22話 月の女神~銀の怒り
「あの時――娘御、お前は泣いていたのだ。気づいておったか?」
「え?」
私を、屋上から押し出そうとしていた『綺羅の琥珀』の腕に、もう力はこもっていない。
「『バジェ』『バジェ』と」
『綺羅の琥珀』が少し遠い目をする。数時間前の事だが、遠い昔の記憶のように。
「幼子が母を求める時か、それよりも哀れであった。何がいいのか。バジェだぞ?何ほど求める価値が、あの男にあろうか。……娘御よ。お前はそこまで美しい銀を持ちながら、どうしてそうも愚かなのか」
はたはたと、『綺羅の琥珀』の瞳から、涙が落ち続ける。
「哀れであった、愚かであった。バジェは上階にはおらぬ。地下に閉じ込められておる。……いずれは救い出せようが、その頃には、バジェの指は使い物にならぬだろうな。――いい気味よの」
そう言って『綺羅の琥珀』は笑っているつもりか、顔を歪めた。ぱたぱたっと涙がまた落ちる。
「いい気味である。……妾にはな?けれど娘御、お前はどうだ。声を限りに張り上げ、美しい涙を零している事すら気づかず。求めに求めた末に、自分がまるで見当違いの方向を探していたと気づく。『あの時、地下から探せばよかった』たったそれだけの事だったのにと。戻らないものを前に、お前は何を思うであろうか」
『綺羅の琥珀』は、夜闇の向こうを見ていた。
「――あの時、『バジェに指先を触れられた』と、妾は、必死に、必死に湯浴みを繰り返した」
何の事、と一瞬混乱する。
そして、バジェがしてくれた、昔話を思い出す。事の起こりを。
「あの方に気づかれはしまいか。妾の油断をあの方は責めまいが、悲しまれる。それに、あの馬鹿があの方に余計な事を言いはすまいかと恐れていた。ろくでもない奴じゃからの?次に顔を見たら、絶対にこの本を投げつけてやるんだと、妾は怒りにも燃えておった」
返す返すもろくでもない。バジェがだ。
「――そんな事を考えている場合ではなかった。妾のその数日は、人生で最も無為で愚かな数日であった」
『綺羅の琥珀』が、震えていた。
「その間に、あの方は策謀のただ中に放り込まれた。孤軍奮闘し、にもかかわらず、いわれなき罪でその命を奪われた!わかっていれば、妾の力を使えば、いかようにも救えた!武器を、元の練習用の物に変える事も。あの方なり対戦相手に腹痛を起こして、棄権させる事も。仕事を果たすだけの処刑人を、無慈悲に焼き殺してやることも――なんだってできたのだ!」
もう、『綺羅の琥珀』は私の体を押すどころか、触れてもいなかった。代わりに、やるかたない怒りを、屋上の縁を叩き訴えていた。体や髪が纏う光が、感情の動きに合わせて激しく明滅していた。
殊更に強く、両の拳が縁を叩き――そして止まった。
「気づいた時には遅かった。あの方は……すでにこの世に生きてはいらっしゃらぬと。妾は何でもできたのに」
どんなふうにその伝えを聞いたのだろう。どう感じたのだろうか。
なんて恐ろしい知らせだっただろうか。
「あの方は、ただの処刑ではないからと、ご自分のお屋敷にお帰りになる事も出来なかった。王が『妾に与えられた』からである。そして、その時初めて、妾は『何でも』はできない事を知った。亡くなられたあの方を、元に戻す事はできなかった。あの方は、ただただ冷たいままだった。妾が欲しかったのは、あのように冷たいあの方ではなかった……!」
指先が、覚えているのだろうか。バジェに触れられた、感触を。そして、愛する人の冷たい肌を。
「あとからあとから、後悔が押し寄せる。妾はどうして、馬鹿正直に駆け落ちの日にちを待っていたのかと。妾は、あの砂の塔を、抜け出ようと思えばいつでもできた。今宵のように。妾を縛る事などできぬのだ」
両手を広げている。普段は枷でもされているのだろうか。彼女にとっては武骨な装飾品でしかないのだろう。
「駆け落ちの日取りなど、待たずともよかった。それでも妾は……何でもできていたから。『綺羅の琥珀』の力では得られぬ事をしてみたかった。――驕りであった」
そんな言い方を、しないでほしい。そんなの、悲しすぎる。
