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物語から降りた令嬢を、第二王子が放っておきません  作者: 九葉(くずは)


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10/12

第10話 逃げられない理由

 報告書の隅に走っていた『処理済』の赤い文字が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


 私は王宮の長い廊下を歩きながら、すれ違う人々の視線が変わったことを肌で感じていた。

 先週までの「侮蔑」や「好奇」ではない。

 もっと重く、粘着質な「恐怖」。

 誰も私と目を合わせようとしない。衣擦れの音さえ立てないように、皆が息を潜めて私をやり過ごしていく。


 まるで、腫れ物に触るように。

 あるいは、暴君の寵愛を受けた愛妾を見るように。


 私は無意識に鞄を抱きしめた。

 中には、いつもの革の手帳が入っている。けれど、その重みは以前のような安心感を与えてくれない。

 私が安易に書いた「業務妨害報告書」が、引き金を引いてしまったのだ。


 給湯室の前を通った時、押し殺したような囁き声が漏れ聞こえてきた。


「……バルネ家のご令嬢、修道院送りになったそうよ」

「お父上の横領まで暴かれたんですって。たった一晩で、家ごと潰されるなんて」

「第二王子殿下は本気よ。あの方に関わったら、どんな些細なことでも消されるわ」


 足が止まる。

 バルネ家。先日、資料室で私のファイルを隠した令嬢の実家だ。

 たかが書類の破損。たかが嫌がらせ。

 それに対する報復が、家名断絶レベルの粛清だなんて。


 手が震えた。

 やりすぎだ。

 これは物語のバランスを崩す。

 本来、第二王子レオンハルトは冷徹だが公正な人物として描かれている。私怨で権力を振るうようなキャラではない。

 それが、私のせいで歪んでしまった。


「……私が、原因」


 モブが物語に干渉しすぎると、世界はバグを起こす。

 断罪回避まではよかった。あれはマイナスをゼロに戻す作業だったから。

 でも、これは違う。

 私がここに居座り続けることで、彼を「暴君」に変えてしまっている。


 私は給湯室に入るのをやめ、踵を返した。

 向かう先は、人気のない中庭のベンチではない。執務室だ。

 終わらせなければならない。

 私の安っぽい保身が、彼の物語を壊す前に。


 執務室の重厚な扉の前に立つ。

 一度深呼吸をして、私はノブを回した。


 部屋の中は、夕暮れに染まっていた。

 西日が窓から長く伸び、書類の山にオレンジ色の影を落としている。

 レオンハルト殿下は、窓辺に立って外を見ていた。

 逆光で表情は見えない。ただ、その背中がひどく孤独に見えて、胸が締め付けられた。


「……戻りました」


 声をかけると、彼がゆっくりと振り返る。


「遅かったな。紅茶が冷めたぞ」


 普段通りの、平坦な声。

 それが逆に恐ろしかった。彼は自分のやったこと――数件の貴族家を破滅させたこと――に対して、何の後悔も動揺も抱いていない。

 私が淹れるべきだった紅茶が、手つかずのままデスクに置かれている。


 私は自分の席には戻らず、彼のデスクの前まで進み出た。

 鞄から、一枚の封筒を取り出す。

 来る前に、震える手で書き上げたものだ。


「殿下。お話があります」


「なんだ」


 彼は窓辺から離れ、デスクに近づいてくる。

 私は封筒を、彼の目の前に差し出した。

 白い紙が、夕日に染まって赤く見える。


「辞職願です」


 空気が凍った。

 カチリ、と時計の針が進む音が響く。

 殿下は封筒を見ようともせず、ただ私の顔をじっと見つめた。

 その瞳の色が、夕焼けのせいか、それとも怒りのせいか、暗く濁っていく。


「……理由は」


「私は、殿下の側近にふさわしくありません」


 用意していた言葉を並べる。

 嘘ではない。本心だ。


「私の存在が、殿下の評判を傷つけています。今回の粛清も……あまりに過大です。私のような一介の事務官のために、殿下が手を汚す必要などありませんでした」


「俺が手を汚した? 違うな。俺はゴミを掃除しただけだ」


 彼は冷たく言い放つと、私の手から封筒をひったくった。

 そして、中身を確かめることもなく、そのままクシャリと握り潰した。

 乾いた音が、私の心臓を叩く。


「殿下!」


「ふさわしいかどうかは、お前が決めることじゃない。俺が決める」


 彼がデスクを回り込み、私に迫る。

 一歩下がるが、すぐに背中が本棚にぶつかった。

 逃げ場がない。

 彼は私の顔のすぐ横に手をつき、私をその腕の中に閉じ込めた。


「お前は、俺が評判など気にしていると思うのか?」


 近い。

 彼の吐息がかかる距離で、私は息を呑む。

 整った顔立ちが、怒りで歪んでいる。その表情は、ゲームの中で見たどのスチルよりも生々しく、そして人間臭かった。


「……物語では、殿下は賢王として……」


「物語、物語、物語!」


 彼は叫ぶように言い、壁をドンと叩いた。

 本棚が揺れ、数冊の本がバランスを崩す。


「いつまでその下らない台本に縛られている? 俺はここにいる。お前もそこにいる。それだけが事実だ」


 彼の指が、私の顎をすくい上げる。

 強制的に視線を合わせられる。

 その瞳の奥にあるのは、狂気ではない。もっと純粋で、切実な渇望だった。


「俺が見ているのは、役柄じゃない。お前だ。断罪の夜、誰にも褒められず、誰も見ていないところで、一人で震えながら仕事を完遂していたお前だ」


 言葉が、胸に突き刺さる。

 私が必死に隠してきた「私」という個人を、彼は暴き立てる。


「私が……怖いんです。私のせいで、殿下の道が歪んでしまうのが」


 本音が漏れた。

 彼はふっと表情を緩め、皮肉っぽく、けれどどこか優しく笑った。


「歪む? 笑わせるな。俺の道など、最初から歪んでいる」


 彼の手が、私の頬に触れる。

 その指先は熱く、強引で、でも泣きたくなるほど丁寧だった。


「俺は物語のレールになど乗る気はない。欲しいものは奪うし、邪魔なものは排除する。お前がそれを『悪役』のやり方だと言うなら、甘んじて受け入れよう」


 彼は私の目を覗き込む。


「だが、お前を手放すつもりはない。辞表など二度と書くな」


 握り潰された封筒が、床に落ちた。

 白い紙屑。

 それは私のささやかな抵抗の残骸であり、彼への降伏文書でもあった。


 力が抜けた。

 彼に囲まれたこの狭い空間だけが、世界から切り離された安全地帯のように思えてしまう。

 それは間違っている。

 でも、こんなに強く求められて、拒絶できるほど私は強くない。


「……殿下の、暴君」


 精一杯の憎まれ口を叩くと、彼は満足そうに鼻を鳴らした。


「最高の褒め言葉だ」


 彼は私から離れ、冷めた紅茶を一気に飲み干した。

 夕闇が迫る部屋で、私は自分の席に戻ることもできず、ただ立ち尽くしていた。


 逃げられない。

 物理的な鎖ではない。彼が私に向けたこの重い執着と、それを「嬉しい」と感じてしまった自分の心からは、もう逃げられないのだと悟った。


 床に落ちた丸められた紙屑が、新しい契約書のように私を見上げていた。

 私はこの人の隣で、物語を壊す共犯者になるしかないのだろうか。

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