熱殺―暗殺者は熱力学の夢を見るか―
# 熱殺―暗殺者は熱力学の夢を見るか―
## 第一幕:設定と日常の崩壊
### 第1章:熱力学との出会い
標的の体温が下がっていく。
逆井零の指先が男の頸動脈に触れた瞬間、彼の身体から熱が失われ始めた。男は何が起きているのか理解する間もなく、震え、痙攣し、そして静かに崩れ落ちた。死因は心停止。検死官は低体温症と記録するだろう。この季節、この室温で、それはあり得ないことだが。
零は男の瞳孔を確認し、立ち上がった。窓の外、東京の夜景が無機質に瞬いている。二十三階建てのタワーマンション、防犯カメラは三分前に無力化済み、監視の目はない。完璧な仕事だ。いつも通りの。
「エントロピア」――零が所属する暗殺組織の名は、ギリシャ語の「変化」に由来する。組織は世界に変化をもたらす。不要な熱を取り除くように、不要な人間を社会から取り除く。そう教えられてきた。
零は二十四歳だが、自分の本当の年齢を知らない。組織に拾われたのは八歳の頃だったと記録にはある。それ以前の記憶は、白い部屋と注射器の痛みだけだ。幼い自分が泣き叫んでいる声。冷たい金属の感触。そして――誰かの優しい声。「大丈夫よ」と繰り返す、女性の声。
組織の訓練施設――通称「炉」――は東京湾の埋立地にある廃工場を偽装していた。零が任務から戻ると、管理官の冷えた視線が待っていた。灰色のスーツを着た男は、感情というものを持たないかのように見えた。
「次の仕事だ」管理官は封筒を投げてよこした。零はそれを空中でつかんだ。「ただし、その前に地下の研究室に行け。お前のスキル向上のためのプログラムが用意されている」
地下。零は眉をひそめた。組織の地下施設には決して近づくなと、暗黙の了解があった。そこは「素材」――実験体――が管理される場所だ。時折、悲鳴が聞こえてくることがあった。
「誰に会うんだ?」
「熱海博士だ。お前に物理学を教える」
物理学。零は笑いそうになった。「殺しに方程式が必要なのか?」
「効率だ」管理官は無表情に答えた。「お前の殺傷方法は直感的すぎる。成功率は高いが、理論的裏付けがない。理論を学べば、もっと精密に、もっと確実になる。お前は組織の最高傑作になる」
最高傑作。その言葉に、零は奇妙な違和感を覚えた。まるで自分が製品であるかのような。
地下三階の研究室は、零が想像していたものとは違った。拷問器具も監禁房もない。そこにあったのは、ホワイトボードと数式、そして無数の計測機器だった。部屋の隅には、小さな観葉植物が置かれている。こんな場所に、生きた緑があることが不思議だった。
「ああ、君が零くんか」
振り返ると、白衣を着た初老の男が笑顔で立っていた。五十代半ば、温厚そうな目元。少し乱れた白髪。およそ暗殺組織の科学者らしくない。彼の白衣のポケットからは、ペンが三本、異なる角度で突き出ていた。
「熱海誠一郎だ。よろしく。君に熱力学を教えることになった」博士は手を差し出した。零は一瞬ためらってから、その手を握った。温かかった。
「熱力学?」
「そう。エネルギーと熱の科学だ」熱海博士はホワイトボードに「熱力学第一法則」と書いた。彼の字は丸みを帯びていて、読みやすかった。「簡単に言えば、この宇宙で何かをするには必ずエネルギーが要るという話だ。エネルギーは創造も消滅もしない。ただ形を変えるだけ」
零は椅子に座った。金属パイプの冷たさが太腿に伝わってくる。「それが暗殺と何の関係がある?」
「人間の身体も熱力学系だ」博士は人体図を指し示した。「体温三十七度を維持するために、我々は食物からエネルギーを取り出し、熱を発生させている。心臓が動き、肺が呼吸し、脳が思考する――全てエネルギーだ。その熱の流れを理解すれば、より効率的に生命活動を停止させられる」
零の視線が鋭くなった。
「君の殺しは芸術的だ」博士は続けた。驚いたことに、彼の声には非難の色がなかった。ただ純粋な観察があるだけだった。「だが芸術には再現性がない。科学には再現性がある。君が本能的にやっていることを、方程式に落とし込めば、どんな状況でも完璧な結果を出せる」
最初の授業で、零は熱伝導率と比熱容量を学んだ。金属は熱を伝えやすく、水は熱を保ちやすい。人体の六十パーセントは水だ。つまり人間は、膨大な熱エネルギーの貯蔵庫である。
「ここが面白いところだ」博士は興奮気味に説明した。彼が話すとき、手が自然と動く。まるで目に見えない何かを形作っているように。「人間の脳は体重の二パーセントしかないのに、全エネルギーの二十パーセントを消費する。脳は熱い器官なんだよ。つまり脳の熱管理を崩せば――」
「意識を失う」零が引き取った。
「その通り!」博士は嬉しそうに手を叩いた。「君は飲み込みが早い」
週に二回、零は地下の研究室を訪れた。任務の合間、彼は分厚い教科書と格闘した。最初は退屈だったが、次第に何かが変わり始めた。数式が、ただの記号の羅列ではなく、世界を記述する言語に見えてきた。
熱力学第二法則を学んだ日のことだ。
「エントロピーは常に増大する」博士はグラフを描いた。曲線は右肩上がりに伸びていく。「閉じた系において、無秩序さは必ず増えていく。コーヒーに入れたミルクは混ざり合うが、決して自然に分離しない。割れたコップは元に戻らない。全ては一方向にしか進まない」
零はペンを持つ手を止めた。「不可逆、ということか?」
「そう。時間の矢と呼ばれる。過去には戻れない」博士の声が、少し沈んだ。「我々は皆、エントロピーの増大と共に生きている。老い、死に、そして忘れ去られる」
その夜、零は眠れなかった。不可逆。その言葉が頭の中で反響した。
彼が殺してきた人間たちも、不可逆だったのだ。引き金を引いた瞬間、ナイフを刺した瞬間、頸動脈を締めた瞬間――それらは全て取り返しのつかない行為だった。エントロピーの増大。秩序から無秩序へ。生から死へ。
窓の外、街の明かりが規則正しく並んでいた。この街は秩序立っている。法律があり、倫理があり、人々は平和に暮らしている。
だが、その秩序を保つために、零のような存在が必要なのだと組織は言う。社会の「熱」を調整するために、不要な要素を除去する。それが組織の使命だと。
零は自分の手のひらを見つめた。この手で、何人殺してきた? 十人? 二十人? 記録はあるが、数えたことはなかった。それは単なる仕事だった。
だが今は違う。
一人ひとりが、独自の熱を持った存在だったのだ。三十七度の体温。一日に約二千キロカロリーのエネルギー代謝。固有の思考パターン、記憶、感情。全てがエントロピーの法則に従いながらも、必死に秩序を保とうとしている、奇跡的なシステム。
それを、零は破壊してきた。
翌週の授業で、博士はカルノーサイクルについて説明した。「これは理想的な熱機関だ」黒板に図を描く。「高温の熱源から熱を受け取り、仕事をして、低温の熱源に廃熱を捨てる。完璧な効率は実現不可能だが、理論上の限界を示している」
「なぜ完璧にはなれない?」零が尋ねた。
「熱力学第二法則だよ。必ずエネルギーの一部は使えない形で失われる。摩擦、抵抗、散逸――完璧なシステムなど、この宇宙には存在しない」
博士は一瞬、悲しげな表情を浮かべた。
「先生」零は躊躇いながら言った。「先生は、なぜここにいるんですか?」
博士は手を止めた。長い沈黙。
「私にも、守りたいものがあったんだ」ようやく彼は答えた。「だが、完璧な守り方など存在しなかった。だから、ここにいる」
それ以上は語らなかった。だが零は気づいた。博士のデスクの引き出しに、小さな写真立てがあることを。若い女性の笑顔。娘だろうか。
その日を境に、零と博士の関係は微妙に変わった。授業の合間に、世間話をするようになった。博士は学生時代の話をした。量子力学に魅せられたこと。研究者としての夢を持っていたこと。そして――失ったものについて。
「君は幸せか?」ある日、博士が突然尋ねた。
零は答えられなかった。幸せという概念を、考えたことがなかった。
「私は不幸だった」博士は天井を見上げた。「自分の研究が、人を殺す道具になるとは思わなかった。だが気づいたときには遅かった。エントロピーは増大し続ける。私の選択は、不可逆だった」
「なぜ逃げなかったんですか?」
博士は悲しく笑った。「人質がいるんだよ。私の娘だ。組織は知っている。私が裏切れば、彼女が――」言葉を切った。
零の胸に、鈍い痛みが走った。これは何だ? 同情か? 共感か? 自分にそんな感情があったとは。
三ヶ月が過ぎた。零の暗殺技術は、理論的裏付けを得て洗練されていった。標的の体格、代謝率、周囲の温度から逆算して、最適な殺害方法を計算できるようになった。組織は満足していた。
だが零自身は、次第に混乱していった。
殺すたびに、熱力学の法則が頭をよぎる。この人の体温は今、何度だろう。心拍数は。エネルギー代謝は。そして――この人にも、博士のように守りたいものがあったのだろうか。
ある任務で、標的の家に侵入したとき、零は子供部屋を見つけた。小さなベッド。壁に貼られたお絵描き。「パパだいすき」と書かれたカード。
標的は腐敗した政治家だった。賄賂を受け取り、法を曲げ、弱者を踏みにじった男。組織が言うには、社会のエントロピーを増大させる存在。除去すべき「熱」。
だが、この子供にとっては――父親だった。
零は標的を殺した。プロとして、完璧に。
だが、初めて吐いた。任務の後、暗い路地で、胃の中のものを全て吐き出した。
### 第2章:世界観の崩壊
零が変わっていることに、組織の他のメンバーも気づき始めていた。
「どうした、零?」同僚の暗殺者、冴木が肩を叩いた。彼は三十代前半、傷だらけの顔に不敵な笑みを浮かべる男だ。「最近、暗いぞ」
「別に」零は短く答えた。
彼らは「炉」の食堂にいた。灰色の壁、無機質な蛍光灯、栄養バランスだけを考えた味のない食事。まるで刑務所のようだが、零にとってはこれが日常だった。
