23話 月の女神~銀の慈悲
駄目だとわかっていた。
次に呼吸を整えれば、その筋肉の動きで体が緩む。しがみついていた体が弛緩する。
それでももう無理だった。息をするのを我慢できていればよかった。
どちらにせよもう無理だと悟った体は大きく深く息を吸い込んだ。空気が美味しい。
でも体は。
吸い込んだ酸素のおかげか、むしろそれまでの酸素が足りていなかったせいか。
何十倍にも、時間の動きが遅く感じる。
私を見下ろす『綺羅の琥珀』。その表情は変わらなかった。憐れみ、愛おしむ者。光り輝いていて、月そのもののようだった。
エーラ!と叫ぶバジェの声が、斜め後方遥か下から聞こえる。最期であるなら、バジェの胸の中がよかったけれど、この位置関係では、どう落ちても、バジェの元にはたどり着けないだろう。
地面の上が最期なのか。
さっき『綺羅の琥珀』が私に小芝居をしていた時、この高さで即死は難しいと言っていた。だったら、死ぬまでにバジェが駆けつけてくれないだろうか。少しは救いになる。
バジェに『好きだよ』って、言うんだ。『俺もだよ』って、聞いてから死ぬんだ。
――そう思って覚悟を決めた。
人生の中で、一番ものを考えた瞬間だった。それがたった数瞬。私の腕が緩んで、指が屋上の縁を掻く。もちろん体を支え切る事なんかできず、すぐ宙に手が――
そこに、手が出現した。
二組の、手。
「どうなっているんだ!?」
「何事ですか!?」
リステさんと、ヴィオさんだった。
そこまで重いつもりはないけれど、二人が一気に屋上の縁に引きずられる。しかし段差に足を突っ張らせ、体全体を棒のように緊張させ、それを耐えきってくれる。
「――っ、どうした!?……リステとヴィオか!?……でかした!よくやってくれた!」
下から、バジェが声をかける。二人が耐えてくれている間にと、バジェが自身の体を動かす方に全神経を集中させた。瓦礫の山から、建物の中に潜り込んだらしい物音が聞こえた。
「襲撃が来るなら、日没までという話だったのではなかったのか!?」
そう言いながら二人が忌々し気に、目線だけを『綺羅の琥珀』に向けている。
「……なぜ我々は、『菫の監視』の目を、信用しきれなかった……!」
二人は『儀式』を行って、『菫の監視』一族の『見ているものを観る』力で南の国にある北の砦に『綺羅の琥珀』が捕えられている事まで突きとめていた。実際は『綺羅の琥珀』が『出なかった』だけで、捕えるなんて無意味な事だったわけだけれど。
きっとそこでも、ここまでかはともかく、月のように淡く輝く囚われの『綺羅の琥珀』を目にできていたのかもしれない。
ただ、距離や力同士の拮抗――あと単純に、『綺羅の琥珀』の美しさに、その眩さを『視覚情報の荒れ』あたりで片付けてしまっていたのかもしれない。
「り……リステさん、ヴィオさん、ありがとう……」
とっさに私の腕を取ってくれたから、実はとんでもない持ち方をされていて、腕が右と左で逆にひねられているみたいになっているけど。命には代えられない。肩が外れたとしても、文句は言わないつもりだ。
ただ、二人は『綺羅の琥珀』の方を警戒し続けている。当然だろう。『敵』に対して無防備な状態なのだ。二人は『綺羅の琥珀』に対して完全に側面をさらしている。軽く押すだけで、私は真っ逆さまだ。下手をしたら、二人まで巻き添えにしてしまうだろう。しかし、『綺羅の琥珀』は闖入者に対して冷めた目を向けているだけだ。
「『菫の監視』……?おうおう、あの、小さき里の。今の長はてまえどもであったか。話には聞いておった。妾が不在となってからは、王はそちらをあてにしたようだな。励んでおるか?」
「……」
二人の手の力が強まった。言い返しもしない。私を引っ張りあげようとしてくれるが、私の体は持ち上がらない。落ちる事もない。均衡状態を保っている。……え、私、そんなに重いの!?か、皮の胸当てと、剣のせいだよね!?あと、筋肉!剣士だし!……並程度!並程度だから!重くないから!
お願い、リステさん、ひょいっと軽々持ち上げて!
