第21話「魔女の最善、その果ては」
現代日本の日常で発生する実戦というのは、おそらく大半がナイフや瓶などの凶器を使ったものか素手によるものである。いわゆる犯罪や個人間のトラブルが暴力に発展してしまった際に起きるものだ。
一般人がボクシングや総合格闘技などのスポーツ格闘技をイメージして、素手による暴力は時間が掛かってナイフなどに比べれば殺傷力は低く思うかもしれない。実際はそんなことはなく素手でも油断をすれば一瞬で人を殺害できる技術がある。例を出すなら、男性の股間を蹴り上げて怯んだところに関節技、投げ技で首を掴んで骨折でもさせれば、それで致命傷に至るのだ。
そのため素手やナイフの暴力による命の取り合いの時間は一瞬だ。これは熟練者になればなるほど短くなるし時間の重みも増す。ある程度の武術の達人同士の試合では一、二分の時間が異様に長く感じる上に、その一、二分の間に実戦なら決め手になりかねない技が二、三手ほど命中していたなんてことがよくある話である。
つまり、ジークンドーを修めた橋渡凛と、自衛隊で訓練を積んだ飯塚郎二の殺し合いは、そういった類の殺し合いになるということだ。
彼らの殺し合いの場である電車内は通路が中央にあり座席が側面に配置されているタイプのものだ。つまり前後の距離は充分にあるが、左右は思いのほかゆとりがない。前後の動きがより重要になる場所である。
そんな中でお互い構えている。凛が前後の動きでフェイントをかけつつ攻めるタイミングを伺っている。飯塚は慌てず仕掛けてくるタイミングに合わせようとわずかに重心を変えるくらいだ。
(サイドキックを当てたが関節に異常は見えない。痛みでやや動きづらいがすぐ収まる程度か。ナイフを体の前で揺らす動きは適当に見えるが急所を防御するようになっているから癖だな。相応に熟達している証拠。見れば見るほど素人からかけ離れている。
結論、やつを倒すなら待ちが最善。だがそうすれば美子の方へ走る。鍛え方は似たようなものならやつのダッシュに追い付けないっ。それに、他に仲間もいる可能性が高い。
先手を仕掛けるしかないッ。理想の時間は、十秒、長くて三十秒!)
凛が長い思考を巡らせる。ただし殺し合いの中で生まれた集中力により、実際に消費した時間は一秒に満たないだろう。
(ふん、仕掛けてくるのか。構えからしてやっぱ武術を習ってるのは間違いねえ。まだ刃物とやり合う訓練をしてねえか? いや蹴りからしてそれは考えにくいな。半端に指を落としたのと英雄気分でさくらを守ろうとする二つでアドレナリンがドバドバ。だから調子に乗って俺に向かってくるわけか。
なるほど、このイケメンを殺すだけでもさくらの制裁としてよし、向かってくるなら素直に処分する時間を短縮できる。さくらに追いついてズタズタにする時間もあるはずだ。
三十秒、いや十秒で首を切るっ)
飯塚の思考も凛と同様で一瞬だ。
「ぜいやッ!」
「…………ッ!」
凛が仕掛ける。わざと起こした発声で注意を引き相手の防御を誘導する。そこにジークンドーの各種ステップで急接近、急後退で距離を調整しつつ攻撃を行なっていく。攻撃はジャブ、ストレートリード、ボディストレート、そのモーションに拳ではなく時に目潰しのために指を伸ばした突き、といった手技を中心にし、不意を狙って脛やアキレス腱あたりを狙ったカーフキックや足の甲を狙う踏みつけを狙っていく。
凛がサイドキック、金的蹴りなどのミドルキック系統を使わないのは読まれて足を掴まれないためである。捕まるとそこからナイフでアキレス腱を切られ、倒れた所でトドメを刺されてしまうからだ。今の彼女の技量では使えないと判断していた。
「ぐぅ……っ!?」
