第10話:サロニカで芽生える感情
私は両親と共にサロニカへ向かい、母方の祖母の家に滞在した。祖母に会うのはこれが初めてだったが、幸い私はギリシャ語が流暢だったため、会話に困ることはなかった。祖母は初孫のように私を迎え、惜しみない愛情を注いでくれた。
その一週間、サンスラとはスマートフォンのメッセージアプリで連絡を取り合っていた。彼の言葉には常に分かりやすい好意が込められていて、いつの間にか彼は私を「マンダネチェ」と呼ぶようになっていた。オランダ語の縮小辞 -tje を使った愛称――それは明確な親しみの証だった。
「君に夢中だ」
「本当に好きだよ」
「すごく気に入ってる」
そんな言葉を読むたび、私は宙に浮いているような気分になった。
これほど誰かに大切にされ、想われたことは今までなかった。
未知で、けれど胸が高鳴る感覚だった。
一週間後、サンスラから「サロニカに着いた」とメッセージが届いた。
胸の奥がふわりと揺れる――これが“胸がときめく”という感覚なのだと、私は後になって理解した。
私はラダディカ地区で彼を待っていた。
「マンダネ!」
声に振り向くと、サンスラがこちらへ歩いてくるのが見えた。
だが、彼は一人ではなかった。
姉のベネシャと、見知らぬ背の高い褐色肌の青年が隣にいた。
「やあ!」
サンスラは明るく声をかけてくれた。
「こんにちは」
私は微笑み返し、ベネシャへ視線を向けた。
一瞬、私たちの目が合う。言葉は交わさなかったが、確かなつながりがそこにあった。
「あっ!」
サンスラが気づいたように声を上げた。
「一人で来ないって言うの、言い忘れてた。ごめん」
「大丈夫よ」
私は本心からそう答えた。
「こちら、姉のベネシャと、その婚約者のツィキュタ」
「はじめまして、マンダネ」
ツィキュタは人懐っこい笑顔で言った。
「君、ギリシャ人なんだって? 昼ごはんにいい場所、知ってる?」
「もちろん」
私は小さく微笑んだ。
「ついてきて」
なぜか分からないけれど、私は事前にサロニカの食事処や遊び場を調べていた。
今までそんなことをした覚えはない。
けれど、サンスラは私の中に、知らなかった感情を次々と引き出していた。
私たちは落ち着いた雰囲気のレストランに入り、すぐに席へ案内された。
メニューを開くと、ベネシャが私を見て言った。
「おすすめは?」
「まずはサラダがいいわ」
私は説明した。
「トマト、キュウリ、玉ねぎ、オリーブ、フェタチーズを使ったギリシャサラダ。さっぱりしていて、風味も豊かよ」
「ホリアティキ・サラタは?」
サンスラが尋ねた。
「基本は同じだけど、ケッパーやパプリカ、時々アーティチョークが入るの」
「サントリーニのファヴァ・サラダは?」
ツィキュタが聞いた。
「黄エンドウ豆を使ったクリーミーなサラダよ。赤玉ねぎとディル、ケッパーが入ってる」
「じゃあ、それにする」
ベネシャが決めた。
「俺も同じで」
ツィキュタも続いた。
「うーん、僕はホリアティキかな」
サンスラは考え込むように言った。
「マンダネは?」
「私は定番のギリシャサラダで」
「相変わらずね」
ベネシャがくすっと笑った。
弟と婚約者は困惑した表情を浮かべる。
「もう知り合いなの?」
サンスラが驚いて尋ねた。
「ええ」
「いつから?」
「幼稚園の頃から」
それは技術的には正しかった。
あの研究所は、ある意味“幼稚園”だったのだから。
「十年ぶりね」
ベネシャは私を見た。
「そろそろ近況でも話さない?」
「話すほどのことはないわ」
私は淡々と答えた。
「分かれてからの人生は、何もなかった。でもあなたは立派なお姉さんになって、もうすぐ誰かの妻。まだ若いのに」
「ツィキュタは名門バディラ家の人よ」
彼女は少し誇らしげに言った。
「生まれた時から結婚が決まっていたの」
そして私と弟を交互に見た。
「それより、弟とは仲が良さそうね」
「ええ、まあ」
私はわずかに声を和らげた。
「十年越しの再会、素敵だね」
ツィキュタが微笑んだ。
「じゃあ、メインは? スブラキはどう?」
「串焼きのお肉よ。ピタパンにトマト、玉ねぎ、ザジキソースを添えて」
「ギロスは?」
ベネシャが聞いた。
「回転焼きの肉を薄く切ったもの。同じくピタパンで」
「ムサカも気になるな」
サンスラが言った。
「ナス、ひき肉、ジャガイモ、ベシャメルソースの重ね焼き。特別な日にぴったり」
「じゃあ、それにする」
彼は私を見て微笑んだ。
「今日は特別な日だから」
「どうして?」
私は純粋に聞いた。
「大切な人に出会えたから」
彼の真っ直ぐな笑顔に、私は頬が熱くなるのを感じた。
ベネシャはラム肉のスブラキ、ツィキュタはラムのギロス。
私はスパナコピタを選んだ。
ほうれん草とフェタチーズのパイだ。
さらに、ドルマデスも注文した。
ぶどうの葉で包んだ米料理――みんなで分け合うのにちょうどいい。
「最高だった!」
サンスラが声を上げた。
「ありがとう、マンダネ」
「どういたしまして」
「本当に美味しかった」
ツィキュタも頷いた。
「あなたが笑ってるところ、初めて見た」
ベネシャがからかうように言った。
「他の子たちが見たら羨ましがるわ」
「分かりきってるだろ?」
ツィキュタは意味深に笑った。
「何がよ?」
「彼女が赤くなって笑ってる理由さ……」
私は眉をひそめた。
「何が言いたいの?」
「ありえないわ」
ベネシャは小さく呟いた。
「それはどうかな」
ツィキュタは不敵に笑った。
話題を変えるように、私は尋ねた。
「次は何をする?」
「案内してくれないのかい、マダム?」
ツィキュタが冗談めかして言った。
「ここは君の国だろ?」
「私はオランダ育ちよ」
「祖先の地だ」
「……そうだけど、詳しくないの。ごめんなさい」
その空気を破るように、サンスラがスマホを取り出した。
「AIチャットボットに聞いたんだ。次はシーランドに行けって」
「シーランド? 面白そうだな!」
ツィキュタは乗り気だった。
ベネシャは無表情。
私は、いつも通り無関心。
「楽しもうよ、マンダネ」
サンスラが微笑む。
――その笑顔は、どうしようもなく魅力的だった。