「聞いたぜ。お前、地下で勉強してるんだってな」冴木は煙草に火をつけた。「物理学とか。何の意味があるんだ?」
「効率化だ」
「効率ねえ」冴木は煙を吐き出した。「俺たちの仕事に必要なのは、度胸と腕だけだろ。頭でっかちになったら、躊躇する。躊躇したら、死ぬ」
零は黙っていた。
「いいか、零」冴木は声を落とした。「考えるな。考え始めたら終わりだ。俺たちは道具だ。道具は命令通りに動けばいい。それだけだ」
だが零は、もう考えることをやめられなかった。
次の授業で、博士は熱平衡について説明した。「二つの物体が接触すると、温度の高い方から低い方へ熱が流れる。やがて両者は同じ温度になり、熱の流れが止まる。これが熱平衡だ」
「止まったら、何が起きる?」零が尋ねた。
「何も起きない」博士は答えた。「完全な熱平衡状態では、変化が起きない。それが宇宙の最終形態だと言われている。熱的死――ヒートデスだ。全ての温度差がなくなり、エネルギーの流れが停止し、何も起こらなくなる」
「それは――死んでいるのと同じじゃないか」
「その通り」博士は窓の外を見た。夕暮れの空が赤く染まっている。「生きているということは、平衡から外れているということだ。我々は食べ、代謝し、エネルギーを消費することで、局所的に秩序を保っている。だが全体としては、エントロピーは増大し続ける。いずれ全ては――」
「死ぬ」
「そう。個人も、社会も、宇宙も。だが、その過程で美しいものが生まれる。命、文化、愛」博士は微笑んだ。「我々は限られた時間の中で、意味を作り出そうとする。それが人間だ」
零は拳を握りしめた。「だったら――俺は何だ? 俺は人間の命を奪っている。意味を破壊している」
博士は長い間、零を見つめていた。
「君は疑問を持ち始めた。それは、人間らしさの証だよ」
その言葉が、零の心に深く突き刺さった。
数日後、新しい任務が下された。標的は若い研究者。三十二歳、独身、大学の物理学科で教鞭を取りながら、量子コンピュータの研究をしている。
ブリーフィングで、管理官は言った。「彼の研究は、ある国家の機密に触れている。生かしておけない」
「無実の研究者じゃないか」零は反論した。初めてのことだった。
管理官の目が冷たくなった。「我々に無実も有罪もない。あるのは、システムにとって有益か有害か、それだけだ」
「システム?」
「社会は巨大な機械だ。全ての部品が正しく機能すれば、平和が保たれる。誤作動する部品は、交換しなければならない」管理官は立ち上がった。「お前も部品だ、零。考えることを仕事にするな」
零は標的の写真を見た。眼鏡をかけた穏やかそうな顔。どこにでもいる普通の青年。
だが零は、やはり任務を遂行した。プロとして。
標的のアパートに侵入したのは深夜だった。男は書斎で論文を書いていた。画面には複雑な数式が並んでいる。
零が背後に立ったとき、男は振り返った。
「誰だ――」
零の手が男の首筋に触れた。だが、その瞬間、躊躇した。
男の目を見た。恐怖。混乱。そして――理解しようとする知性。研究者の目だ。博士の目に似ている。
その一瞬の躊躇が、全てを変えた。
男は必死に抵抗した。もみ合いになり、机が倒れ、ノートパソコンが床に落ちた。零は男を制圧したが、完璧な殺害はできなかった。男は痙攣しながらも、まだ呼吸していた。
「なぜ――」男はかすれた声で言った。「なぜ、僕を――」
零は答えられなかった。自分でも分からなかった。
結局、零は仕事を完了した。だが帰路、彼の手は震えていた。
組織に戻ると、管理官が待っていた。
「報告しろ」
「完了した」
「そうか」管理官は零の目を見た。「だが、お前は躊躇した」
零は否定しなかった。
「地下に行け。博士がお前を待っている」
地下の研究室に向かう途中、零は奇妙な音を聞いた。機械の動作音。そして――うめき声。
研究室の手前、別の部屋のドアが少し開いていた。中を覗くと――
実験台に拘束された人間がいた。電極が体中に取り付けられている。モニターには、体温、心拍数、脳波が表示されていた。そして、白衣を着た技術者たちが、何かを注射していた。
「被験体No.47、反応が弱い。投与量を増やせ」
被験体が悲鳴を上げた。
零は息を呑んだ。これが「素材」の実態か。
「零くん」
振り返ると、博士が立っていた。彼の顔は蒼白だった。
「早く、こっちへ」
研究室に入ると、博士はドアを閉め、鍵をかけた。
「見てしまったか」博士は震える手で眼鏡を外した。「見てはいけなかったんだ」
「あれは――」
「組織の本当の研究だ」博士は椅子に崩れ落ちた。「人間を兵器に変える実験。熱力学的に最適化された殺人機械を作る――それが、私の本当の仕事だった」
零の全身が冷たくなった。
「君に熱力学を教えたのは」博士は苦しそうに続けた。「君がすでに、その実験の成功例だからだ」
「何を言っている?」
「君は普通の人間じゃない、零。君が八歳のときに組織に来る前――いや、もっと前から、君は実験されていた」博士は立ち上がり、ファイルキャビネットからカルテを取り出した。「これを見ろ」
カルテには「被験体No.0」と書かれていた。そして、幼い零の写真。無数の注射の記録。遺伝子改変の履歴。
「君の身体は、熱を操るように設計されている。細胞レベルで、熱伝導率が異常に高い。体温調節機能が常人の十倍以上ある。君が標的を殺すとき、無意識に彼らから熱を奪っている。それは――」
「能力、だと?」零の声が震えた。
「そう。君は組織が作り出した最初の、そして最も成功した実験体だ。だから零――ゼロなんだ」
零は壁にもたれかかった。自分が人間ではない? 実験室で作られた化け物?
「だが、君には欠陥があった」博士は続けた。「感情だ。君は人間らしい感情を持ち始めた。それは設計にない要素だった。だから組織は、君の記憶を消し、再教育した。君が覚えている八歳以前の記憶がないのは、そのためだ」
零は床に膝をついた。全てが崩れ去っていく。自分は何者なのか。何のために生きているのか。
「すまない」博士は零の肩に手を置いた。「私は君に真実を教えるべきだった。だが――私も脅されていた。娘を人質に取られて。私は共犯者だ」
その夜、零は初めて泣いた。涙が頬を伝い、床に落ちる。それはまるで、失われた人間性が液体となって零れ出ているようだった。
翌日、博士は零に全てを説明した。組織の真の目的。世界中の権力者と結託した巨大なネットワーク。そして、彼らが目指す「完璧に制御された社会」。
「組織は人間社会を、熱力学的に最適化しようとしている」博士は図を描いた。「無駄なエネルギーを排除し、完璧な効率で動くシステム。だが、それは――」
「人間性の否定だ」零が言った。
「その通り。完璧な秩序は、熱的死と同じだ。変化がない。成長がない。愛も、希望も、夢もない。ただ機能するだけの世界」
零は決意を固めた。「俺は、逃げる」
博士は頷いた。「私も、ずっとそれを待っていた。だが一人では無理だ。組織は巨大すぎる」
「先生も一緒に来てください」
博士は悲しく笑った。「私は無理だ。娘がいる。だが、君には手伝えることがある」
博士はUSBメモリを取り出した。「これには、組織の全研究データが入っている。実験の記録、被験体のリスト、権力者たちとの通信記録。全てだ。これを外部に持ち出せば――」
「組織を潰せる」
「かもしれない」博士は零の手にUSBを握らせた。「だが零、一つだけ覚えておいてほしい。君は実験体かもしれない。だが、君が今持っている疑問、苦悩、そして逃げようとする意志――それは紛れもなく人間のものだ。君は人間だ、零」
その言葉に、零は救われた気がした。
「いつ逃げる?」博士が尋ねた。
「今夜だ」
だが、運命は彼らに時間を与えなかった。
研究室のドアが突然開いた。管理官が数人の武装した兵士と共に入ってきた。
「博士、お前が裏切ることは予測していた」管理官は銃を抜いた。「お前の研究室への不正アクセス、データのコピー、全て監視していた」
博士は零の前に立った。「零、逃げろ!」
銃声。
博士の胸に赤い花が咲いた。彼は崩れ落ちた。
「先生!」零が叫んだ。
博士は血を吐きながら微笑んだ。「逃げろ――君なら――できる――エントロピーに――抗え――」
そして息絶えた。
零の中で何かが弾けた。怒り。悲しみ。そして――熱。
彼の身体から、膨大な熱波が放射された。部屋の温度が急上昇する。兵士たちが悲鳴を上げた。皮膚が焼けただれていく。
零は自分の能力が暴走していることに気づいた。だが止められなかった。否、止めたくなかった。
管理官だけが、特殊な防護服を着ていた。「やはり、お前は覚醒したか。だが制御できていない。未熟だ」
零は管理官に突進した。素手で、彼の首を掴んだ。熱を送り込もうとする。
だが管理官は笑った。「無駄だ。この防護服は、お前の能力を想定して作られている」
膝が崩れた。零は床に倒れた。熱の放出で、自分の体力も限界に達していた。
「お前は組織の財産だ。破壊するのは惜しい」管理官は注射器を取り出した。「再教育する。今度こそ、完璧な兵器に」
注射針が近づく。
その瞬間、爆発音が響いた。
窓ガラスが砕け、煙幕が部屋を満たした。混乱の中、誰かが零の腕を掴んだ。
「立って! 今よ!」
女性の声。零は必死に立ち上がった。
引きずられるように廊下を走る。警報が鳴り響く。追跡者の足音。
外に出た。夜の冷たい空気が肺を満たす。
零を助けた女性が振り返った。二十代後半、鋭い目つき、黒いタクティカルスーツ。
「走れ! 説明は後!」
二人は闇の中を走った。組織の施設から離れて、離れて、もう戻れないところまで。
零は振り返った。「炉」が燃えていた。博士の最後の仕事が、爆発装置の起動だったのだろうか。
炎の中に、零の過去が消えていく。
不可逆の選択をした。もう、戻れない。