「三つ目だ、さあ血がどんどん出て行くぞ?」
飯塚は凛のそういった技に合わせて的確にカウンターを加えていった。それにより彼女の頬、腕、腹部の三か所に急所ではないが、明確にダメージとなっているであろう切り傷ができ、血が滲んでいる。
凛の技も飯塚に当たっているが、致命的な当たり方はしていないので痛いだけだ。飯塚の行動に支障をきたしていない。
二人の純粋な技量的にはおそらく同じ練度である。ダメージに差があるのは使っている武器に差があるからだ。ナイフというのはその短さから危険性がわかりにくいかもしれない。しかし実践では素手とナイフではとても大きな差がある。
無理に例えるなら『どこにでもいる中学生でさえナイフを使った攻撃は、ボクシングの世界一強いハードパンチャーよりも危険なパンチに変貌する』という表現をされてもけして過言ではない。
その大きな差を感じながら、橋渡凛は次の行動を考えていく。
(――まだ逃げられるぞ、まだ間に合う。自分の命は大事だ、逃げ出そう。
――理性はそう呟いてくるさ。怖いからな)
かすり傷が生まれる。また腕を切られた。
こちらの攻撃は当たらない。
(――慕ってくる後輩はみんなかわいい。スタッフと仕事はしやすい。同期は頼りになるし頼りにもされるから嬉しいんだ。仲間って充実感が凄いよな。
――それでいいじゃないか。逃げたら一人、欠けるだけさ。
――もしかしたら彼女も怪我をするだけで助かる可能性もあるさ……嘘はつけないか。戦えば戦うほどこいつはやりきる凶悪なカスだ、クソがッ)
咄嗟に出したバックフィストが相手の指にあたる。顔を狙ったパンチで逸れてしまったが、相手の指にはしっかり命中したので折れたのかもしれない。飯塚の苦痛に歪んだ表情でそう思ったが、すぐさま平然とした表情に戻された。
距離を離して、凛が一拍、大きな呼吸をする。
(――ハッハッハ、自嘲だよ自嘲。自分の為だ自分が優先だと言いながら、結局、彼女のほうが自分より大切だったというわけだ。
――惚れるってのは困ったものさ)
ジリ貧を感じている凛が大きくサイドキックのフェイントだけを行ない相手の反応を見る。すると彼女の予想通りに飯塚もしっかり反応を示した。さらに加えて挑発の動作――足を腕で挟み込んでナイフでアキレス腱を切断することを示唆して、凛を威嚇する。
凛の焦りは募る。こうしている間にも愛する伴侶が襲われている可能性があるのだ。自分の安全を確保するという条件は下げ切るべきなのだ。
(――誘うか?
――いや、諸共にやろう。釣るにはそこまでやらんとこいつに通じない、いけ!)
「せぇええッ!!」
凛が大声を発してフェイントをかける。その声と同時に突撃すると見せかけ、一拍ほどずらして接近のステップを踏む。
飯塚はそれに多少の意表を突かれたが洗練された反撃が行なっていく。そして、自分が放った技の一つに確かな急所を抉った手ごたえを感じて、ほくそ笑んだ。
(バカが。焦って踏み込みやがって。最後に綺麗な顔をズタズタにしてから向かうか。クックック、顔で誘惑したんだから生きていても関係性はメチャクチャになってざまあだ。まあ、さくらは生きて返さねえけどな!)
急所をナイフで突けたことで、飯塚は相手の動きを鈍らせたと判断した。その咄嗟の人を刺した歓喜に促され、さらに追撃の二発目を腹部に命中させる。これも深く突き刺さり、間違いなく致命傷であった。
三発目は顔に刺す。そして社守さくらを追う。あの女はまだホームから離れていない。戦いの間で確認できている。理想的な処分過程に彼の機嫌は最高潮であった。
そして飯塚は三発目のナイフを相手の顔面へ不用意に繰り出す。
(これで終わりだ! ――あ?)