「それでも妾は。あの方と二人で、成し遂げたかったのだ。掃除や料理を自分の手で成し、あの方を家で迎え。不自由な生活というのをしてみたかった。……二人で」
それは子どもの頃に見る夢をそのまま語っているようだった。
成長するにつれ背を向け――愛する人を得て、また思い出す。
いくらかの現実は抱えていても、甘い生活を、と。一度くらいは夢見てしまう夢を。
「――ああ、駆け落ちの事を思えばあの愚か者もか。バジェ。あれは本当にどうしようもない男ではあったが、愚かなりに、妾を楽しませてくれた。街の暮らしとはどんなものか。飢えとは何か、金とは何か。働くとは。そして――駆け落ちとは何か」
なにやらろくな感じがしない二人の仲ではあるけれど、酷いだけではなかったのかもしれない。喧嘩友達……とかだったのだろうか。
もし問う事ができても、二人はそれぞれに、嫌な顔をしそうだけれど。
「駆け落ちは、三人で成す事だった。あれの助けを得つつ、妾とあの方は準備の間ずっと、二人の未来を語り合ったのだ。バジェに送り出され、妾はあの方と二人――どこかの山村でひっそりと暮らす。いずれは子もなすかもしれぬと」
今となっては残酷な話だ。聞いているこっちまで胸が痛くなる。体を支える腕の痛みよりも、もしかしたら、堪えるかもしれない。
「――愚かである。ただの絵空事よの?」
『綺羅の琥珀』は涙を零しつつ、笑った。
「若かった。それが素晴らしく、そして、唯一の事であると思っておったのだから。いずれ王に捕えられ、あの方は処罰を受ける。それがわからないほど、妾は愚かだった。それでも妾は。妾は――」
きっと『勇者様』は――『あの方』は。
『綺羅の琥珀』にそれを信じさせてくれるだけの人だったんだろう。
バジェが呆れて――手を貸さずにはいられないほどの。
三人とも、若くて愚かで無鉄砲で。けれどそれを笑い合えるはずだった。
『綺羅の琥珀』は、そこで涙を流していた事に気づいたようだった。それを静かに拭い去る。そのまま涙が宝石になるのかと思うほど、その所作も何もかも、美しかった。
そのあと『綺羅の琥珀』は、先ほどまでの恥じらうような笑みも、荒れ狂う怒りも、深い悲しみも、いったんしまい込んだようだった。
「……娘御。お前はまだ、間に合った」
その言葉に、どれほどの思いがこもっていたのだろう。
「まったくもって何がいいのかわからんが――よりにもよってバジェでなくともと、妾が焚き付けておきながら、そう思ったが。あの時……娘御がさらに愚かで、妾が骨を折っても間に合わず、バジェの指や命を落とすなら、それでもいいと思っていた。『何をどうしても、あの方は救えなかったのだ』と。指や命を落とすバジェと同じであったのだと。それはそれで慰めになると思っていた。……けれど、娘御は間に合ってくれた。抱きとめられていた娘御の、なんと愛らしかった事よ。幸せそうであった事よ」
さみしそうな、愛おしむような、慈母の笑顔。だからこそ、続く言葉が痛々しい。
「……何故妾は、『あの時の妾』は、そうなれなかったのか……あの方を、お救いできなかったのか……何故、『あの時の妾』に、『今の妾』のようなものが、いてくれなかったのだ……」
手で顔を覆っている。泣いているのではないようだった。
「妾は、どんどん変わっていった。あの方が好きだと言ってくれた妾ではなくなっていく。あの方はいないのだからそれでもいいとは、どうでもいいとは、思えなかった。あのままでいたかった。あの方がいなくとも。それでも変わっていくのだ」
重ねていく時。それもあったかもしれないけれど、そんな表面的な物を言っているのではないのだろう。気持ちが。心が。
「……許せなかった。あの方を奪った者が。幸せになろうとする者が。笑う者が。妾はこんな醜く愚かな者ではなかったはずなのに。……多少我儘を言う事はあったかもしれぬが、ここまで意地悪でもなかったはずだ。しかしもう、止められぬ」
顔を覆っていた手が、取り払われる。しまい込んだ感情は、怒りとなって表に現れた。単純な燃え盛るだけの怒りではない。もっと色々、淀んで縛られ――抜け出せないような、怒り。