## 第二幕:葛藤と発見の旅
### 第3章:逃亡と能力の覚醒
女性は零を廃ビルに連れて行った。窓のない部屋、簡素なベッド、缶詰の山。隠れ家だ。
「ここで休んで」女性は毛布を投げた。埃の匂いが舞い上がる。「追手が来るまで、少し時間がある」
零は壁に背を預けたまま聞いた。コンクリートの冷たさが背中に染みる。「お前は誰だ?」
「相転ミハル」女性は答えた。黒髪を後ろで束ね、鋭い眼差しが零を捉える。「熱海誠一郎博士の娘よ」
零の目が見開いた。
ミハルは写真を取り出した。博士が研究室に飾っていたものと同じ写真。若い頃のミハル、笑顔で父親の肩を抱いている。だが今の彼女の表情には、その頃の柔らかさはなかった。
「父から連絡があった」ミハルの声が震えた。「『エントロピアから逃げる者を助けてほしい』と。あなたが零ね? 父はあなたのことを話していた。優秀だが、苦しんでいる若者だと」
零は床に座り込んだ。膝が震えている。「博士は――」
「死んだのね」ミハルは目を閉じた。まぶたの奥で、何かを押し殺している。「分かってた。父は覚悟していた。だから、全ての研究データを私に送っていた。バックアップとして」
彼女はノートパソコンを開いた。青白い光が暗い部屋を照らす。画面には、膨大なファイルの一覧。
「父の研究、組織の犯罪記録、権力者との癒着――全てある。これを公開すれば、組織を潰せる」
「だが」零は言った。「公開すれば、お前も狙われる」
「構わない」ミハルの目は決意に満ちていた。拳を握りしめ、爪が掌に食い込んでいる。「父を殺した組織を、許さない」
二人は一晩中、データを調べた。零は自分の過去を知った。
被験体No.0として生まれる前、零には本当の名前があった。逆井蓮。母親がいた。温かい手のひら。優しい声。そして――組織に誘拐された。
八歳ではなく、三歳のときだった。
「遺伝子改変は胎児期に行われることが多い」ミハルは説明した。画面に表示される医療記録を指で追いながら。「だがあなたの場合、出生後に改変された。だから拒絶反応が強かった。組織は何度もあなたを『調整』した。その過程で、あなたの記憶は――」
「消された」零は拳を握りしめた。「俺の人生は、全て嘘だった」
「いいえ」ミハルは零の目を見た。その瞳に、強い光がある。「あなたが感じている怒り、悲しみ、そして正義感――それは本物よ。組織が消せなかったもの。それがあなたの真実」
夜明けが近づいた。零は窓の外を見た。ひび割れたガラス越しに、東京の街が朝日に照らされ始めている。ビルの隙間から差す光が、埃を金色に染める。
「俺は、この能力を使いこなせない」零は自分の手を見た。指先が微かに震えている。「暴走するだけだ」
「それは、理解が足りないからよ」ミハルは別のファイルを開いた。「父の研究ノート。あなたの能力について、詳細な分析がある」
画面には、熱力学の方程式と人体図が並んでいた。赤い線が複雑に絡み合い、エネルギーの流れを示している。
「あなたの細胞は、熱エネルギーを直接操作できる。ATP合成を通常の十倍の効率で行い、細胞膜の熱伝導率を意識的に変化させられる。簡単に言えば――」
「俺は人間型の熱機関だ」
「そう。でも制御できていない。だから暴走する。熱力学第二法則に逆らえば、代償がある」
零は理解した。「エントロピーの増大に抗うには、エネルギーが必要だ。そのエネルギーは――」
「あなた自身の生命力よ」ミハルは頷いた。「能力を使うたび、あなたの細胞は損傷する。不可逆的に」
だから、零の身体は常に疲労していたのか。任務のたび、原因不明の倦怠感に襲われていた。筋肉が軋み、関節が痛んだ。
「どうすれば制御できる?」
「訓練よ。そして――」ミハルは別の図を示した。複雑な相図が画面を埋め尽くす。「相転移理論を応用する」
「相転移?」
「物質が状態を変える現象。氷が水になる、水が蒸気になる。分子の配置が劇的に変化する瞬間」ミハルの目が輝いた。彼女が話すとき、父親の面影が浮かぶ。「あなたの能力も、相転移として捉えられる。通常状態と覚醒状態の間を、意識的に行き来できれば――」
「制御できる」
「父は、その理論を完成させる前に――」ミハルの声が詰まった。唇を噛みしめ、涙をこらえている。
零は立ち上がった。身体が重い。だが、立ち止まるわけにはいかない。「俺が完成させる。博士のために。そして、組織を潰すために」
訓練が始まった。
廃ビルの地下室で、ミハルの指導の下、零は自分の能力と向き合った。湿った空気、錆びた配管、遠くで滴る水音。
「まず、自分の体温を感じて」ミハルは温度計を零の額に当てた。冷たいセンサーが肌に触れる。「意識を集中して、熱の流れを感じる」
零は目を閉じた。最初は何も感じなかった。暗闇。静寂。そして――
だが次第に――感じ始めた。
血液が体内を巡る温かさ。心臓が鼓動するたび生まれる熱。筋肉が微細に震えることで発生するエネルギー。まるで身体の内側に、無数の小さな炎が灯っているようだ。
「感じる」零は呟いた。
「良い。次は、その熱を一点に集中させて。右手に」
零は意識を右手に集中させた。血流を感じる。毛細血管を流れる温かさ。じわりと、手のひらが熱くなる。皮膚の表面に汗が滲む。温度計が示す数値が上昇していく。三十七度、三十八度、四十度――
「十分。今度は冷やして」
意識を切り替える。難しい。逆方向への制御。熱を逃がす。手のひらから空気中へ。まるで体内の水門を開くような感覚。温度が下がっていく。三十五度、三十度、二十五度――
「すごい」ミハルは驚嘆した。目を見開き、データを記録している。「父の理論通りだわ。あなたは熱伝導率を意識的に変化させている」
訓練は日を追うごとに高度になった。
空間全体の温度を下げる訓練。部屋の空気から熱を吸い取る。吐く息が白くなる。
局所的に温度を上げる訓練。指先だけを灼熱にする。新聞紙が自然発火する。
急速な温度変化で空気の対流を起こし、風を作り出す訓練。紙片が舞い上がる。
そして――他者から熱を奪う訓練。
「これが、あなたの最も致命的な技術」ミハルはマネキンを用意した。医療用の高性能なもので、内部に温度センサーが張り巡らされている。「だが、最も制御が難しい。他者の熱を奪うということは、彼らの生命エネルギーを奪うこと。一歩間違えば――」
「殺してしまう」
「そう。だから、精密な制御が必要」
零はマネキンに触れた。プラスチックの冷たさ。だが、内部には温度センサーが仕込まれている。ゆっくりと、熱を吸収する。自分の身体に流れ込んでくる温かさ。センサーの数値が下がっていく。
「良い。その調子。相手を気絶させるには、脳の温度を約二度下げればいい。殺すには――五度以上」
零は慎重に制御した。熱を吸い取りすぎないように。まるで繊細な楽器を演奏するように。
訓練の合間、ミハルは零に熱力学を教えた。博士が残した教科書を使って。ページは使い込まれ、博士の手書きのメモが余白を埋めている。
「熱力学第三法則」ミハルは説明した。「絶対零度では、完全な秩序状態になる。エントロピーがゼロに近づく」
「だが、絶対零度には到達できない」零が言った。
「そう。どれだけ冷やしても、完全なゼロには届かない。それが宇宙の法則」ミハルは微笑んだ。その笑顔に、少しだけ悲しみが混じる。「父はよく言っていたわ。『完璧は存在しない。だから人間は努力し続ける』と」
零はミハルの横顔を見た。窓から差し込む光が、彼女の髪を照らしている。彼女は父親の死を悲しんでいるはずなのに、復讐ではなく、父の遺志を継ぐことを選んだ。
「ミハル」零は言った。「なぜ俺を助ける? 俺は殺人者だ。お前の父親は俺のせいで――」
「違う」ミハルは首を振った。強く、明確に。「父を殺したのは組織。あなたじゃない。それに、父はあなたを信じていた。『零くんには、まだ人間性が残っている』と」
「人間性か」零は自嘲した。「俺は人間ですらない。実験体だ」
「あなたは人間よ」ミハルは強く言った。零の肩を掴み、まっすぐ目を見る。「遺伝子が改変されていても、心は人間のもの。父がそう言っていた。そして私も、そう信じる」
その言葉に、零は救われた。胸の奥が温かくなる。それは能力ではない。別の何か。
二週間が過ぎた。零の制御能力は飛躍的に向上した。体温を自在に操り、空間の温度を変化させ、他者から精密に熱を奪う。
だが、平穏は長く続かなかった。
ある夜、隠れ家の警報装置が作動した。ミハルが設置した簡易的なものだが、十分に役立つ。誰かが近づいている。
「追手だ」ミハルは装備を手に取った。予め用意していたバックパックから、発煙筒とスタンガン。「予想より早い」
零は窓から外を見た。月明かりの下、黒いバンが三台、ビルを囲んでいる。武装した男たちが降りてくる。赤外線スコープの光が闇の中で踊る。
「何人いる?」
「少なくとも二十人」ミハルは銃を構えた。彼女の手が震えていない。訓練されている。「多すぎる」
「お前は逃げろ」零は立ち上がった。「データを守れ。俺が時間を稼ぐ」
「一人で? 無理よ!」
「俺には能力がある」零は手のひらを見た。薄暗い部屋で、微かに湯気が立ち上っている。「博士が教えてくれた力。今こそ使うときだ」
零は階段を降りた。一階のロビーに敵が侵入してくる。ブーツの音。武器の金属音。
「逆井零、投降しろ!」拡声器の声が反響する。「抵抗すれば、射殺する!」
零は答えなかった。代わりに、意識を集中させた。
自分の体温を上げる。筋肉が熱を発生させる。代謝が加速する。心拍数が上がる。全身の細胞が覚醒する。
そして――周囲の空気から熱を吸収する。
ロビーの温度が急激に下がった。敵兵たちが息を白くする。窓ガラスに霜が降りる。
「何だ、これは――」
零は動いた。
超人的な速度で、最初の敵に接近する。空気を切り裂く音。首筋に触れる。瞬時に熱を奪う。男の目が白く反転し、意識を失って倒れた。
二人目。三人目。零は次々と敵を無力化していく。まるで死神のように。触れるだけで、意識を刈り取っていく。
