第2話 招かれざる採用通知
昨夜のバルコニーで聞いた「逃げるなよ」という低い声が、まだ耳の奥に粘りついて離れない。
私は頭を振り、その不吉な残響を追い払うように目の前の木箱へ視線を落とした。
窓から差し込む朝日は柔らかく、昨夜の出来事がまるで悪い夢だったかのように錯覚させる。だが、夢ではない。あの第二王子レオンハルト殿下は、確かに私を見つけ、捕まえると宣言したのだ。
だからこそ、一刻も早くここを去らなければならない。
私は手元のドレスを丁寧に畳み、木箱の底へと押し込んだ。
絹の感触が指先から離れるたび、王都での未練も一緒に手放していく感覚になる。
「これで最後」
愛用していた革表紙の手帳を、一番上に載せる。
本来なら昨夜のパーティーで役目を終え、暖炉に放り込むつもりだったものだ。けれど、まだ捨てられない。これが私の、この世界で生き抜いてきた唯一の戦歴だからかもしれない。
栞が挟まったままのその手帳を、私は古着で覆い隠した。
もう開くことはない。
これからは、領地の片隅で、数字合わせではなく花の名前でも覚えて暮らすのだ。
木箱の蓋を閉める。
ずしりとした木の重みが、新しい人生の土台になる気がした。
あとは馬車の手配だ。父上には今朝一番で「領地の別荘管理をしてきたい」と伝えてある。許可はまだだが、強行突破するつもりだった。
コンコン、と扉がノックされる。
執事のセバスだろうか。馬車の準備ができたのかもしれない。
「お嬢様、旦那様がお呼びです」
扉越しに聞こえた声は、いつもより少し上擦っていた。
私は立ち上がり、鏡の前で乱れた髪を直す。
「すぐに行くわ」
廊下に出ると、セバスの顔色が妙に赤いことに気づいた。興奮と、畏怖が入り混じったような表情。
「王宮より、使いの方がお見えです」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
足が止まる。
王宮? まさか。
「……どなたの使い?」
「第二王子、レオンハルト殿下の筆頭侍従とおっしゃっていました」
廊下の床が冷たく沈み込んだような錯覚を覚える。
昨夜の宣言は、冗談でも気まぐれでもなかった。
朝一番で、しかも筆頭侍従を寄越すなんて。
逃げる時間は、最初から与えられていなかったのだ。
応接間への道のりが、処刑台への階段のように長く感じられた。
重厚な扉が開かれる。
部屋の中央、父上が緊張した面持ちでソファーの端に座っていた。その対面に、仕立ての良い燕尾服を着た初老の男性が座っている。
私が部屋に入ると、彼は流れるような動作で立ち上がり、完璧な礼をした。
「突然の訪問、失礼いたします。エリナ・ベルジュ様ですね」
「……はい」
喉が張り付いて、短い返事しか出てこない。
侍従の目は穏やかだが、その奥には王家に仕える者特有の、有無を言わせぬ圧力が潜んでいた。
「本日は、レオンハルト殿下より書状を預かって参りました」
差し出されたのは、王家の紋章が入った封筒。
蝋封はすでに切られている。父上が中身を確認したのだろう。
私は震える指先を隠すように、両手でそれを受け取った。
中から出てきたのは、分厚い羊皮紙が一枚。
『辞令 エリナ・ベルジュ
本日付ヲ以テ、第二王子付事務官補佐ニ任ズル』
文字を目で追うたび、視界が暗くなっていく。
事務官補佐。
聞こえはいいが、要するに王子の側近だ。
一番目立ってはいけない場所。物語の裏側を知りすぎた人間が、一番配置されてはいけない場所。
「……あの、これは」
「殿下は、昨夜の貴女様の聡明さに深く感銘を受けられたとのこと。『彼女のような人材を野に埋もれさせるのは国の損失だ』と」
侍従の口調は、まるで美談を語る吟遊詩人のようだ。
けれど私にはわかる。
これは、口封じだ。