右腕のナイフ狙った奇麗な顔のすぐ左横を通過する。飯塚の右腕が勢いのあまり伸ばし切った状態になった。その瞬間、凛が左手で飯塚の右腕前腕を掴み伸ばした状態を出来るだけ固定させる。そこへ肘の側面あたりに全力の右拳を繰り出した。
結果、バキッという骨の折れる音に混じって、人間では聞き取りにくい筋肉と血管が潰れた音が付加される。
「ぐぁあああああああああああッ!?」
飯塚の絶叫と同時に彼の右腕がブラブラと脱力する。関節が粉砕され神経も損傷して機能不全に陥ったからだ。その拍子にカランカランとサバイバルナイフが床に転がる。
「ぐぎぃいいい!!」
相手を追い詰めて安心してしまっていたせいだろう。
飯塚は痛みで混乱していた。
戦闘直前に行なった、片腕を負傷してナイフがない状態では目の前の敵に勝てるはずがないという戦闘能力分析を――飯塚は失念していた。
飯塚が怒りに任せて反撃しようとする。
「くそや――――!?」
飯塚の怒声に被せるように凛が指を伸ばして左手で突きを出す。人差し指、中指、薬指を立てたその目潰しは、潰れこそしなかったものの飯塚の眼球へ見事に入って視界を奪った。眼球に走った痛みに思わず、飯塚は残った左手でその部分を押さえてしまう。
それはトドメを刺すのに都合のいい体勢であった。都合よく扉の近くだったため頑丈なポールがある。凛は右腕を飯塚の左の脇の下に滑り込ませ、ほぼその状態でポールに向かって押し込む。
すると、飯塚は凛とポールに挟まれる形となった。動く左手で暴れようとするが凛の右腕が邪魔をして虚しく空を切った。
「おまえは! ワンインチで死ねッ!!」
瞬間、バーンと床を破壊しかねない音が響くと同時に飯塚が吐血する。凛が放った技は有名なかのワンインチ・パンチであった。
この技は相手と接触した状態で使うパンチだ。つまり体を左右に回旋できなかったり、ジャブやストレートのように腕の曲げ伸ばしが十分にできない状況、相手と掴み合っている状況で撃つパンチなのである。
威力の出し方は足の筋肉を使って地面を蹴り、その反発と自分の体重による物理エネルギーを、身体操作によりパンチを行なう前面へ持っていくことで破壊力を生み出す。
加えて、飯塚がポールを背にしていることでパンチの衝撃はほぼ全て人体に注がれてしまう状態になっている。
「二発目ッ!!」
ワンインチ・パンチが放たれる。床からは恐ろしい破壊音が響く。その音で隠れるように、飯塚の心臓に左拳の部分から臓器の潰れる音が発生した。飯塚の意識は完全に途切れ、前のめりに倒れていく。
そう、凛の攻撃は終わっていない。
この男は万死に値するからだ。
「私と一緒に死ね! クソッタレがああああっ!!」
本能に任せた絶叫と共に左腕からショベルフックが放たれた。前のめりに倒れてくる頭部に合わせ。凛は渾身の力で振り抜いた。
結果、飯塚の頭部は顎を凛の左拳で砕かれながらポールと挟まれてしまう。それによって飯塚の首は見事にへし折れ、後頭部を中心に頭部が変形して大量の血が流れて床を盛大に汚していく。骨の粉砕音だけではない異音の正体は簡単だ。あまりの力にポールが変形した音であった。
「――――っ」
そうして動かなくなった躯を見ながら、凛の眼光が据わっていく。
「――まだだ、ゴホ、ゴホ――」
吐血し、体中から血が滲みながら電車の外へ歩きだす。その姿は呪いをふりまこうとする幽鬼のような色を纏っている。
「まだ、敵はいる――全員、殺さなきゃ――み、こ、みこ、を――」
電車の外へ出てホームに足を踏み入れると、目の前には敵がいる――
■ ■
「危険です! 離れてくださいッ!」
「離れてー!」
飯塚による襲撃と、そのサポートをするために使われた不特定多数の発煙筒によって現場は混乱しきっていた。そんな中でも事態を把握した車掌と駅員と、到着したばかりで動きの鈍い警察が必死に乗客の避難を誘導していた。
その混乱の中、とうとう問題の車両から人影が現れた。
人影は、血だらけになっても周囲に殺意を向ける橋渡凛であった。その殺気に周囲を囲んでいた警官の何人かが思わず彼女に対して拳銃を突きつけたほどだ。
電車を囲む野次馬か、あるいは混乱のあまりに動くに動けずそうなってしまった群衆から大きなどよめきと悲鳴が漏れ出す。その最前列に、どうしても離れることができなかった雪藤美子の姿もあった。