だが、銃声が響いた。
弾丸が零の肩を掠めた。熱い痛みが走る。血が流れる。
「くそ、能力者か! 熱源探知装置を使え!」
赤外線スコープ。零の高体温が、逆に弱点になった。暗闇の中、彼の身体が赤く光って見える。
集中砲火。零は柱の陰に隠れた。銃弾がコンクリートを削る。破片が頬を切る。
どうする? 二十人全員を無力化するには、体力が足りない。すでに呼吸が荒い。
その時、ミハルの声が聞こえた。
「零、上を見て!」
天井から、何かが落ちてきた。煙幕弾。部屋が白煙で満たされる。視界がゼロになる。
ミハルが階段を降りてきた。手には閃光手榴弾。ピンを抜き、投げる。
閃光と轟音。敵が錯乱する。
「逃げるわよ!」
二人は裏口から脱出した。追跡者の叫び声が遠ざかる。路地を走り、人混みに紛れ、地下鉄に乗る。やっと、追手を撒いた。
別の隠れ家――ミハルの友人のアパート――に辿り着いたとき、零は限界だった。能力の使いすぎで、身体が悲鳴を上げている。視界が霞む。膝が笑う。
「横になって」ミハルは救急箱を取り出した。「傷を診るわ」
肩の傷は浅かったが、零の顔色は悪かった。唇が青ざめ、額に冷や汗が浮かんでいる。
「やはり、代償が大きい」ミハルは心配そうに言った。ガーゼで傷を拭う手が優しい。「能力を使うたび、あなたの細胞は――」
「分かってる」零は目を閉じた。「でも、他に方法がない」
「ある」ミハルは決意を込めて言った。「父の理論。相転移理論を完成させる。そうすれば、エネルギー効率が上がる。代償を最小限にできる」
「どうやって?」
「父のノートには、理論の骨子がある。だが実験データが足りない。あなたの能力を、もっと詳しく分析する必要がある」
「時間がない」零は立ち上がろうとして、めまいで倒れた。
ミハルが支えた。彼女の腕が、意外と力強い。「無理しないで。今は休んで」
零はベッドに横たわった。古いベッドがきしむ。天井を見つめながら、考えた。
組織はこれからも追ってくる。逃げ続けることはできない。
だったら――戦うしかない。
「ミハル」零は言った。「組織を潰す。そのためには、どうすればいい?」
ミハルは少し考えてから答えた。「三つの方法がある。一つ、データを公開して、世論を動かす。二つ、組織の資金源を断つ。三つ――」
「本部を破壊する」
「そう。だが、どれも簡単じゃない。組織は巨大よ。世界中に拠点がある」
零は考えた。組織の構造。権力のネットワーク。そして――カルノー。
「カルノー」零は呟いた。「組織のトップ。全ての元凶。彼を倒せば――」
「組織は機能不全に陥る」ミハルは頷いた。「でも、カルノーは誰も会ったことがない。幻の存在」
「博士は会ったことがあるのか?」
「一度だけ」ミハルは遠い目をした。窓の外、夜景を見つめる。「父が言っていた。カルノーは――狂っていると」
翌日、ミハルは零に古い映像を見せた。博士が隠し持っていたもの。暗号化されていたファイル。
画面には、豪華な会議室。長いテーブルを囲む、権力者たち。政治家、軍人、企業のCEO。皆、仮面をつけている。
そして、最上座に座る一人の男。
五十代後半、白髪、鋭い目つき。完璧に仕立てられたスーツ。彼だけが素顔だ。
「これがカルノーよ」ミハルは言った。
男が話し始めた。声は冷たく、機械的だった。感情の起伏がない。
「諸君。我々の計画は順調に進んでいる。熱力学的最適化――無駄を排除し、完璧な効率で動く社会の実現。それが我々の使命だ」
画面の中のカルノーが立ち上がった。窓に向かって歩く。
「人間は非効率的だ。感情に流され、衝動的に行動し、資源を浪費する。だが、我々は違う。科学的に、合理的に、世界を再設計する。不要な要素は削除する。必要な要素は強化する」
彼は窓の外、街を見下ろした。夜景が彼の瞳に映る。
「見ろ。あの混沌とした街を。犯罪、貧困、紛争――全ては人間の非効率性から生まれる。我々はそれを終わらせる。完璧な秩序の世界を作る。熱的死のような、静かで、平和な世界を」
映像が終わった。
零は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。「こいつは――」
「狂信者よ」ミハルは言った。「秩序への狂信。効率への執着。彼にとって、人間は最適化すべきシステムの部品でしかない」
「博士は、なぜこの映像を?」
「証拠として」ミハルはUSBメモリを取り出した。「これと、研究データを合わせれば、組織の犯罪を証明できる」
零は決意を固めた。「公開しよう。世界に知らせる」
だが、その夜、事態は急変した。
ニュースが緊急速報を流した。テレビの画面が赤く点滅する。
「東京都内で連続爆破テロ。犯人は逆井零と名乗る男。元暗殺組織のメンバーで――」
画面に零の顔写真が映った。組織が持っていたデータ。
「組織が先手を打ったのよ」ミハルは青ざめた。「あなたをテロリストに仕立て上げた」
零は歯噛みした。「データを公開しても、俺がテロリストなら信用されない」
「どうする?」
零は考えた。追い詰められた。逃げ場はない。世間は敵。組織も敵。
だったら――
「組織の中規模拠点を襲う」零は言った。「そして、証拠を奪う。もっと決定的な証拠を」
「危険すぎる」
「他に方法がない」零はミハルを見た。「お前はここに残れ。データを守れ」
「一人で行くつもり?」
「一人の方が動きやすい」
だがミハルは首を振った。強く、断固として。「行かせない。一緒に行く」
「お前は戦えない」
「でも、ハッキングはできる」ミハルはノートパソコンを掲げた。「組織のセキュリティを破れる。二人なら、成功率が上がる」
零は迷った。彼女を危険に晒したくない。だが――
ミハルの目には、揺るぎない決意があった。父親と同じ、強い意志の光。
「父の仇を討たせて」彼女は言った。「私にも、戦う権利がある」
零は頷いた。「分かった。一緒に行こう」
### 第4章:真実への接近
二人は計画を立てた。標的は、組織の関東支部。新宿の高層ビルの地下に、研究施設がある。そこには、より詳細な実験記録と、権力者との通信記録が保管されているはずだ。
準備に三日かかった。武器の調達。ビルの設計図の入手。警備のシフト表の分析。そして、零の能力の最終調整。
「相転移理論の鍵は、エネルギーの集中と分散のバランスよ」ミハルは図を描いた。ノートに走る彼女のペンが、複雑な曲線を描く。「あなたが暴走するのは、エネルギーを一方向に放出しすぎるから。代わりに、循環させる。自分の体内で熱を回す。そうすれば――」
「効率が上がる」
「そう。カルノーサイクルと同じ原理」
零は訓練した。体内で熱を循環させる。右手から左手へ。上半身から下半身へ。熱を無駄に放出せず、保存する。まるで体内に閉じた系を作るように。
徐々に、コツを掴んだ。
「できた」零は手のひらを見た。熱が安定している。ゆらめかない炎のように。「これなら、長時間戦える」
「良かった」ミハルは微笑んだ。その笑顔に、安堵と誇りが混じる。「あなたは進化している。父が見たら、喜ぶわ」
決行の夜が来た。
二人は組織の関東支部ビルに侵入した。深夜、警備は手薄なはずだった。
ミハルがセキュリティシステムをハッキングする間、零は警備員を無力化していった。音もなく、痕跡も残さず。首筋に触れ、熱を奪う。男たちは静かに眠りに落ちる。
「地下三階の研究室まで、あと五分」ミハルがイヤホンで囁いた。「警備が手薄になる時間帯。今よ」
零は階段を降りた。蛍光灯の明かりが冷たく照らす。研究室のドアの前。電子ロック。赤いランプが点滅している。
ミハルがリモートで解除する。電子音。緑のランプ。ドアが開いた。
中は薄暗かった。コンピュータの画面だけが、青白い光を放っている。機械の動作音だけが聞こえる。
零はUSBメモリを差し込んだ。データのコピーが始まる。進行状況を示すバーがゆっくりと伸びていく。
だが――
「よく来たね、零」
声が聞こえた。
明かりがついた。まぶしい。
部屋の奥に、カルノーが立っていた。
「君が来ることは、予測していた」カルノーは微笑んだ。冷たい笑み。「君は予測可能だ。感情的で、衝動的で、だから――コントロールしやすい」
零は構えた。「罠か」
「いや、機会だ」カルノーは歩み寄った。革靴の音が床を叩く。「君に直接会いたかった。被験体No.0。我々の最高傑作」
「俺は、お前の作品じゃない」
「いや、君は我々が作った」カルノーの目が光った。狂気の光。「完璧な熱力学的兵器。だが、欠陥品だった。感情を持ってしまった」
「感情は欠陥じゃない」
「いいや、欠陥だ」カルノーは断言した。まるで数学の定理を述べるように。「感情は非効率だ。判断を鈍らせ、エラーを生む。完璧なシステムに感情は不要。我々が目指すのは、感情のない、完璧に機能する社会だ」
零は拳を握りしめた。「お前は狂っている」
「狂気?」カルノーは笑った。その笑い声に、人間味がない。「いや、これは究極の合理性だ。見ろ、この世界を。戦争、貧困、犯罪――全ては人間の感情から生まれる。憎しみ、欲望、恐怖。それらを排除すれば、完璧な平和が実現する」
「それは平和じゃない。死んだ世界だ」
「死?」カルノーは首を傾げた。「いや、熱的死だ。完全な熱平衡状態。変化がない、争いがない、苦しみがない。それが理想の世界だ。エントロピーが最大になった、静かな楽園だ」
零は理解した。この男は本気だ。人類を熱力学的に最適化しようとしている。全ての感情を、全ての無駄を削除して。それが彼の正義だ。
「お前を止める」零は言った。
「止められない」カルノーは冷たく答えた。「我々は既に、世界の権力構造に深く入り込んでいる。私を殺しても、システムは動き続ける。エントロピアは、もはや組織ではない。思想だ。理想だ。そしてそれは、もう後戻りできない」
その瞬間、警報が鳴り響いた。
「零、逃げて!」ミハルの声がイヤホンから。「増援が来る!」