「……何世代にもわたって血を組み、掛け合わせ続けてきたというのに。ここで『菫の監視』の力など一切必要が無いだなんて……!」
ヴィオさんが忌々しげだ。私よりも細い腕で、力仕事なんて一切した事のなさそうな体で、必死に引き上げようと頑張ってくれている。
「誇り高き『菫の監視』の者には屈辱かえ?ならば手を離せばよかろう。お前達まで落ちてしまうぞ」
その言葉に、ヴィオさんの肩が、ぴくりと震えた。
え、嘘でしょ。
私だけでなく、ヴィオさんと一緒に私を引き上げようとしてくれているリステさんも、ヴィオさんに目を向けた。
「そうでした。なぜこんな非効率な事を。まして『菫の監視』の女長であるワタシの身を、危険にさらすなど」
ヴィオさんとは、今日会ったばかりだけれど、そのパンチのきいた言動や行動は、あまりに鮮烈すぎる。もうなんか、だいたいどういう人か、私は知ってしまっている気がする。
「ヴィ……ヴィオ……?」
ましてや、『菫の監視』一族で、男長として、国の役人仕事も含め、色々行動を共にしてきたであろうリステさんに至っては、ヴィオさんの次の言動――あるいはすっ飛ばして、行動なんて、手に取るようにわかったのだろう。声が震えていた。
――うそうそうそ!やめてやめてやめて!
ぐっ!
ヴィオさんの手の力が強まった。
「――だからといって、離すわけがないでしょう!?」
……おおおおお!
「そんな言動でワタシ達が惑うとでも?『綺羅の琥珀』は、よほど底の浅い方なのですね。魔法か何かわかりませんが、空に浮かんで、物理的に見下す事がせいぜいなのでしょう。『菫の監視』の歴史と血を、舐める事は許しません!」
ヴィオさん、カッコイイ―!
「……オレは信じていた」
「私も!私も信じてたよー!」
「……何の話です。信じるも何も。たとえ里の者でなくとも、『綺羅の琥珀』であろうと、見殺しにするわけないでしょう?そんな当然の事を何故わざわざ……え、まさか……」
「信じていた!」
「信じてたよ!」
余計な事はこれ以上、言わずにおこう。
ず、ずっ、と体が落ちる。
「ぎゃー!ごめんなさい、ヴィオさーん!」
しかし、力が緩み始めたのは、リステさんの手の方だった。ヴィオさんも耐えているが、二人とも息が荒い。少しずつ体の重心が、屋上ではなく縁に、と移動してきているようだ。ずいぶん体が身を乗り出している。私の視界からだと、見上げる空に、二人の顔がはっきり確認できた。それだけ二人も私に引きずられてきているという事だった。
引き上げるどころではない。
これでは二人とも、落ちてしまう。
手を放して。――そう言うべきところなんだろうけど、嫌だ、怖い。
死にたくない。でも、このままだとみんな死んじゃう。
「てっ……て……」
カタカタと、歯の根が合わなくなる。
「離すのなら、早うしてやれ。諸共になるぞえ?――今であれば、バジェも、娘御が落ちるところを見ずにすむ」
『綺羅の琥珀』の言葉は、慈悲のつもりなのだろう。
「手を……」
離して。が言えなかった。
「――リステさん、ヴィオさん、ありがとう」
最期なら、こっちの方がいいと思った。
けど、ヴィオさんの手の力は強まった。私の腕に爪まで立てて。絶対に離さないという強い意志があった。
「ほら御覧なさい。どなたもワタシを色々言いますが……ワタシにも、『人の情』というものがあるのです……!リステ!しゃんとなさい!この役立たず!」
「ずっと力を込めている!」
リステさんの力も、入り直す。それでも汗で滑る。
「――ああ。もう、おしまいじゃ」
『綺羅の琥珀』がさみしげに告げた。
そう。
もう、おしまいだった。
――『綺羅の琥珀』の企みは。嫌がらせは、仕返しは。
「エーラ!絶対に、助けてやる!」
「バジェ!」
バジェが、間に合った!
細くて、ヒョロヒョロで、ガリガリの腕は――ずっと頑張って、間違えて、耐えて。見た目よりもずっとずっと、力強いものだった。
三人になった事で、力の均衡が大きく変わった。嘘みたいにあっけなく、私は屋上に引き上げられた。
「バ――」
「エーラ!よかった……よかった……間に合った……っ」
バジェに、強く、強く抱きしめられた。涙声のバジェにつられて、私はボロボロと泣き出した。
――やりました!
※ 完結まで執筆済! エタりよう無し!あなたを一人、孤独にはしません!
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