「バジェを無実とは思わぬ。あれは、妾の指先を穢した。妾を動揺させ、判断力を奪い、王にたくらみを知られる切欠ともなり、もしかしたら察知できたかもしれない異変を気づかせず――妾とあの方の幸せを、未来を奪った。原因のすべてがアレ一人でなくとも、バジェに、関係が無いとは言わせぬ。罪がないとは言わせぬ」
「――んな事ぁ言っちゃあいねえよ!」
声が、夜闇に響いた。
ガラついて、品のない声。
「……目を覚ましたか」
『綺羅の琥珀』と――私も、この状況でできる限りバジェの方に目だけを向けた。
瓦礫の上でバジェが体を起こしている。
大丈夫だろうか。骨折とか、頭とか。……もしかしたら、賢くなって帰ってきてくれるかも。
「うっわ、おい!エーラ!?なんでそんな事に……!」
「馬鹿馬鹿バジェ!届くわけないでしょ、距離感考えて!バジェの方が落ちるって!」
バジェが瓦礫の上から身を乗り出している。私を下から支えようと考えているらしい。駄目だ。昏倒後の混乱だと信じたい。賢くなってこなくていいから、冷静に判断してほしい。バジェの身長が四倍ぐらいあったら届くかもしれないけど、それでは魔法の巻物でもあるまいに。
「上から引きあげて、上から――っ、う!?」
やばい。
手ではなく腕でしがみついているからまだ大丈夫だと思っていたけれど……
足が動くようになってきて、探るけど、引っ掛けるところが無い。下手に足をかけようとすると、滑る。滑って――その勢いのまま、後ろに体が投げ出されそうになる。
バジェは、どこか骨でも折っているのか、単純な打撲か――瓦礫の山から、建物側に動くのすらつらそうだった。私が首を捻って見える範囲で、まだまごついている。『綺羅の琥珀』は目を軽く伏せ、半眼で、それを見守っていた。哀れとも、滑稽とも言いたそうだった。
バジェがこちらを見上げて叫ぶ。
「――お願いだ!俺が行くまで、エーラを落とさないでやってくれ!引きあげろなんて言わねえから!落とさないだけでいいから!――その後は!……俺をお前の好きにしていい!指を全部切り落としても、アイツと同じに、首を切り落としてくれていい!」
「……バジェよ」
『綺羅の琥珀』は、静かに口を開いた。
「この娘御が、それほど大切か」
「大切だ!」
一つ。
「愛しいか」
「愛しい」
二つ。
「代えがたいか」
「当たり前だ!」
三つ。問うほどに、『綺羅の琥珀』はつらそうな表情をした。自分もそうだった。勇者様を懇願でも何でもして救いたかった――そんな、できなかった自分を、バジェに重ねて見てしまったのだろうか。
「……なあ、お願いだ、そいつもう、落ちそうじゃねえか!悪かった!あんな事になるなんて思わなかったんだ!俺が馬鹿だった!」
バジェの声が、闇夜に響く。人間の喉が、これほどまでに音を発する事ができるのかと驚く。ましてバジェの、響かせようもないほど瘦せっぽっちな体で。
「でも俺は本当に!――本当に、お前達に幸せになってほしかったんだ!」
「……知っておったとも」
対照的な大きさで――でも同じように悲痛な声が、私の耳にそれぞれ聞こえた。
「お前らがそうなっちまって、同じにしたいなら、俺を殺してくれ!そいつは生かしてやってくれ!」
足場の瓦礫が不安定なのだろう。時折ゴゴッ、と鈍い音がして、かなりの塊のレンガ塊が落ちる音がする。一緒にバジェまで落ちないでと願う。
「残される痛みと後悔は知っておる。……昔馴染みの情けよ。お前も――この娘御も。そのような思いはさせぬ」
「そ、そうか!?あ……ありが――」
「……二人とも、生かしてはやらぬ」
――!
私は『綺羅の琥珀』を見た。
「妾が手ずから叩き落とすまでもない。――娘御。お前はもう限界であろ?」
手が震える。体の固定がきかない。
「安心せよ。すぐにバジェも『送る』。『向こう』で幸せになっておくれ」
「い、嫌だよ!そんな幸せになり方!私、私――」
……ああ、駄目だ。
朝ごはん、もっと軽めにしておけばよかったかなあ。
「バジェ……ゴメン!」
「エーラ!」
手が、もう――
続きます。
※ 完結まで執筆済! エタりよう無し!あなたを一人、孤独にはしません!
毎日一話ずつ更新中。
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