カルノーは微笑んだ。「さあ、選べ。逃げるか、戦うか。どちらを選んでも、君は負ける」
零は悔しさに歯を食いしばった。
だが、データのコピーは完了していた。USBメモリを引き抜く。これだけでも、価値がある。
零は窓を破って脱出した。ガラスが砕け散る。夜の空気が肌を刺す。
ビルの外で、ミハルが待っていた。二人は走った。足音が アスファルトを叩く。
背後から銃声。零は振り返らなかった。
何とか逃げ切った。
---
(第二幕続く)
隠れ家に戻り、データを確認した。
「これは――」ミハルは息を呑んだ。画面に次々と表示される情報に、顔色が変わる。「すごい。組織の完全な構造図。全支部のリスト。資金の流れ。そして――」
画面に、驚愕の情報が表示された。
「組織は、各国政府の内部に協力者を持っている」ミハルは震える声で言った。指がキーボードの上で止まる。「日本だけじゃない。アメリカ、中国、ロシア、EU――世界中に」
零は理解した。カルノーが言っていた通りだ。組織は、もはや単なる暗殺集団ではない。世界を動かす影の支配者だ。政治家、軍人、企業のトップ――全てが繋がっている。
「どうすればいい?」ミハルが尋ねた。
零は考えた。データを公開しても、組織の力で揉み消されるかもしれない。権力者たちが結託すれば、真実は闇に葬られる。メディアも、司法も、すでに汚染されている。
だったら――
「本部を破壊する」零は言った。「システムの中枢を。カルノーを」
「どうやって? 本部の場所も分からない」
「このデータにあるはずだ」零はファイルを漁り始めた。膨大なフォルダの中を探る。「どこかに、手がかりが」
数時間後、見つけた。
「これだ」零は画面を指差した。「富士山麓の地下施設。組織の中央研究所。カルノーがいる」
ミハルは地図を確認した。衛星写真を拡大する。森の中、何もないように見える場所。だが、地熱の分布が異常だ。地下に巨大な構造物がある。「警備は?」
「最高レベル。侵入は不可能に近い」データを読み進める。警備員の数、自動防衛システム、対能力者用の装備。
「でも、行くのね」
零は頷いた。「行く。これが最後の戦いだ」
「二人では無理よ」ミハルは現実的に言った。「他に協力者が必要」
データの中に、元実験体のリストがあった。No.1からNo.46まで。そのうち、生存が確認されているのは十二人。組織から逃れた者たち。
零とミハルは、彼らを一人ずつ探し始めた。
最初に見つけたのは、No.23――通称「灰燼」。
彼女は二十六歳、元実験体で、炎を操る能力を持っていた。正確には、局所的に酸化反応を加速させる能力だ。空気中の酸素と物質を急速に反応させ、発火させる。
灰燼は東京の下町、小さなバーで働いていた。夜の街、ネオンの明かり。零とミハルが訪ねると、彼女は警戒した目で見た。カウンターの奥から、まるで野生動物のように。
「何の用?」声に棘がある。
「エントロピアと戦う。協力してほしい」零は単刀直入に言った。
灰燼は笑った。皮肉な笑い。「断る。あたしはもう、組織とは関係ない」
「本当に?」ミハルは写真を見せた。「あなたの妹、まだ組織に捕らわれている」
灰燼の表情が凍りついた。手に持っていたグラスが、ひび割れる。「何を――」
「No.24。あなたと同じ実験を受けた。今も、地下施設に」
灰燼は写真を奪い取った。妹の顔。痩せこけて、苦痛に歪んでいる。実験台に縛られている。
「あいつら――」灰燼の手が震えた。グラスが砕け、破片が床に散る。「許さない」
「一緒に戦おう」零は手を差し伸べた。「妹を救おう」
灰燼は長い間考えてから、手を握った。その手は熱かった。「分かった。協力する」
次に見つけたのは、No.7――通称「凍夜」。
彼は三十歳、氷を操る能力を持っていた。正確には、空気中の水分を瞬時に凝固させる能力。熱力学的には、局所的なエントロピーの減少。
凍夜は北海道の山奥で、隠遁生活を送っていた。雪に覆われた小屋。零たちが訪ねると、彼は銃を向けた。
「帰れ。俺は誰とも関わらない」
「組織を潰すチャンスだ」零は言った。「お前も、復讐したいだろう?」
凍夜は笑った。空虚な笑い。「復讐? 興味ない。俺はもう、何も失うものがない」
「本当に?」ミハルはノートパソコンを見せた。「組織は今も、新しい実験体を作り続けている。子供たちを拉致して」
画面には、幼い子供たちの写真。実験台に縛られ、泣き叫んでいる。まだ十歳にもなっていない。
凍夜の目が変わった。銃を握る手に力が入る。「これは――」
「お前が受けた実験と同じだ。今も続いている」
凍夜は銃を下ろした。「分かった。協力する。だが、一つ条件がある」
「何だ?」
「カルノーは、俺が殺す」
零は頷いた。「構わない」
こうして、仲間が集まり始めた。
No.15「雷光」――電気を操る能力者。神経系の電気信号を外部に放出できる。
No.31「重力」――重力場を歪める能力者。質量とエネルギーの関係を操作する。
No.42「透明」――光を屈折させ、姿を消す能力者。
合計六人の元実験体。それぞれが、組織に人生を奪われた被害者。そして、今は復讐者。
彼らは廃工場に集まった。
「なぜ俺たちを集めた?」雷光が尋ねた。彼は二十三歳、攻撃的な性格だ。全身に刺青がある。
「組織の本部を襲撃する」零は地図を広げた。「ここ、富士山麓の地下施設」
「自殺行為だ」重力が言った。彼は四十代、冷静な男だ。元軍人の風格がある。「警備は厳重だろう」
「だが、俺たちには能力がある」零は仲間を見回した。「一人では無理でも、六人なら可能性がある」
「可能性?」透明が呟いた。彼女は十代、最年少だ。不安げな目。「どのくらい?」
「十パーセント」ミハルが答えた。「でも、やらなければゼロ」
沈黙が流れた。重い空気。
やがて、凍夜が立ち上がった。「やろう。どうせ、俺たちは死んだも同然だ。だったら、道連れを作ろう」
灰燼も頷いた。拳を握りしめ、指の間から炎が漏れる。「妹を救う。それだけだ」
一人、また一人と、仲間が賛同した。
「ありがとう」零は頭を下げた。「俺たちで、この戦いを終わらせよう」
訓練が始まった。
六人の能力者が協力して戦う方法を模索する。それぞれの能力は強力だが、連携が取れなければ意味がない。
灰燼が炎を作り、凍夜が氷で防御壁を作る。熱と冷気が交錯する。雷光が電撃で敵を麻痺させ、重力が敵の動きを封じる。透明が偵察し、零が致命的な一撃を加える。
連携が重要だった。タイミング、距離、コミュニケーション。
「タイミングを合わせろ!」ミハルが指示を出した。彼女は戦闘には参加しないが、戦術家として不可欠だった。無線で指示を飛ばし、全体を統率する。
訓練の合間、零は仲間たちの過去を知った。
灰燼は、幼い頃に両親を組織に殺された。妹と二人、実験体にされた。脱走に成功したが、妹は残された。
凍夜は、恋人を組織に奪われた。彼女は実験に失敗し、死んだ。彼女の最後の言葉を、今も覚えている。
雷光は、元は普通の大学生だった。ある日突然拉致され、人生を奪われた。家族は今も、彼を探している。
重力は、元軍人だった。組織に裏切られ、実験体にされた。仲間を全員失った。
透明は、孤児だった。組織に「保護」され、気づいたときには実験台の上だった。本当の名前も覚えていない。
皆、組織に人生を破壊された。
「俺たちは似ている」ある夜、凍夜が言った。焚き火を囲んで、仲間が座っている。炎が顔を照らす。「皆、エントロピーの犠牲者だ」
「エントロピー?」灰燼が尋ねた。
零が説明した。「無秩序の度合いだ。エントロピーは常に増大する。秩序は崩壊し、全ては混沌へ向かう。熱力学第二法則だ」
「俺たちの人生も、そうだった」雷光が呟いた。「突然、全てが崩れた」
「でも」ミハルが言った。「エントロピーの増大は、新しい可能性も生む。古い構造が壊れることで、新しい構造が生まれる。それも熱力学の教えよ」
重力が笑った。「哲学的だな」
「でも、本当よ」ミハルは火を見つめた。「私たちは、組織という古い構造を壊す。そして、新しい世界を作る機会を得る」
その言葉に、皆が頷いた。
訓練が進むにつれ、零の能力も進化していた。
ミハルの理論指導の下、零は「相転移」の技術を習得しつつあった。通常状態から、一段階上の状態へ。
「相転移とは、物質の状態が劇的に変化する現象」ミハルは図を描いた。「水が氷になる瞬間、分子の配置が一気に変わる。エネルギーの入力なしに、構造が変化する」
「それが、俺の能力と関係あるのか?」
「ある」ミハルは頷いた。「あなたの身体も、相転移を起こせる。通常状態から、超代謝状態へ。その瞬間、エネルギー効率が飛躍的に上がる」
零は試してみた。
意識を集中する。体内の熱を循環させる。エネルギーを蓄積する。そして――臨界点を超える。
その瞬間、零の身体が変化した。
皮膚が微かに発光する。淡い青白い光。体温が急上昇するが、制御されている。筋力、反射速度、思考速度――全てが向上した。世界がスローモーションに見える。
「これが、相転移状態か」零は自分の手を見た。力が溢れている。細胞が歓喜の叫びを上げている。
「でも、長くは持たない」ミハルは警告した。「この状態は不安定。五分が限界」
「十分だ」零は微笑んだ。「五分あれば、勝負はつく」
だが、相転移には代償があった。
使用後、零は激しい疲労に襲われた。細胞が損傷し、回復に時間がかかる。筋肉が痙攣し、視界が霞む。
「やはり、エントロピーの法則には逆らえない」ミハルは悲しそうに言った。「秩序を保つには、エネルギーが必要。そのエネルギーは、あなた自身から来る」
「分かっている」零は答えた。「だが、これが俺の選択だ。不可逆の」
準備が整った。
武器、装備、作戦計画――全てが揃った。各自の役割も決まった。
出発の前夜、零は一人で外に出た。
星空を見上げる。無数の星が瞬いている。それぞれが、核融合で輝く太陽。エネルギーを放出し、やがて燃え尽きる運命。
