第12話 新しいページの1行目
差し出されたあの手の熱さが、数日経った今も手のひらに焼き付いている。
私は執務室の窓から、初夏の陽射しに輝く中庭を見下ろした。
あの日、聖女アリスが大聖堂に立てこもった騒ぎは、レオンハルト殿下の迅速すぎる——いっそ冷酷とも言える——手回しによって、表向きは「聖女様の長旅の疲労による錯乱」として処理された。
邪悪な影、という不穏な予言も、公式記録からは綺麗に削除されている。
けれど、それは嵐が去ったわけではない。
ただ、一時的に風が止んだだけだ。
私は窓辺を離れ、自分のデスクに戻った。
山積みだった書類は、今では心地よい高さの丘になっている。
私は一枚の羊皮紙を手に取った。
王宮人事局からの通達。
『聖女アリス・ミルフォード、王宮付き特別顧問として着任』
インクの文字が、黒い蜘蛛のように目にへばりつく。
やはり、物語の強制力は彼女をこの舞台へ上げようとしている。
以前の私なら、この紙を見た瞬間に荷物をまとめて逃げ出していただろう。逃亡ルートを検索し、退職金の計算を始めていたはずだ。
でも今は、違う。
私は羊皮紙をファイルに綴じ、その上に重石代わりのペーパーウェイトを置いた。
ドン、という重い音が、腹の底に響く。
逃げない。
そう決めたのだ。
ポケットの中には、あの栞がある。
指先でその輪郭をなぞる。
かつては「物語の進行」を測るための定規だったそれが、今は「ここが私の居場所だ」と告げる錨になっている。
ガチャリと扉が開いた。
レオンハルト殿下が入ってくる。
会議帰りだろうか、少し疲れた様子でネクタイを緩めている。
「……アリスの着任が決まったな」
彼は開口一番、そう言った。
私が隠そうとしたファイルを、彼はずっと前からお見通しだったらしい。
「はい。来週には正式に登城されるそうです」
「面倒なことだ」
彼は不機嫌そうに吐き捨て、ドカッと椅子に座った。
以前なら、この不機嫌さを「私への当てつけ」だと誤解していただろう。でも今は分かる。
これは純粋に、自分のテリトリーに異物が混入することへの不快感だ。
「殿下、お茶を淹れますね」
私は席を立ち、給湯台へ向かった。
背中で彼の視線を感じる。
監視するような鋭さはもうなく、どこか弛緩した、安心しきった空気。
ポットからお湯を注ぐ。
少し冷まして、彼好みの「ぬるい」温度にする。
この一手間が、私と彼の間にある秘密の暗号のようで、口元が勝手に緩んでしまう。
カップをデスクに置くと、彼は書類から目を離し、私を見上げた。
「エリナ」
「はい」
「今日はこれから、視察に行く」
唐突な言葉に、私は首を傾げた。
今日のスケジュールに視察の予定はない。
「どちらへ? 至急、警護班に連絡を……」
「不要だ。王宮の回廊を歩くだけだ」
彼は立ち上がり、カップの紅茶を一気に飲み干した。
そして、またしても右手を差し出してくる。
「行くぞ。エスコートが必要だ」
「……殿下、それは逆です。私が殿下を補佐するのです」
「同じことだ」
彼は強引に私の手を取り、腕に絡ませた。
しっかりとした筋肉の感触が伝わってくる。
これは仕事ではない。
デモンストレーションだ。
私たちは執務室を出て、王宮のメイン回廊へと足を踏み出した。
午後の回廊は、多くの貴族や官僚たちが行き交っている。
第二王子と、その側近である地味な伯爵令嬢。
その二人が腕を組んで歩く姿は、どんな言葉よりも雄弁な宣言だった。
すれ違う人々が、驚愕に目を見開き、慌てて道を空ける。
ひそひそ話が波紋のように広がるが、殿下は一切気に留めない。堂々と、胸を張って歩を進める。
以前なら、恥ずかしくて顔を伏せていただろう。
「モブが調子に乗るな」という幻聴に怯えていただろう。
でも今の私は、隣を歩く彼の横顔を、真っ直ぐに見ることができた。
彼は、私を選んだ。
物語のヒロインでもなく、都合の良い悪役でもなく。
ただの、エリナという人間を。
「……誰も、寄ってきませんね」
私が小さく呟くと、彼は前を見たまま鼻を鳴らした。
「当たり前だ。俺が噛み付くと思っているんだろう」
「実際、噛み付くではありませんか」
「必要な時だけな」
彼は繋いだ腕に、ぐっと力を込めた。
痛いほどではない。
離さない、という意志が伝わるだけの強さ。
回廊の窓から、西日が差し込んでくる。
床に伸びる私たちの影が、一つに重なって長く伸びていた。
聖女が来る。
きっとこれから、ゲームのシナリオじみたトラブルが山のように押し寄せてくるだろう。
断罪イベントよりも厄介な、正義の暴走や、運命の強制力が。
でも、怖くはなかった。
私のポケットには栞がある。
そして隣には、シナリオを破り捨てた王子がいる。
「殿下」
「ん?」
「私、もうどこへも逃げませんから」
言うと、彼は足を止めた。
回廊の真ん中。
衆人環視の中、彼は私の方を向き、悪戯っ子のように目を細めた。
「知っている。お前の逃げ道は、全部俺が塞いだからな」
彼は満足げに笑い、再び歩き出した。
その不敵な笑顔が、何よりも頼もしく、そして愛おしかった。
選ばれないはずの令嬢と、物語を信じない王子。
私たちの新しい物語は、まだタイトルすら決まっていない。
けれど、この白紙のページの1行目を、私は彼と共に書き始めていくのだ。
私は彼に引かれるまま、光の満ちる回廊の先へと踏み出した。
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