだろうか。

 それとも「これでお前は逃げられない」という宣告なのだろうか。

 私はスカートの裾をぎゅっと握りしめた。


「……私の特技は、目立たないように片付けることだけですので」


「それがいい」


 彼は自分の椅子に深く腰掛け、満足げに組んだ指に顎を乗せた。


「目立つ能無しは山ほどいるが、目立たない有能は稀少だ。……紅茶を淹れてくれ。茶葉はそこの棚だ」


 唐突な指示。

 私は一瞬戸惑ったが、すぐに「はい」と答えて給湯室の方へ向かった。

 事務官補佐の仕事に、雑用も含まれるということか。


 背中で彼の視線を感じながら、私はポットにお湯を注ぐ。

 熱気が顔にかかり、少しだけ冷静さを取り戻せた。


 殺されるわけでも、牢屋に入れられるわけでもなかった。

 ただ、都合の良い労働力として認定されただけだ。

 それなら、まだマシだ。

 期待されず、ただ機能を果たすだけの道具として扱われるなら、私の心は守られる。


 カップに紅茶を注ぎながら、私は自分の手帳をどこに置いたか思い出す。

 あの栞を挟んだまま、私の席の引き出しにしまってある。


 今日一日、私は生き延びた。

 でも、この静かな執務室は、思った以上に居心地が良すぎて――それが逆に、怖かった。


 湯気の向こうで、レオンハルト殿下が書類にペンを走らせる音が聞こえる。

 その規則的な音を聞きながら、私は小さな疑問を抱いた。

 彼はなぜ、あんなに溜め込むまで仕事を放置していたのだろう?

 ただの怠慢には見えないその山の意味を、私はまだ知らない。

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