「博士」零は呟いた。「俺は、あなたの教えを守ります。人間であり続けます」
背後で、足音がした。ミハルだった。
「眠れないの?」彼女が尋ねた。
「明日、どうなるか分からない」零は答えた。「だから、今を大切にしたい」
ミハルは零の隣に立った。彼女の肩が、零の腕に触れる。温かい。「怖い?」
「ああ」零は正直に答えた。「怖い。死ぬかもしれない。仲間を失うかもしれない。でも――」
「でも?」
「後悔はしない。これが、俺の選択だから」
ミハルは微笑んだ。月明かりが彼女の横顔を照らす。「父も、そう言っていたわ。『選択には責任が伴う。だが、選択しないことも、選択だ』と」
二人は黙って星を見た。
やがてミハルが言った。「零、約束して。生きて帰ってくると」
零は彼女を見た。ミハルの目に、涙が光っていた。
「約束する」零は言った。「必ず帰ってくる」
嘘かもしれない。だが、この瞬間、零は本気でそう信じていた。そして――初めて誰かのために生きたいと思った。
## 第三幕:クライマックスと解決
### 第5章:最終決戦・熱力学の檻
翌朝、六人の能力者とミハルは、富士山麓へ向かった。
バンの中で、最終確認をする。緊張が張り詰めている。
「侵入ルートは?」雷光が尋ねた。
ミハルが地図を示した。「地下水道から。ここ、施設の排水口に繋がっている」
「警備は?」
「重装備の兵士、約百人。加えて、自動防衛システム。熱源探知、動体検知、生体認証――全て最新式」
「百人か」凍夜が笑った。「一人十七人ずつだな」
「殺すな」零は言った。「彼らも、システムの犠牲者かもしれない」
「甘いな」凍夜が返した。
「甘くていい」零は答えた。「俺たちは、組織と同じになってはいけない」
凍夜は黙った。
施設の近くで、バンを降りた。森の中を進む。朝霧が立ち込め、視界が悪い。やがて、排水口が見えてきた。
「ここからだ」透明が先頭に立った。彼女の能力で、監視カメラを欺く。光を屈折させ、存在を消す。
地下水道に入る。湿った空気、かび臭い匂い。水音が反響する。
ミハルはノートパソコンで、施設の配置図を確認している。
「中央制御室まで、あと五百メートル。そこのサーバーに、全てのデータがある」
「データを奪取したら?」重力が尋ねた。
「施設を破壊する」零は答えた。「跡形もなく」
やがて、施設の内部に侵入した。白い廊下、蛍光灯の明かり。
警報はまだ鳴っていない。順調だ。
だが――
「待って」透明が立ち止まった。「何かおかしい」
「何が?」
「静かすぎる。警備が、いない」
零も気づいた。廊下に、誰もいない。あまりにも静か。
「罠だ」凍夜が言った。
その瞬間、照明が消えた。
そして、拡声器から声が響いた。
「ようこそ、実験体諸君」
カルノーの声だった。
「君たちが来ることは、予測していた。全て、計算通りだ」
照明が戻った。
彼らは、巨大なホールの中央にいた。周囲を、重装備の兵士が囲んでいる。二百人以上。全員が銃を構え、照準を合わせている。
「くそ」雷光が呟いた。
カルノーが、ホールの上部、制御室の窓から見下ろしていた。
「君たちは優秀な実験体だ。だが、感情に支配されている。だから、予測可能だ。復讐したい、正義を果たしたい――その感情が、君たちをここに導いた」
零は叫んだ。「何が目的だ!」
「実験だよ」カルノーは微笑んだ。「複数の能力者が協力したとき、どの程度の戦闘力を発揮するか。それを測定したかった。君たちは貴重なサンプルだ」
「俺たちを――実験台に?」
「そう。君たちは逃げられない。だが、戦えば、貴重なデータが得られる。さあ、始めよう。君たちの能力を、最大限に発揮してくれたまえ」
兵士たちが銃を構えた。レーザーサイトの赤い点が、零たちの身体を照らす。
「戦うしかない」凍夜が言った。
零は仲間を見た。皆、覚悟を決めた目をしている。ここまで来た。もう、後には引けない。
「行くぞ」零は叫んだ。
戦闘が始まった。
灰燼が炎の壁を作る。銃弾が炎に触れ、蒸発する。凄まじい熱波。
凍夜が床を凍らせる。兵士たちが転ぶ。氷の結晶が光を反射する。
雷光が電撃を放つ。敵の武器が機能不全に陥る。電子機器がショートする。
重力が局所的に重力を増大させる。兵士たちが地面に押し付けられる。動けない。
透明が姿を消し、敵の背後から攻撃する。気づかれずに、確実に。
そして零が、最前線で戦う。
敵に触れ、熱を奪う。次々と意識を失わせていく。だが、敵は多い。
疲労が蓄積していく。呼吸が荒くなる。筋肉が悲鳴を上げる。
「まずい」ミハルがイヤホンで言った。彼女は安全な場所から、戦況を監視している。「敵の第二波が来る」
さらに百人の兵士が現れた。武装が強化されている。
「きりがない」灰燼が叫んだ。炎を放ち続け、体力が限界に近い。
「ここは俺に任せろ」零は決意した。「お前たちは、制御室へ行け。カルノーを捕まえろ」
「一人で? 無理だ!」
「相転移を使う」零は答えた。「五分あれば、十分だ」
零は意識を集中させた。
体内の熱を循環させる。エネルギーを蓄積させる。心臓の鼓動が速くなる。全身の細胞が活性化する。臨界点を超える――
相転移。
零の身体が発光した。青白い光が、ホール全体を照らす。圧倒的な力が溢れる。
「行け!」零は叫んだ。
仲間たちは制御室へ走った。零を信じて。
零は敵に向かって突進した。
超人的な速度。残像が見える。一瞬で敵陣に到達。触れるだけで、敵が倒れていく。
銃弾が飛んでくるが、零は熱で空気の壁を作る。空気が屈折し、弾道が逸れる。弾丸が溶ける。
三百人の兵士。だが、零は止まらない。
一人、また一人と、敵を無力化していく。まるで嵐のように。
だが、時間は限られている。
四分経過。零の身体が悲鳴を上げ始める。細胞が限界を訴える。
あと一分。
最後の力を振り絞って、残りの敵を一掃した。熱波が放射され、敵が一斉に倒れる。
そして――時間切れ。
相転移が解除された。零は膝をついた。全身が痛む。視界が霞む。細胞が損傷している。立ち上がれない。
だが、やり遂げた。三百人を、一人で。
イヤホンから、ミハルの声。
「零、大丈夫!?」
「ああ――何とか」零はかすれた声で答えた。「そっちは?」
「仲間たちが制御室に到達した。カルノーと対峙している」
「行く」零は立ち上がろうとした。
だが、身体が動かない。力が入らない。
その時、ミハルが駆けつけた。
「無理しないで」彼女は零を支えた。
「でも――」
「大丈夫。仲間を信じて」
零は頷いた。
制御室では、激しい戦闘が繰り広げられていた。
ドアが爆発し、五人の能力者が突入する。
カルノーは悠然と椅子に座っていた。
「よく来たね。実に素晴らしいデータが取れた」彼は画面を見ている。そこには、零の戦闘シーンが映し出されていた。「被験体No.0の相転移状態――完璧だ」
「遊びは終わりだ」凍夜が氷の刃を向けた。
「遊び?」カルノーは笑った。「これは科学だよ。君たちは、人類進化の礎となる」
「黙れ」灰燼が炎を放った。
だがカルノーは動じなかった。彼の周囲に、透明なバリアが展開された。熱力学的防御フィールド。
炎が弾かれる。
「何だ、これは?」
「熱力学的防御フィールド」カルノーは説明した。「エネルギーの流れを制御し、あらゆる攻撃を無効化する。君たちの能力も、所詮は物理法則の範囲内。ならば、対策は可能だ」
雷光が電撃を放つ。重力が重力場を歪める。だが、全て防がれる。
「無駄だ」カルノーは立ち上がった。「君たちは実験動物だ。私の手のひらで踊っているだけ」
その言葉に、凍夜が激昂した。
「動物だと? ふざけるな!」
彼は全力で氷の槍を作り、投げつけた。絶対零度に近い氷。エントロピーが極限まで減少した状態。
バリアに阻まれる――かに見えた。
だが、槍は貫通した。
カルノーの肩に刺さる。血が流れる。
「何?」カルノーは驚愕した。「ありえない――」
凍夜は笑った。「お前のバリアは、熱エネルギーを制御する。だが、俺の氷は違う。俺はエントロピーを減少させる。秩序を作り出す。お前の予測の外だ」
カルノーは肩を押さえながら、後退した。初めて、恐怖の色が浮かぶ。
「まさか――局所的なエントロピー減少? そんなことが可能だとは――計算していなかった――」
「お前が忘れていることがある」凍夜は迫った。「人間は、お前の理論通りには動かない。予測不可能だ。それが、人間の強さだ」
---
(第三幕続く)
その時、部屋の奥から、新たな敵が現れた。
黒いスーツを着た男たち。だが、彼らは普通の人間ではなかった。目が虚ろだ。感情がない。
「実験体諸君、紹介しよう」カルノーは笑った。血を流しながらも、余裕を失わない。「次世代の能力者たちだ。完璧に洗脳され、感情を排除された、理想の兵器だ」
新実験体たち。十人以上。彼らは感情を持たない目をしていた。完全に制御されている。
「殺せ」カルノーが命じた。
新実験体たちが攻撃してきた。
炎、氷、電撃、重力――能力がぶつかり合う。凄まじいエネルギーの衝突。
零の仲間たちは必死に応戦したが、数で圧倒されていた。しかも、新実験体たちは痛みを感じない。恐怖もない。
「くそ」灰燼が叫んだ。「きりがない」
その時、ミハルの声がイヤホンから響いた。
「みんな、聞いて。施設の自爆装置を見つけた。起動させれば、全てを破壊できる」
「時間は?」重力が尋ねた。
「十分。それまでに脱出して」
「了解」
だが、カルノーも聞いていた。
「自爆装置? 愚かな。それを起動させれば、君たちも死ぬ。そして、何万という研究データも失われる。人類の進化の可能性が――」
「構わない」ミハルは答えた。声が震えていない。「あなたたちの悪を、ここで終わらせる」
カルノーは舌打ちした。「阻止しろ」
新実験体たちが、ミハルの方向へ向かおうとした。
だが――
ドアが再び爆発した。
零が立っていた。
満身創痍、血まみれ、だが――生きている。立っている。
