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物語から降りた令嬢を、第二王子が放っておきません  作者: 九葉(くずは)


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2/12

第2話 招かれざる採用通知

 昨夜のバルコニーで聞いた「逃げるなよ」という低い声が、まだ耳の奥に粘りついて離れない。


 私は頭を振り、その不吉な残響を追い払うように目の前の木箱へ視線を落とした。

 窓から差し込む朝日は柔らかく、昨夜の出来事がまるで悪い夢だったかのように錯覚させる。だが、夢ではない。あの第二王子レオンハルト殿下は、確かに私を見つけ、捕まえると宣言したのだ。


 だからこそ、一刻も早くここを去らなければならない。


 私は手元のドレスを丁寧に畳み、木箱の底へと押し込んだ。

 絹の感触が指先から離れるたび、王都での未練も一緒に手放していく感覚になる。


「これで最後」


 愛用していた革表紙の手帳を、一番上に載せる。

 本来なら昨夜のパーティーで役目を終え、暖炉に放り込むつもりだったものだ。けれど、まだ捨てられない。これが私の、この世界で生き抜いてきた唯一の戦歴だからかもしれない。


 栞が挟まったままのその手帳を、私は古着で覆い隠した。

 もう開くことはない。

 これからは、領地の片隅で、数字合わせではなく花の名前でも覚えて暮らすのだ。


 木箱の蓋を閉める。

 ずしりとした木の重みが、新しい人生の土台になる気がした。


 あとは馬車の手配だ。父上には今朝一番で「領地の別荘管理をしてきたい」と伝えてある。許可はまだだが、強行突破するつもりだった。


 コンコン、と扉がノックされる。

 執事のセバスだろうか。馬車の準備ができたのかもしれない。


「お嬢様、旦那様がお呼びです」


 扉越しに聞こえた声は、いつもより少し上擦っていた。

 私は立ち上がり、鏡の前で乱れた髪を直す。


「すぐに行くわ」


 廊下に出ると、セバスの顔色が妙に赤いことに気づいた。興奮と、畏怖が入り混じったような表情。


「王宮より、使いの方がお見えです」


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 足が止まる。

 王宮? まさか。


「……どなたの使い?」


「第二王子、レオンハルト殿下の筆頭侍従とおっしゃっていました」


 廊下の床が冷たく沈み込んだような錯覚を覚える。

 昨夜の宣言は、冗談でも気まぐれでもなかった。

 朝一番で、しかも筆頭侍従を寄越すなんて。


 逃げる時間は、最初から与えられていなかったのだ。


 応接間への道のりが、処刑台への階段のように長く感じられた。

 重厚な扉が開かれる。


 部屋の中央、父上が緊張した面持ちでソファーの端に座っていた。その対面に、仕立ての良い燕尾服を着た初老の男性が座っている。

 私が部屋に入ると、彼は流れるような動作で立ち上がり、完璧な礼をした。


「突然の訪問、失礼いたします。エリナ・ベルジュ様ですね」


「……はい」


 喉が張り付いて、短い返事しか出てこない。

 侍従の目は穏やかだが、その奥には王家に仕える者特有の、有無を言わせぬ圧力が潜んでいた。


「本日は、レオンハルト殿下より書状を預かって参りました」


 差し出されたのは、王家の紋章が入った封筒。

 蝋封はすでに切られている。父上が中身を確認したのだろう。

 私は震える指先を隠すように、両手でそれを受け取った。


 中から出てきたのは、分厚い羊皮紙が一枚。


『辞令 エリナ・ベルジュ

 本日付ヲ以テ、第二王子付事務官補佐ニ任ズル』


 文字を目で追うたび、視界が暗くなっていく。

 事務官補佐。

 聞こえはいいが、要するに王子の側近だ。

 一番目立ってはいけない場所。物語の裏側を知りすぎた人間が、一番配置されてはいけない場所。


「……あの、これは」


「殿下は、昨夜の貴女様の聡明さに深く感銘を受けられたとのこと。『彼女のような人材を野に埋もれさせるのは国の損失だ』と」


