第10話 逃げられない理由
報告書の隅に走っていた『処理済』の赤い文字が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
私は王宮の長い廊下を歩きながら、すれ違う人々の視線が変わったことを肌で感じていた。
先週までの「侮蔑」や「好奇」ではない。
もっと重く、粘着質な「恐怖」。
誰も私と目を合わせようとしない。衣擦れの音さえ立てないように、皆が息を潜めて私をやり過ごしていく。
まるで、腫れ物に触るように。
あるいは、暴君の寵愛を受けた愛妾を見るように。
私は無意識に鞄を抱きしめた。
中には、いつもの革の手帳が入っている。けれど、その重みは以前のような安心感を与えてくれない。
私が安易に書いた「業務妨害報告書」が、引き金を引いてしまったのだ。
給湯室の前を通った時、押し殺したような囁き声が漏れ聞こえてきた。
「……バルネ家のご令嬢、修道院送りになったそうよ」
「お父上の横領まで暴かれたんですって。たった一晩で、家ごと潰されるなんて」
「第二王子殿下は本気よ。あの方に関わったら、どんな些細なことでも消されるわ」
足が止まる。
バルネ家。先日、資料室で私のファイルを隠した令嬢の実家だ。
たかが書類の破損。たかが嫌がらせ。
それに対する報復が、家名断絶レベルの粛清だなんて。
手が震えた。
やりすぎだ。
これは物語のバランスを崩す。
本来、第二王子レオンハルトは冷徹だが公正な人物として描かれている。私怨で権力を振るうようなキャラではない。
それが、私のせいで歪んでしまった。
「……私が、原因」
モブが物語に干渉しすぎると、世界はバグを起こす。
断罪回避まではよかった。あれはマイナスをゼロに戻す作業だったから。
でも、これは違う。
私がここに居座り続けることで、彼を「暴君」に変えてしまっている。
私は給湯室に入るのをやめ、踵を返した。
向かう先は、人気のない中庭のベンチではない。執務室だ。
終わらせなければならない。
私の安っぽい保身が、彼の物語を壊す前に。
執務室の重厚な扉の前に立つ。
一度深呼吸をして、私はノブを回した。
部屋の中は、夕暮れに染まっていた。
西日が窓から長く伸び、書類の山にオレンジ色の影を落としている。
レオンハルト殿下は、窓辺に立って外を見ていた。
逆光で表情は見えない。ただ、その背中がひどく孤独に見えて、胸が締め付けられた。
「……戻りました」
声をかけると、彼がゆっくりと振り返る。
「遅かったな。紅茶が冷めたぞ」
普段通りの、平坦な声。
それが逆に恐ろしかった。彼は自分のやったこと――数件の貴族家を破滅させたこと――に対して、何の後悔も動揺も抱いていない。
私が淹れるべきだった紅茶が、手つかずのままデスクに置かれている。
私は自分の席には戻らず、彼のデスクの前まで進み出た。
鞄から、一枚の封筒を取り出す。
来る前に、震える手で書き上げたものだ。
「殿下。お話があります」
「なんだ」
彼は窓辺から離れ、デスクに近づいてくる。
私は封筒を、彼の目の前に差し出した。
白い紙が、夕日に染まって赤く見える。
「辞職願です」
空気が凍った。
カチリ、と時計の針が進む音が響く。
殿下は封筒を見ようともせず、ただ私の顔をじっと見つめた。
その瞳の色が、夕焼けのせいか、それとも怒りのせいか、暗く濁っていく。
「……理由は」
「私は、殿下の側近にふさわしくありません」
用意していた言葉を並べる。
嘘ではない。本心だ。
「私の存在が、殿下の評判を傷つけています。今回の粛清も……あまりに過大です。私のような一介の事務官のために、殿下が手を汚す必要などありませんでした」
「俺が手を汚した? 違うな。俺はゴミを掃除しただけだ」
彼は冷たく言い放つと、私の手から封筒をひったくった。
そして、中身を確かめることもなく、そのままクシャリと握り潰した。
乾いた音が、私の心臓を叩く。
「殿下!」
「ふさわしいかどうかは、お前が決めることじゃない。俺が決める」
彼がデスクを回り込み、私に迫る。
一歩下がるが、すぐに背中が本棚にぶつかった。
逃げ場がない。
彼は私の顔のすぐ横に手をつき、私をその腕の中に閉じ込めた。
「お前は、俺が評判など気にしていると思うのか?」
近い。
彼の吐息がかかる距離で、私は息を呑む。
整った顔立ちが、怒りで歪んでいる。その表情は、ゲームの中で見たどのスチルよりも生々しく、そして人間臭かった。
「……物語では、殿下は賢王として……」
「物語、物語、物語!」
彼は叫ぶように言い、壁をドンと叩いた。
本棚が揺れ、数冊の本がバランスを崩す。
「いつまでその下らない台本に縛られている? 俺はここにいる。お前もそこにいる。それだけが事実だ」
彼の指が、私の顎をすくい上げる。
強制的に視線を合わせられる。
その瞳の奥にあるのは、狂気ではない。もっと純粋で、切実な渇望だった。
「俺が見ているのは、役柄じゃない。お前だ。断罪の夜、誰にも褒められず、誰も見ていないところで、一人で震えながら仕事を完遂していたお前だ」
言葉が、胸に突き刺さる。
私が必死に隠してきた「私」という個人を、彼は暴き立てる。
「私が……怖いんです。私のせいで、殿下の道が歪んでしまうのが」
本音が漏れた。
彼はふっと表情を緩め、皮肉っぽく、けれどどこか優しく笑った。
「歪む? 笑わせるな。俺の道など、最初から歪んでいる」
彼の手が、私の頬に触れる。
その指先は熱く、強引で、でも泣きたくなるほど丁寧だった。
「俺は物語のレールになど乗る気はない。欲しいものは奪うし、邪魔なものは排除する。お前がそれを『悪役』のやり方だと言うなら、甘んじて受け入れよう」
彼は私の目を覗き込む。
「だが、お前を手放すつもりはない。辞表など二度と書くな」
握り潰された封筒が、床に落ちた。
白い紙屑。
それは私のささやかな抵抗の残骸であり、彼への降伏文書でもあった。
力が抜けた。
彼に囲まれたこの狭い空間だけが、世界から切り離された安全地帯のように思えてしまう。
それは間違っている。
でも、こんなに強く求められて、拒絶できるほど私は強くない。
「……殿下の、暴君」
精一杯の憎まれ口を叩くと、彼は満足そうに鼻を鳴らした。
「最高の褒め言葉だ」
彼は私から離れ、冷めた紅茶を一気に飲み干した。
夕闇が迫る部屋で、私は自分の席に戻ることもできず、ただ立ち尽くしていた。
逃げられない。
物理的な鎖ではない。彼が私に向けたこの重い執着と、それを「嬉しい」と感じてしまった自分の心からは、もう逃げられないのだと悟った。
床に落ちた丸められた紙屑が、新しい契約書のように私を見上げていた。
私はこの人の隣で、物語を壊す共犯者になるしかないのだろうか。