「零!」仲間たちが叫んだ。
「遅れた」零は微笑んだ。苦痛に歪む顔で。「だが、まだ戦える」
カルノーは驚愕した。「相転移の後遺症で、動けないはずだが――」
「痛みなら感じている」零は一歩ずつ進んだ。足を引きずりながら。「だが、止まらない。俺には、守るものがある」
零は新実験体たちと対峙した。
「お前たちも、被害者だ」零は語りかけた。「洗脳されて、道具にされた。だが、心の奥底に、まだ人間性が残っているはずだ」
新実験体たちは動きを止めた。わずかな迷い。
「無駄だ」カルノーが叫んだ。「彼らは完璧に制御されている。感情など――」
「本当か?」零は一人の新実験体に近づいた。若い男。二十歳前後。「お前の名前は?」
新実験体は答えなかった。
「番号じゃない。お前の本当の名前だ」
新実験体の目に、一瞬、感情が宿った。混乱。苦痛。
「俺は――」声が震えた。「俺は――誰だ?」
その瞬間、他の新実験体たちも動揺し始めた。洗脳が解け始めている。
カルノーは焦った。「やめろ! 彼らを惑わすな!」
だが零は続けた。「お前たちは人間だ。道具じゃない。自分の意志を持っていい。選択する権利がある」
新実験体の一人が、頭を抱えて叫んだ。
「やめろ――頭の中に――誰かの声が――でも――俺は――」
洗脳が崩壊していく。
カルノーは激怒した。「貴重な実験体を――許さん!」
彼は自ら、武器を手に取った。銃ではない。奇妙な装置。筒状の機器。
「これは熱力学兵器だ」カルノーは照準を零に合わせた。「対象の熱エネルギーを瞬時に奪い、絶対零度に近づける。お前の能力も、これには勝てない」
引き金を引く。
光線が零に向かって放たれた。
零は避けられなかった。身体が動かない。
光線が直撃する――
だが。
灰燼が零の前に飛び出した。
光線が彼女を貫通する。
「灰燼!」零が叫んだ。
灰燼は倒れた。彼女の身体から、急速に熱が失われていく。凍り始める。皮膚が白くなる。
「なぜ――」零は彼女を抱きかかえた。
灰燼は微笑んだ。唇が青ざめている。「お前は――希望だ。死なせるわけには――いかない――妹を――頼む――」
そして、息絶えた。
零の中で、何かが弾けた。
怒り。悲しみ。そして――決意。
「カルノー!」零は立ち上がった。
彼の身体から、膨大な熱波が放射された。
怒りが、彼の能力を暴走させる。
だが今回は違う。制御されている。怒りを、力に変える。
零は相転移を再び起動した。
身体が発光する。だが、前回よりも強烈に。第二段階。さらに高次の状態。
「第二段階の相転移だと?」カルノーは震えた。「理論上は可能だが――実現したのか?」
零は答えなかった。ただ、カルノーに向かって歩いた。
カルノーは再び熱力学兵器を撃った。
だが、光線は零に届かない。零の周囲の空気が、あまりに高温で、光線が屈折してしまう。プラズマの壁。
「ありえない――熱力学第二法則に反している――」
「反していない」零の声は低く、冷たかった。「俺は代償を払っている。俺自身の命を燃やして」
零はカルノーの胸倉を掴んだ。
「お前は、人間を物として扱った」零の手が熱を帯びる。「感情を欠陥と呼んだ。だが、感情こそが人間を人間たらしめる」
「やめろ――」カルノーの声に、初めて恐怖が混じる。
「灰燼は、俺を守るために死んだ。それは非効率か? 無駄か?」零の手がカルノーの首に触れた。「違う。それは愛だ。自己犠牲だ。お前には理解できない、人間の尊さだ」
零は熱を送り込み始めた。
カルノーの体温が上昇する。痛みに悶える。皮膚が赤くなる。
「やめろ――頼む――」
零は躊躇した。
殺すべきか。この男を。
博士を殺した組織。灰燼を殺した男。無数の実験体を犠牲にした悪。
だが――
「いや」零は手を離した。「お前を殺しても、何も変わらない」
カルノーは床に崩れ落ちた。
「お前は法の裁きを受けろ」零は言った。「そして、自分のしたことを、生きて償え。それが、お前への罰だ」
その時、ミハルの声。
「自爆装置、起動した! あと五分!」
「逃げるぞ」零は仲間に叫んだ。
新実験体たちも、連れて行く。洗脳が解けた彼らは、混乱していたが、従った。
だがカルノーは動かなかった。床に座り込んだまま。
「来ないのか?」零が尋ねた。
カルノーは笑った。空虚な笑い。「私はここに残る。私の理論と共に。完璧な秩序を目指した私の夢と共に」
「狂っている」
「いや」カルノーは天井を見上げた。「これが私の選択だ。エントロピーに抗うことを選び、そして――失敗した。ならば、その代償を払う。熱力学第二法則には、誰も逆らえない」
零は何も言わなかった。ただ、背を向けて走った。
施設から脱出する。仲間たち、新実験体たち、そしてミハル。
森の中を走る。息を切らしながら。
背後で、轟音。
施設が爆発した。
巨大な火柱が天に昇る。地面が揺れる。爆風が木々を揺らす。
零たちは振り返った。
全てが、終わった。
灰燼の遺体は、施設と共に失われた。
零は空を見上げた。朝の光が差し始めている。
「すまない」零は呟いた。「守れなかった」
ミハルが零の手を握った。その手は温かい。
「彼女は、自分の意志で選んだ。その選択を、尊重しよう」
零は頷いた。
涙が頬を伝った。初めて、誰かの死を悼んで泣いた。
### 第6章:新たな熱平衡
組織の崩壊は、世界を揺るがした。
ミハルが公開したデータは、各国政府の内部にまで波及した。インターネットを通じて、瞬く間に拡散した。
権力者たちが次々と逮捕された。政治家、軍人、企業のCEO。エントロピアに協力していた者たちは、法の裁きを受けた。
世界中のメディアが、この事件を報道した。
「史上最大の陰謀」
「影の支配者たちの崩壊」
「人体実験の真実」
だが、零たちの名前は伏せられた。ミハルが手配したのだ。彼らは表舞台には出ず、静かに姿を消した。
三ヶ月後。
零は海辺の小さな町にいた。
誰も彼を知らない。ただの若者として、平凡な生活を送っている。
小さなカフェで働きながら、ゆっくりと身体を回復させていた。相転移の後遺症は深刻だったが、ミハルの治療で徐々に良くなっていた。
ある日、ミハルが訪ねてきた。
「元気そうね」彼女は微笑んだ。
「ああ」零はコーヒーを淹れた。豆を挽く音が心地よい。「平和だよ」
二人はテラス席に座った。海が見える。波の音が心地よい。潮の香り。
「他のみんなは?」零が尋ねた。
「それぞれの道を歩いている」ミハルは答えた。「凍夜は北海道に戻った。雷光は大学に戻って、勉強し直すって。重力は警備会社を立ち上げた。透明は――まだ自分探しの旅をしているわ」
「そうか」
「新実験体たちも、リハビリ施設で回復している。時間はかかるけど、きっと普通の生活に戻れる」
零は安堵した。「良かった」
ミハルは零を見つめた。「あなたは、これからどうするの?」
零は海を見た。水平線が遠くまで続いている。
「分からない」正直に答えた。「ずっと殺しをしてきた。それ以外の生き方を知らない」
「でも、今は違うでしょう」
「ああ」零は微笑んだ。「今は――自由だ」
自由。その言葉の重みを、零は初めて理解した。
選択する自由。生きる自由。愛する自由。
「父の理論、完成させたわ」ミハルは論文の束を取り出した。「相転移理論。あなたのデータを元に」
零はページをめくった。複雑な数式が並んでいる。だが、今は少し理解できる。
「これは――」
「人間の可能性を示す理論よ」ミハルは説明した。「人は、限界を超えられる。相転移のように、一段階上の状態に到達できる。肉体的にも、精神的にも」
「博士が目指していたものか」
「そう。でも父は、それを兵器にしようとした組織に利用された。だから私は、これを医療に使う」
「医療?」
「難病の治療、身体機能の回復――相転移理論を応用すれば、多くの人を救える」ミハルの目が輝いた。「父の研究を、正しい形で世に出したい」
零は彼女の手を握った。
「素晴らしい」零は言った。「博士も喜ぶだろう」
ミハルは涙ぐんだ。「ありがとう」
二人は黙って海を見た。
波が寄せては返す。永遠に繰り返される運動。エネルギーの流れ。
「エントロピーは増大し続ける」零は呟いた。「でも、その過程で――」
「新しい何かが生まれる」ミハルが続けた。
「組織は崩壊した。灰燼は死んだ。博士も。多くのものが失われた」零は言った。「でも、俺たちは生き延びた。そして、新しい未来が始まった」
「不可逆の未来」
「ああ。戻れない。でも――それでいい」
零は立ち上がった。
「少し散歩してくる」
「一緒に行ってもいい?」
「もちろん」
二人は海岸を歩いた。
砂浜に足跡が残る。波が来れば消えてしまう足跡。エントロピーの増大。
だが、また新しい足跡をつける。
それが生きるということだ。
零は思った。自分は何者なのか。
実験体No.0。組織が作った兵器。人間ではない存在。
だが――
博士が言った。「君は人間だ」
ミハルが言った。「心は人間のもの」
灰燼が命を懸けて守った。人間として。
ならば、自分も人間として生きよう。
過去は変えられない。不可逆だ。
だが未来は――まだ決まっていない。
零は空を見上げた。
夕日が海を赤く染めている。
美しい。
こんな風景を、美しいと思えるようになった。
それだけで、十分じゃないか。
「零」ミハルが呼んだ。
「ん?」
「私、父の研究所を立ち上げる。手伝ってくれない?」
零は驚いた。「俺が? 科学の知識なんて――」
「あなたには、経験がある。能力者としての。それに――」ミハルは微笑んだ。頬が少し赤い。「一緒にいてほしいの」
零の胸が温かくなった。
この感覚は何だろう。
愛、だろうか。
まだよく分からない。だが、悪くない。
「考えさせてくれ」零は答えた。
「もちろん」
二人は歩き続けた。
太陽が水平線に沈んでいく。
世界が少しずつ、暗くなる。
だが怖くはない。
明日、また太陽は昇る。
そして新しい一日が始まる。
