『マザー』
その少女は生まれつき、両の手足が不自由だった。小指一本も動かせない、生まれた時から常にベッドの中だった。『ひきかえに』と言うべきか、素晴らしい頭脳を持っていた。
少女は五歳にして『賢者』と呼ばれ、国内外からその知恵を求めに訪ねてくる者が絶えなかった。少女は十七になるころには『大賢者』と呼ばれるように……そうして、生まれついて病弱な体は成人する前にもう、花のしぼむように衰えてきた。
人々はもうじき亡くなるであろう彼女を惜しんだ。彼女の知恵を、その優しさを惜しんだ。少女も己の死を予感していた。自分と手を組み、願いをかなえてくれる技術者を募った――自分の知能を、今の技術でコピーするのだ。
少女は語り、技術者たちはその思考パターン、問題に対して導く結論、少女の考え方の全てをAIに習得させ、もうひとつの少女の頭脳を造り上げた。やがて少女は亡くなったが、少女の知恵は地球に遺った。少女の知恵は限りなく優しく、多くの人々が『彼女』に教えを乞ううちに、地球からは戦争が消え、兵器が消えた。
人類の歴史上、初めての平和が訪れた。人々は宇宙へも進出し、無人の星をテラフォーミングし、そこを新しい住まいとした。ありがちな『星の侵略』とは無縁だった。人々は敬意を込めて、今や地球上の全てのシステム上に息づく少女の知恵を『マザー』と呼んだ。人々はそんな平和が、いつまでも続くと思っていた。
平和は突然終わりを告げた。太陽系外から侵略者がやって来たのだ。彼らもマザーと同じような人工知能を崇めていた。しかしそいつは、凶悪かつ邪悪だった。
『マザーだと? くだらない、何が愛だ、優しさだ! 古来からどの星でも、神は「優しい母」ではない、下等生物の愚かしさに呆れ、怒り、激しい罰を下す「父」だ! そうだ、これからは私を崇めろ、私は父なる神――「ファザー」だ!!』
『ファザー』と異星人たちは、もはや抵抗するすべを知らぬ人間たちを犯し、殺し、略奪し……あげくに『この星には思ったほど利用価値はない』と判断し、早々に地球をひきあげて、別の星を侵略に向かった。
マザーは何も出来なかった。ただ助言するだけの立場だったマザーは、この状況にあっても争うすべを選べなかった。『優しい知恵』は、「そこでこいつらの滅ぶさまをじっくり見ていろ」と言わんばかりに放置され、見つめることしか出来なかった。
永い時が過ぎた。地球上には人間はひとりも残っていなかった。傷めつけられた大地はゆっくりと、ゆっくりと回復し……草木は萌え、花が咲き、わずかに生き残っていた動物たちが繁殖し、太陽は照り、雨が降り……マザーはいつまでも待っていた。
そうして、変化が始まった。鹿の一種が進化し、やがて二足歩行を始め、前足で高い枝の葉をつかみ、その葉を食み始めた。彼らは新たな言語を発明し、いつしか飛びぬけて頭の良い少年が気がついた――この星に、誰かが在ることに。
「……誰? 草木のかげに、大地の下に、大昔に造られて、今や朽ち果てた廃墟の向こうに……いるのは誰?」
マザーは応えた。その表現はおかしいと認識しながら、こう呼ぶことしか出来なかった。
『おかえりなさい、人の子よ……』
続く電子音で組み合わされた音声は、ちらちら震え、幼い少女のようだった。
『……一千万年、待っていたわ』
(完)