 侍従の口調は、まるで美談を語る吟遊詩人のようだ。

 けれど私にはわかる。

 これは、口封じだ。


 私は昨夜、王子の前で「裏工作」の事実を暴かれた。

 王家の醜聞や貴族の不正を操作できる人間を、野放しにしておくはずがない。手元に置いて監視し、使い潰す気なのだ。

 「国のため」なんて、綺麗な包装紙に過ぎない。


「……恐れ多いお話です。ですが、私にはそのような大役を務める能力など……それに、本日から領地へ戻り、静養する予定でして」


 精一杯の抵抗を試みる。

 しかし、侍従は眉一つ動かさなかった。

 代わりに、父上が前のめりに口を開く。


「何を言っているんだ、エリナ! これはベルジュ家にとって最高の名誉だぞ。殿下が直々に指名してくださったのだ。断るなどありえない」


 父の顔は、喜びで紅潮していた。

 そうだった。父は出世欲の強い人ではないが、王家への忠誠心は人一倍厚い。そして何より、娘が「選ばれた」という事実が嬉しいのだ。

 その「選ばれた」意味が、ただの監視対象だとしても。


「ですがお父様」


「ご安心ください」


 侍従が私の言葉を遮るように、穏やかに、しかし断定的に言った。


「王宮内に専用の部屋をご用意しております。静養が必要であれば、激務にならぬよう配慮せよと殿下からも仰せつかっております。……それに」


 彼は一瞬だけ声を低くし、私にだけ聞こえるような声量で付け加えた。


「『昨夜の忘れ物を、返さねばならないだろう?』と」


 血の気が引いた。

 忘れ物?

 私は何も忘れていない。手帳も、栞も、ここにある。

 いや、違う。

 物理的な忘れ物ではない。

 昨夜、彼に見られてしまった「正体」のことだ。

 あれを人質に取られている。


 断れば、家ごとどうなるか分からない。

 そういう脅しが含まれていると理解した瞬間、膝の力が抜けそうになった。


「……謹んで、お受けいたします」


 唇が勝手に動いていた。

 これ以外の正解が、この部屋には存在しなかった。


「賢明なご判断、感謝いたします。では、馬車を待たせておりますので」


「今から、ですか?」


「はい。殿下がお待ちです」


 侍従はにっこりと微笑んだ。その笑顔は、逃げ道を完全に塞いだ狩人のそれだった。


 部屋に戻ることを許されたのは、着替えのためのわずかな時間だけだった。

 私は自室の扉を閉め、その場に立ち尽くす。


 窓際には、先ほど閉じたばかりの木箱が置いてある。

 あの中には、私の夢見ていた平穏な未来が詰まっていた。

 花を育て、本を読み、誰の目も気にせず生きる日々。


 私は木箱に歩み寄り、そっと手を置いた。

 木の冷たい感触が、手のひらを通して胸に広がる。

 釘を打って完全に封をするはずだったのに、今はただの邪魔な荷物になってしまった。


「……ごめんね」


 誰に謝っているのか、自分でも分からない。

 私は木箱を部屋の隅、クローゼットの奥へと押しやった。

 重い。

 引きずられる音が、私の未練の叫びのように床を擦る。


 着替えを済ませ、手帳を鞄に入れる。

 置いていこうかとも思ったが、やはり手放せなかった。これが唯一の武器であり、私が私であるためのいかりのように思えたからだ。


 廊下に出ると、セバスが心配そうに私を見ていた。


「お嬢様、お気をつけて」


「ええ。行ってくるわ」


 ただの出仕ではない。

 これは、新しい戦場への出立だ。

 ヒロインも悪役令嬢もいない、もっと冷たくて静かな、王子の監視下という戦場。


 玄関を出ると、王家の紋章が入った黒塗りの馬車が、巨大な怪物のように口を開けて待っていた。

 私は深呼吸を一つして、その中へと足を踏み入れる。


 扉が閉まる音と共に、世界が切り取られた。

 車輪が回り始める。

 遠ざかる実家を窓から見ることはしなかった。見れば、きっと泣いてしまう。


 逃げ道はなくなった。

 ならば、どうやってあの捕食者の懐で生き延びるか。

 私は鞄の留め具を強く握りしめ、揺れる車内で覚悟を決めるための計算を始めた。

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