---
それから一年後。
「熱海記念研究所」が設立された。
最先端の医療技術を開発する施設。相転移理論を応用した、革新的な治療法が次々と生まれている。
所長は相転ミハル。
そして研究補助として、一人の青年が働いていた。
名前は――新しく付けた名前で登録されている。本名は伏せられている。
逆井零という名前は、もう使わない。
過去は過去だ。
青年は実験室で、データを整理していた。
白衣を着て、平和な日常を送っている。
時々、夢を見る。
灰燼の顔。博士の笑顔。組織での日々。
だが、もう悪夢ではない。
それらは全て、自分を形作った記憶だ。
忘れてはいけない。だが、囚われてもいけない。
青年は窓の外を見た。
研究所の庭に、桜が咲いている。
春だ。
新しい季節。新しい命。
青年は微笑んだ。
その時、ミハルが入ってきた。
「休憩しましょう」彼女はコーヒーを二つ持っていた。
「ありがとう」
二人は並んで座った。窓の外の桜を見ながら。
「ねえ」ミハルが言った。「あなた、笑顔が増えたわね」
「そうか?」
「うん。最初に会ったときは、まるで氷のようだった。でも今は――」
「溶けた、のかな」青年は自嘲した。
「相転移したのよ」ミハルは真面目に言った。「固体から液体へ。硬い殻が溶けて、本当のあなたが出てきた」
青年は考えた。
確かに、変わった。
感情を取り戻した。笑うことを覚えた。泣くことも。
そして――愛することも。
「ミハル」青年は言った。
「何?」
「ありがとう」
「何が?」
「全部」
ミハルは微笑んだ。「こちらこそ」
二人は窓の外を見た。
桜の花びらが、風に舞っている。
儚く、美しい。
「エントロピーは増大する」青年は呟いた。「全ては崩壊へ向かう。桜も散る。俺たちも老いる。いつか死ぬ」
「でも」ミハルが続けた。「その過程が美しい。散る前に咲く。死ぬ前に生きる」
「そうだな」
青年は立ち上がった。
「仕事に戻ろう。まだやることがある」
「ええ」
二人は実験室に戻った。
データと向き合い、理論を構築し、未来を創る。
それが、彼らの選択だった。
---
その夜、青年は一人で屋上に出た。
星空を見上げる。
無数の星。それぞれが、膨大なエネルギーを放出している。核融合で輝く太陽たち。
宇宙全体で見れば、エントロピーは増大し続けている。
いつか、全ての星は燃え尽き、宇宙は熱的死を迎える。
完全な熱平衡。変化のない、静寂の世界。
だが、それは何百億年も先の話だ。
今、この瞬間、宇宙は生きている。
星が輝き、惑星が回り、生命が息づいている。
そして――自分も生きている。
青年は思った。
博士、見ていますか。
俺は人間として生きています。
あなたが教えてくれた熱力学の法則に従いながらも、その中で意味を見出しています。
不可逆の時間の流れの中で、一瞬一瞬を大切にしています。
エントロピーの増大に抗うことはできない。
でも、その過程で美しいものを創ることはできる。
愛、友情、希望――
それらは、熱力学の式には現れない。
でも、確かに存在する。
そして、それこそが人間を人間たらしめる。
青年は微笑んだ。
背後で、ドアが開く音がした。
ミハルだった。
「やっぱりここにいたのね」
「星を見ていた」
ミハルは隣に立った。夜風が髪を揺らす。
「きれいね」
「ああ」
二人は黙って星を見た。
やがてミハルが言った。
「ねえ、あなたの本当の夢って何?」
青年は考えた。
夢。
組織にいたときは、そんなものを考えたことがなかった。
ただ命令に従い、任務をこなし、生き延びる。それだけだった。
だが今は――
「穏やかに生きることかな」青年は答えた。「誰も傷つけず、誰にも傷つけられず。ただ、この平和な日々を続けること」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」青年は微笑んだ。「贅沢な夢だろう?」
ミハルは首を振った。「いいえ。当たり前の夢よ。でも、あなたにとっては――」
「初めて持てた夢だ」
二人は手を繋いだ。
温かい。
人の体温は三十七度。
生きている証。
「未来はどうなるかな」ミハルが尋ねた。
「分からない」青年は正直に答えた。「熱力学第二法則によれば、未来は予測不可能だ。無数の可能性がある」
「怖い?」
「少し。でも――」青年はミハルを見た。「お前と一緒なら、大丈夫な気がする」
ミハルは微笑んだ。
「私も」
二人は抱き合った。
星空の下で。
静かに流れる時間の中で。
不可逆の未来へ向かって。
---
それから何年も経った。
青年――もう青年とは呼べない年齢だが――は、研究所の庭で花に水をやっていた。
髪に白いものが混じり始めている。
身体も、若い頃ほど動かない。関節が軋む。
相転移の後遺症は、完全には治らなかった。
時々、関節が痛む。古傷が疼く。
だが、構わない。
それも、生きている証だ。
「お父さん」
声がした。
振り返ると、小さな女の子が走ってきた。
五歳になる娘だ。黒い髪、大きな目。
「どうした?」
「お花、きれい」女の子は笑った。純粋な笑顔。
「そうだな」
女の子の手を取って、一緒に花を見た。
命は巡る。
親から子へ。世代から世代へ。
エントロピーは増大し続けるが、生命はその流れに逆らい続ける。
秩序を保ち、情報を伝え、次の世代を育てる。
それが生命の奇跡だ。
「お父さん、昔何してたの?」女の子が尋ねた。
男は考えた。
何と答えるべきか。
真実を? それとも――
「色々あったよ」男は微笑んだ。「でも、今はお前のお父さんだ。それが一番大事なことだ」
「うん!」
女の子は無邪気に笑った。
その笑顔を見て、男は思った。
自分は正しい選択をした。
人間として生きる選択を。
愛する選択を。
家族を持つ選択を。
それは、組織が想定していなかった未来だ。
実験体No.0の、予測不可能な人生だ。
そして――それこそが、最高の復讐だった。
カルノーは言った。「人間は予測可能だ」と。
だが違った。
人間は、予測不可能な存在だ。
感情があるから。愛があるから。
その不確実性こそが、人間の強さだ。
男は娘を抱き上げた。
「さあ、お母さんのところに帰ろう」
「うん!」
二人は研究所に戻った。
ミハルが待っていた。彼女も歳を取ったが、笑顔は変わらない。目尻に優しい皺が刻まれている。
「おかえりなさい」
「ただいま」
三人は抱き合った。
温かい。
生きている。
そして――幸せだ。
これが、エントロピーの増大する宇宙で、局所的に秩序を保つということ。
これが、熱的死へ向かう世界で、意味を創り出すということ。
これが――人間として生きるということ。
男は窓の外を見た。
夕日が沈んでいく。
一日が終わる。
だが明日、また太陽は昇る。
そして新しい物語が始まる。
不可逆の時間の中で。
エントロピーの海の中で。
それでも――
生きていく。
## 終章
ある研究論文が、科学雑誌に掲載された。
タイトルは「生体系における相転移現象の観察と応用」。
著者は相転ミハル博士。
論文は、人間の可能性について論じていた。
限界を超える瞬間。相転移の瞬間。
それは、物理的な現象であると同時に、精神的な現象でもある。
人は変われる。
過去に縛られず、新しい自分になれる。
それが、相転移理論の本質だった。
論文の最後に、こう書かれていた。
「本研究は、亡き父・熱海誠一郎博士の理論を基礎としている。そして、一人の特別な協力者の存在なしには成し得なかった。彼は――かつて闇の中にいたが、今は光の中で生きている。彼の人生こそが、相転移の最も美しい証明である」
その協力者の名前は、記されていなかった。
だが、知る人は知っている。
かつて逆井零と呼ばれた男。
暗殺者だった男。
実験体だった男。
そして今――
ただの人間として生きている男。
彼の物語は終わった。
だが、新しい物語が始まっている。
彼の娘の物語。
彼の家族の物語。
彼が救った人々の物語。
それらは全て、エントロピーの増大する宇宙の中で、小さいが確かな秩序を作り出している。
そして――
それで十分だ。
完璧な秩序など、必要ない。
完璧な効率など、必要ない。
人間には、不完全さがある。
無駄がある。
感情がある。
だからこそ、美しい。
だからこそ、生きる価値がある。
熱力学第二法則は、今日も変わらず支配している。
エントロピーは増大し続ける。
宇宙は、ゆっくりと熱的死へ向かっている。
だが、その長い旅路の途中で――
無数の物語が生まれ、紡がれ、そして語り継がれていく。
これは、その一つ。
暗殺者が熱力学を学び、人間性を取り戻した物語。
不可逆の選択をし、新しい未来を掴んだ物語。
そして――
愛を知った物語。
---
**エントロピーは増大する。**
**だが、その過程で新しい何かが生まれることもある。**
**それが、熱力学が教えてくれた、最も美しい真実だった。**
---
【完】
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## あとがき
この物語は、科学と人間性の交差点で生まれた。
熱力学第二法則――エントロピーは常に増大する――という冷徹な真理と、それでも意味を求めて生きる人間の姿を描きたかった。
主人公・零は、組織によって作られた「完璧な兵器」だった。だが、熱力学を学ぶことで、自分自身の存在意義を問い直す。そして最終的に、人間として生きることを選ぶ。
この物語のテーマは「不可逆性」だ。
時間は戻らない。選択は取り消せない。エントロピーは減少しない。
だが、その不可逆の流れの中で、私たちは新しい何かを創り出すことができる。
愛、友情、家族――それらは熱力学の方程式には現れない。
だが、それこそが人間を人間たらしめるものだ。
読者の皆様に、この物語が何かを残せたなら幸いです。
---
**【熱殺―暗殺者は熱力学の夢を見るか―】**