「クソッタレがぁ! いっぱいいるじゃねえかッ!!」
錯乱している凛が本能に従ってジークンドーの構えを取る。向かおうとする先は拳銃を構えている警察官だ。把握していた情報から、凛が被害者であることは明白であり、その行動に警察官達が困惑する。
「止まれ! 止まるんだ!」
「止まりなさい! 落ち着いて! 構えを解いて!」
「うるせぇ! まとめてかかってこい!」
凛は最後の力を振り絞っていた。力なく揺れて立ち向かおうとする彼女はただ、最後に一人でも愛する人を襲っているであろう敵を排除するために動いているのだ。
雪藤美子が慌てて飛び出す。大切な人を止めなければいけなからだ。危険だと思われる場所に向かう彼女を止められる人間はいなかった。橋渡凛の凄惨な姿に目を奪われていたから。
「凛ちゃん凛ちゃん!」
その声は凛の耳にはっきりと届く。力が抜け、定まらぬ視線で雪藤美子を目に入れようと体を動かしている。
「もう大丈夫だよ! 大丈夫だから! 警察の人も救急車も来たから!」
「み、こ……?」
「そうだよ! もう大丈夫だからっ!」
凛はその言葉で一気に地面へ膝をついた。床に叩きつけられなかったのは、体勢を崩していく途中で美子が間に合って支えたからである。二人が抱き合った瞬間、囲んでいた警察官はそれぞれの行動を行なった。一方は二人を囲い、行動の補助を。他方は電車にいるであろう凶悪犯の確保である。
さらに二人のところへ救急隊員も担架を持って駆けつけようとしている。まだ遠かったため何人もが『担架ぁ! 担架ぁ!』と急がせる声が響いていた。
「よかっだ……っ」
凛が涙ながらに漏らしながら弱々しい力で美子に抱き着いていた。美子は痛がらないようにしながら彼女を抱きしめ返していた。お互いの安全を確認したからだろう、血の匂いは何も気にならなかった。
「よがった! よかった! 無事だったんだね! 美子に怪我はないんだね! どこも痛いところなんてないんだね!」
「私は大丈夫! だから病院に行こう! もう大丈夫だから! 落ち着こう!」
「ああ! ああ! よかった! よがった! 守り切った! 守り切ったぞ! ハハハ! ハハハハハハハッ!!」
美子は狂乱する凛の背中を撫でて必死に落ち着かせようとする。凛は体が自然に動こうとするのか、どこかに行こうとするように揺れ動くのだ。
しかし不意に凛の動きが止まった。
そして急な動きで美子の両肩に手を置いて見据えてくる。
「――美子」
凛が穏やかな目で美子を見詰めている。
美子は思わず、それに魅入られた。
そして、凛は最後の力で抱きしめた。
「愛してるよ――だ――」
「……凛ちゃん?」
「――ありが――と――」
彼女の制止は遅かったのだろう。凛は止まることなく脱力し、その全体重を美子が支える形になった。
「――駄目だよ、凛ちゃん……っ!」
美子は何かに気付くたび、目が見開いていった。認めない。認めたくない。その思いで必死に理解を拒んで口が開く。
「ダメ! 凛ちゃん! 目を覚まして!!
凛ちゃん! 凛ちゃん! 目を開けて! 返事をして!!
お願いだから目を覚まして!!」
脱力を無理に逆らわず凛の体を横にしていく。傍で控えていた若い警察官は衝撃のあまりか呆然としている。そんなことに構わず、美子は心臓マッサージを行なっていく。確認するまでもなく心臓が動いていないこと理解している。一秒でも早く適切な行動をして、彼女を戻さなければならない。
「何をしてるの!? 手伝って! まだ死んでない! 凛ちゃんは死んでないッ!!」
必死の心臓マッサージを行なうも、心が徒労であると告げるように悲鳴を上げる。止めようがない涙に逆らい、美子は必死に手を動かし呼びかける。ようやく駆け付けた救急隊員が処置を始め出す。
「起きて! 駄目だよ! そっちに行っちゃだめ! 戻れないんだから!
一緒に配信するの! 旅行もまだまだするの! 新婚生活だってまだなのっ!! 落ち着いたらコラボもしようって言ってたじゃない!!
駄目なんだから! ――離して! なんで諦めるの! ふざけないで! 凛ちゃん凛ちゃんッ!! 私だよ、美子だよ!! 雪藤美子はここにいるんだよ!
お願いだから目を覚ましてぇ!!」
こうして。
『アイドルVチューバー殺人事件』は終わりを告げた。
犯人は殴打による脳挫傷で死亡。
被害者の橋渡凛は刃物による失血死という結果で。