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物語から降りた令嬢を、第二王子が放っておきません  作者: 九葉(くずは)


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第1話 終わったはずの夜に

 耳の奥で、断罪劇を締めくくった拍手の音がまだ鳴り止まない。


 私は重厚なベルベットのカーテンをすり抜け、夜風の吹き込むバルコニーへと滑り込んだ。

 背後にある大広間からは、新しい時代の到来を祝うワルツと、貴族たちの興奮したざわめきが漏れ聞こえてくる。


 震える指先で、胸元の隠しポケットに入れた手帳の感触を確かめる。

 硬い革の表紙と、そこに挟まれた栞の厚み。

 その感触だけが、私が成し遂げたことの証拠だった。


 終わった。

 ようやく、私の役割が終わったのだ。


 手すりに寄りかかり、大きく息を吐き出す。

 肺の中の空気をすべて入れ替えるように、深く、長く。

 夜の冷気が、火照った頬と、緊張で張り詰めていた神経をゆっくりと冷やしていく。


「……お疲れ様、私」


 誰にも聞こえない声量で、自分を労う。

 ここは乙女ゲーム『銀の王冠と薔薇の剣』の世界。

 そして私は、悪役令嬢アンジェリカの取り巻きの一人、伯爵令嬢エリナ・ベルジュだ。


 本来のシナリオ通りなら、今頃私はアンジェリカと共に断罪され、国外追放か、あるいはもっと悲惨な末路を迎えているはずだった。

 だが、今の私はここに立っている。

 ドレスも汚されず、家名も傷つかず、ただの「少し影の薄い令嬢」として。


 私は手帳を取り出し、月明かりの下で開いた。

 ページをめくる指に、数年分の苦労が乗る。


 アンジェリカの横暴な振る舞いを、目立たないように修正し続けた記録。

 彼女がヒロインをいじめる際に使った「証拠」を、事前に無害なものへすり替えたリスト。

 そして今夜、彼女が処刑ではなく「静養のための修道院入り」という穏便な結末に着地するための、根回しの家計簿。


 すべて計算通り。

 完璧な収支決算だ。

 栞を定位置に戻し、パタンと手帳を閉じる。


 これで私は、物語の背景に戻れる。

 明日からは田舎の領地に戻って、二度と王都の表舞台には顔を出さない。

 それが私の求めたハッピーエンドだ。


 グラスに残った温い果実水を飲み干し、私はバルコニーを後にしようと踵を返した。


「――見事な手際だったな」


 不意に、暗がりから声が落ちてきた。

 心臓が跳ね上がり、呼吸が一瞬止まる。

 カーテンの影、石造りの柱の横に、いつの間にか人影があった。


 反射的に半歩下がり、私は背筋を伸ばして礼の姿勢をとる。

 貴族としての本能が、思考より先に体を動かした。


 月光が、その人物の銀色の髪を照らし出す。

 切れ長の瞳、感情の読めない整った顔立ち。

 胸元には、王族であることを示す獅子の紋章。


 第二王子、レオンハルト殿下。


 なぜ、ここに。

 彼は攻略対象外のキャラクターで、今日のパーティーでも玉座の脇で退屈そうにしていたはずだ。

 私のような端役と接点など、万に一つもないはずなのに。


「……恐れ入ります、殿下。お騒がせいたしました。私はこれで」


 関わってはいけない。

 私の生存本能が警鐘を鳴らしている。

 視線を伏せ、足早に立ち去ろうとする私の前を、彼が長い脚で塞いだ。


 靴音が一つ、静寂に響く。

 逃げ場はない。


「待て。まだ名前を聞いていない」


 低く、しかしよく通る声だった。

 私は足を止め、じっとりと汗ばむ手をドレスの陰で握りしめる。


「名乗るほどの者ではございません。ただの、背景の一部でございます」


「背景、か」


 レオンハルト殿下は、面白がるように唇の端を歪めた。

 その視線が、私が隠そうとした手帳へと注がれる。

 まるで中身を透視するかのような、鋭い眼差し。


「背景にしては、随分と仕事熱心だな。アンジェリカ嬢の横領疑惑、あれを補填したのはお前だろう? 帳簿の改ざんレベルが高すぎて、王宮の監査官すら気づいていなかったぞ」


 息を呑む。

 バレていた。

 いや、なぜ彼がそれを知っている?

 あれは誰にも見られないよう、深夜の生徒会室で行ったはずだ。


「……何のお話でしょうか」


「とぼけるな。一月前の茶会、ヒロインのドレスにワインがかかるのを防ぐために、給仕の配置を変えたのもお前だ。三日前の夜、断罪の証拠となる手紙を、当たり障りのない詩集にすり替えたのもお前だ」


 一歩、彼が近づく。

 私は半歩、下がる。

 背中が冷たい石の手すりに当たった。


「誰も見ていないとでも思ったか?」


 心臓の音がうるさい。

 この人は、ずっと見ていたのか。

 私が「モブ」として必死に隠れながら、物語の破綻を防いでいた姿を。


「殿下、私は……」


「何も欲しがらない女だと思ったよ。アンジェリカに取り入りながら、甘い汁を吸うわけでもなく、ヒロインに媚びて保身に走るわけでもない。ただ淡々と、マイナスをゼロに戻す作業だけを続けていた」


 彼は私の目前まで迫ると、ふっと力を抜いてバルコニーの手すりに肘をついた。

 顔の距離が近い。

 整いすぎた顔が、すぐ目の前にある。

 乙女ゲームのキラキラしたエフェクトなどない、生々しい男の人の圧迫感。


「飽き飽きしていたんだ、この茶番劇には」


 彼は会場の方を一瞥し、侮蔑の色を瞳に浮かべた。

 そこには、運命の恋に酔いしれる第一王子とヒロイン、そして憐れな悪役令嬢を嘲笑う観衆がいる。


「誰も彼もが、与えられた役を演じることに夢中だ。……お前以外は」


 視線が戻ってくる。

 今度は、逃がさないという意思を伴って。


「私はただ、生き残りたかっただけです」


 絞り出した声は、予想以上に震えていた。

 彼は満足そうに頷く。


「そうか。ならば、その生存能力を高く評価しよう」


 嫌な予感がした。

 背筋を冷たいものが駆け上がり、私は手帳を握りしめる力を強める。

 栞の硬さが、指に食い込む。


「明日、王宮へ来い。辞令はすでに出してある」


「は……?」


「俺の執務室だ。積もり積もった書類の山を、その手際で片付けてもらいたい」


 思考が追いつかない。

 王宮? 執務室?

 私は田舎に引きこもる予定で、荷造りもあらかた済ませているのに。


「お断りします。私は無能な田舎娘ですので」


「拒否権はない。これは王命に近い」


 彼は意地悪く笑うと、私の手からグラスをすっと取り上げた。


「逃げるなよ、共犯者。お前を見つけたのは俺だ」


 彼はそのまま、音もなくバルコニーを去っていった。

 残されたのは、甘い香りの残り香と、絶望的な未来の約束。


 私はへなへなと、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。

 

 終わったはずだった。

 物語から降りて、観客席ですらない、劇場の外へ行くはずだったのに。


 遠くでまた、歓声が上がる。

 その華やかな音色が、今の私には不吉なファンファーレにしか聞こえなかった。


 私の平穏なモブ人生は、本当にここで終わってしまうのだろうか?

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