私は昨夜、王子の前で「裏工作」の事実を暴かれた。
王家の醜聞や貴族の不正を操作できる人間を、野放しにしておくはずがない。手元に置いて監視し、使い潰す気なのだ。
「国のため」なんて、綺麗な包装紙に過ぎない。
「……恐れ多いお話です。ですが、私にはそのような大役を務める能力など……それに、本日から領地へ戻り、静養する予定でして」
精一杯の抵抗を試みる。
しかし、侍従は眉一つ動かさなかった。
代わりに、父上が前のめりに口を開く。
「何を言っているんだ、エリナ! これはベルジュ家にとって最高の名誉だぞ。殿下が直々に指名してくださったのだ。断るなどありえない」
父の顔は、喜びで紅潮していた。
そうだった。父は出世欲の強い人ではないが、王家への忠誠心は人一倍厚い。そして何より、娘が「選ばれた」という事実が嬉しいのだ。
その「選ばれた」意味が、ただの監視対象だとしても。
「ですがお父様」
「ご安心ください」
侍従が私の言葉を遮るように、穏やかに、しかし断定的に言った。
「王宮内に専用の部屋をご用意しております。静養が必要であれば、激務にならぬよう配慮せよと殿下からも仰せつかっております。……それに」
彼は一瞬だけ声を低くし、私にだけ聞こえるような声量で付け加えた。
「『昨夜の忘れ物を、返さねばならないだろう?』と」
血の気が引いた。
忘れ物?
私は何も忘れていない。手帳も、栞も、ここにある。
いや、違う。
物理的な忘れ物ではない。
昨夜、彼に見られてしまった「正体」のことだ。
あれを人質に取られている。
断れば、家ごとどうなるか分からない。
そういう脅しが含まれていると理解した瞬間、膝の力が抜けそうになった。
「……謹んで、お受けいたします」
唇が勝手に動いていた。
これ以外の正解が、この部屋には存在しなかった。
「賢明なご判断、感謝いたします。では、馬車を待たせておりますので」
「今から、ですか?」
「はい。殿下がお待ちです」
侍従はにっこりと微笑んだ。その笑顔は、逃げ道を完全に塞いだ狩人のそれだった。
部屋に戻ることを許されたのは、着替えのためのわずかな時間だけだった。
私は自室の扉を閉め、その場に立ち尽くす。
窓際には、先ほど閉じたばかりの木箱が置いてある。
あの中には、私の夢見ていた平穏な未来が詰まっていた。
花を育て、本を読み、誰の目も気にせず生きる日々。
私は木箱に歩み寄り、そっと手を置いた。
木の冷たい感触が、手のひらを通して胸に広がる。
釘を打って完全に封をするはずだったのに、今はただの邪魔な荷物になってしまった。
「……ごめんね」
誰に謝っているのか、自分でも分からない。
私は木箱を部屋の隅、クローゼットの奥へと押しやった。
重い。
引きずられる音が、私の未練の叫びのように床を擦る。
着替えを済ませ、手帳を鞄に入れる。
置いていこうかとも思ったが、やはり手放せなかった。これが唯一の武器であり、私が私であるための錨のように思えたからだ。
廊下に出ると、セバスが心配そうに私を見ていた。
「お嬢様、お気をつけて」
「ええ。行ってくるわ」
ただの出仕ではない。
これは、新しい戦場への出立だ。
ヒロインも悪役令嬢もいない、もっと冷たくて静かな、王子の監視下という戦場。
玄関を出ると、王家の紋章が入った黒塗りの馬車が、巨大な怪物のように口を開けて待っていた。
私は深呼吸を一つして、その中へと足を踏み入れる。
扉が閉まる音と共に、世界が切り取られた。
車輪が回り始める。
遠ざかる実家を窓から見ることはしなかった。見れば、きっと泣いてしまう。
逃げ道はなくなった。
ならば、どうやってあの捕食者の懐で生き延びるか。
私は鞄の留め具を強く握りしめ、揺れる車内で覚悟を決めるための計算を始めた。




